![]() 主演は、あの“スティーヴ・マックイーン”であります。「大脱走」、「ブリット」、そして「タワーリング・インフェルノ」などの好演で、一躍大スターとなり、同時に“レーシング・ドライバー”としても大変有名でありました。 そんな彼と、彼のプロ・ダクションである“ソーラー・プロダクション”が全精力をつぎ込んで製作したのが、この「栄光のル・マン」でありました。 実は、この「栄光のル・マン」製作においての過程で、数多くのエピソードが持ち上がるのですが、それを語る前に、なぜ“スティーヴ・マックイーン”がこれほどまでにこの「栄光のル・マン」製作に情熱を傾けたのかを検証してみたいと思いますので、しばらくお付き合いください。 とにかく映画「栄光のル・マン」を見たいと思う方はこちらからどうぞ!!「栄光のル・マン」へワープする! |
“モーター・スポーツへの情熱と執着” (S.マックイーンの真実?!)
![]() ![]() これからの内容は、早川書房発行の「マックイーン最後のヒーロー」から引用させていただきました。この本は、当時極度のマスコミ嫌いであった“スティーヴ・マックイーン”と個人的に話しが出来た唯一のジャーナリストである“ウィリアム・F・ノーラン”手記の限りなく真実に近い“マックイーン伝”であります。 “「母は私を生んだ時、まだティーンエイジャーだった」スティーヴは語る。「小柄でほっそりしていて、まるで小娘だったよ。母親にしては全く若く見えた。母は私にテレンスという名をつけたが、私は1度も使ったことがない。スティーヴというミドル・ネームをつけたのは父だ。父は賭け事が好きで、友人だった隻腕のノミ屋スティーヴ・ホールにあやかったのだ」 マックイーンが生まれたのは1930年3月24日、場所はインディアナポリス郊外にあるビーチ・ブローヴ病院だった。
本を見る限り、スティーヴ・マックイーンの幼年時代は、決して幸せではなかったようです。その後マックイーンは、母ジュリアの手で育てられるのですが・・・。 “「そうは問屋が卸さなかった」スティーヴは語る。「母は2,3年で私を連れてクロード伯父のところへ戻り、私をそこに預けて西へ行った。という訳で、私はそれから6年間、スレイターで伯父の手で育てられたんだ」
しかし、スティーヴ・マックイーンは、小学校時代に父親のいない淋しさを感じて、あたかも自分1人が特別な罰を受けて惨めな人生を歩まされているように思っていたようでした。後年、あらゆる形の組織化された権威に対して発揮された彼の反抗心は、この小学生時代に芽生えたのではなかと思われます。 “生涯彼を悩ませることになった難聴が始まったのもその頃だった。5歳のとき、マックイーンは中耳炎にかかり、左の奥の即頭骨に炎症を起こした。1935年当時、抗生物質と云うものはまだなく、ようやく抑えることが出来たときには病菌は中耳まで広がってしまっていたのだった。” |
スティーヴは、母ジュリアの新しい結婚相手とは全くうまくゆかず、彼は、自ら町の不良仲間に入り、再三事件を起こすようになった。
「ペーリーのやつは拳骨で蹴りやがった」スティーヴは怒りをこめて回想する。「私はやつにめったやたらと痛めつけられた…そして母はそれを止めようともしなかったのだ。母はいつだって弱々しかった。母は私に愛情を求めたが、自分から愛されようとする努力はいっさいしなかったんだ」 そんな時、スティーヴは車をとばすこととドラッグ・レースに逃避して、心の緊張と欲求不満を解消していた。13才の時、スティーヴはその新しい情熱を共に分かちあう年長の友人と一緒に、フォード60型の改造エンジンをフォードA型の車体に搭載して、強力なストリート・ドラッグスターを作り上げた。” 車に情熱を注ぐスティーヴでありましたが、義父ペーりーとはうまくいかず、相変わらず問題を起こし、警察の世話を受けることはあとを絶ちませんでした。そして、運命は、スティーヴにとって辛いものでありました。 “1944年秋、マックイーンの母親と継父は、スティーヴをサン・パナディーノ郡のチノにあるカリフォルニア州立少年院に送るよう命ずる裁判書からの書状にサインをした。そこは言うことを聞かない少年たちの家などと楽天的に呼ばれていたが、現実は少年たちを更正させる矯正施設だった。
スティーヴ・マックイーンは、大スターになってからもチノの少年院に寄付金を送ることを続けたことや(後にスティーヴ・マックイーン奨学金となる)、恵まれない子供達を見つけては赤の他人ながら援助をすることを惜しまなかったことがこの本には書かれています。しかし、それとは裏腹に自分が納得しないことに対しては、あくまでも挑戦的であったと書かれています。多くの人は、スティーヴのことを近寄りがたい男とか、変人的だと彼のことを評していることの方が多かったようです。映画でも、スタントマンはいっさい使わずに「栄光のル・マン」においても彼自身で運転したぐらいですから、彼の完璧主義は度を越えていたといってもいいのではないでしょうか。
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彼のプライベートにおけるクルマとのエピソードは、数え切れないほどありました。
このセブリングでのレースの後、マックイーンは、本気でレーシング・ドライバーになるべきかを考えたといわれています。 “マックイーンは職業上の大いなる転機に直面した。役者を続けるべきか?それとも、ジョン・クーパーとBMCからの、ヨーロッパで一緒にレースをしようという誘いに応じるべきか?” マックイーンは、2日間考えぬいて結論を出したのでした。 “でも私にはニールと2人の子供がおり、連中のことを考えなければならなかった。やはりその事が、大事だった。結局私はBMCの申し出を断った。…もし独身だったら、レースに明け暮れる生活に飛びこんでいたと思うな。” *この続きは、(PART 2)でご覧ください!! |
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