“「くるま」村の映画館”
「栄光のル・マン」
アメリカ映画1971年度作品
 今回の上映は、1971年に公開された「栄光のル・マン」です。 
主演は、あの“スティーヴ・マックイーン”であります。「大脱走」、「ブリット」、そして「タワーリング・インフェルノ」などの好演で、一躍大スターとなり、同時に“レーシング・ドライバー”としても大変有名でありました。 
そんな彼と、彼のプロ・ダクションである“ソーラー・プロダクション”が全精力をつぎ込んで製作したのが、この「栄光のル・マン」でありました。 
 実は、この「栄光のル・マン」製作においての過程で、数多くのエピソードが持ち上がるのですが、それを語る前に、なぜ“スティーヴ・マックイーン”がこれほどまでにこの「栄光のル・マン」製作に情熱を傾けたのかを検証してみたいと思いますので、しばらくお付き合いください。 

 とにかく映画「栄光のル・マン」を見たいと思う方はこちらからどうぞ!!「栄光のル・マン」へワープする!

 
“モーター・スポーツへの情熱と執着” (S.マックイーンの真実?!) 
 “スティーヴ・マックイーン”といえば、西部劇の花形スターであったり、または、「大脱走」に代表されるアクション・スターであったりと、大活劇スターのイメージがたえず付きまとう俳優でありました。事実、私も幼年時代、父親が楽しそうに見ていたTV映画「拳銃無宿」での“ジョッシュ・ランダル”役のマックイーンが特に印象に残っております(アメリカで放送が開始されたのは、30分番組として1958年9月6日からでありました。そして、1961年3月29日まで続くことになるのでした)。 
 これからの内容は、早川書房発行の「マックイーン最後のヒーロー」から引用させていただきました。この本は、当時極度のマスコミ嫌いであった“スティーヴ・マックイーン”と個人的に話しが出来た唯一のジャーナリストである“ウィリアム・F・ノーラン”手記の限りなく真実に近い“マックイーン伝”であります。 

 “「母は私を生んだ時、まだティーンエイジャーだった」スティーヴは語る。「小柄でほっそりしていて、まるで小娘だったよ。母親にしては全く若く見えた。母は私にテレンスという名をつけたが、私は1度も使ったことがない。スティーヴというミドル・ネームをつけたのは父だ。父は賭け事が好きで、友人だった隻腕のノミ屋スティーヴ・ホールにあやかったのだ」 マックイーンが生まれたのは1930年3月24日、場所はインディアナポリス郊外にあるビーチ・ブローヴ病院だった。 
 ウィリアム・マックイーンは父親になる事を嫌った。自分の向こう見ずなイメージに合わなかったのだ。スティーヴが生まれてからちょうど半年後、彼は妻子を捨てて出奔。スティーヴはそれを「虹の彼方へ飛んでいっちまった」と表現する。” 

 本を見る限り、スティーヴ・マックイーンの幼年時代は、決して幸せではなかったようです。その後マックイーンは、母ジュリアの手で育てられるのですが・・・。 

 “「そうは問屋が卸さなかった」スティーヴは語る。「母は2,3年で私を連れてクロード伯父のところへ戻り、私をそこに預けて西へ行った。という訳で、私はそれから6年間、スレイターで伯父の手で育てられたんだ」 
 クロード・トムスンは農場と畜産の腕でサリン郡ではその名を知らぬものがなく、彼の仕事は年々着実にかなりの利益を上げていた。スティーヴは回想する。「伯父は根っからその土地を愛していた」 
 4歳の誕生日にスティーヴはわくわくするようなプレゼントをもらった。ぴかぴかの赤い三輪車だった。マックイーンはそれがレース熱の始まりだったと主張する。「家の裏手に土の坂道があり、そこで近所の子供達と競争をした。ガムドロップを賭けてやるんだ。たいてい私が1等だった。膝小僧のすり傷がたえなかったが、大量のガム・ドロップをもうけたよ」。 

 しかし、スティーヴ・マックイーンは、小学校時代に父親のいない淋しさを感じて、あたかも自分1人が特別な罰を受けて惨めな人生を歩まされているように思っていたようでした。後年、あらゆる形の組織化された権威に対して発揮された彼の反抗心は、この小学生時代に芽生えたのではなかと思われます。 

 “生涯彼を悩ませることになった難聴が始まったのもその頃だった。5歳のとき、マックイーンは中耳炎にかかり、左の奥の即頭骨に炎症を起こした。1935年当時、抗生物質と云うものはまだなく、ようやく抑えることが出来たときには病菌は中耳まで広がってしまっていたのだった。”

 
 スティーヴは、母ジュリアの新しい結婚相手とは全くうまくゆかず、彼は、自ら町の不良仲間に入り、再三事件を起こすようになった。 
「ペーリーのやつは拳骨で蹴りやがった」スティーヴは怒りをこめて回想する。「私はやつにめったやたらと痛めつけられた…そして母はそれを止めようともしなかったのだ。母はいつだって弱々しかった。母は私に愛情を求めたが、自分から愛されようとする努力はいっさいしなかったんだ」 
そんな時、スティーヴは車をとばすこととドラッグ・レースに逃避して、心の緊張と欲求不満を解消していた。13才の時、スティーヴはその新しい情熱を共に分かちあう年長の友人と一緒に、フォード60型の改造エンジンをフォードA型の車体に搭載して、強力なストリート・ドラッグスターを作り上げた。” 

 車に情熱を注ぐスティーヴでありましたが、義父ペーりーとはうまくいかず、相変わらず問題を起こし、警察の世話を受けることはあとを絶ちませんでした。そして、運命は、スティーヴにとって辛いものでありました。 

 “1944年秋、マックイーンの母親と継父は、スティーヴをサン・パナディーノ郡のチノにあるカリフォルニア州立少年院に送るよう命ずる裁判書からの書状にサインをした。そこは言うことを聞かない少年たちの家などと楽天的に呼ばれていたが、現実は少年たちを更正させる矯正施設だった。 
そこでスティーヴは何回となく脱走したが、すぐに見つかり戻されると云うことを繰り返していた。 
「パンターさんと云う人だった。クロード伯父を思い出させる人で、厳格だったがいうことは理にかなっていた」とスティーヴは当時の監督官のパンターのおかげで将来大人になった時の生き方を教わったと云う。その後スティーヴは模範生となり、1年半の服役期間を勤めて1946年4月に出所する。その間に継夫は亡くなり、母親ジュリアは息子と再会する手はずをととのえていた。” 

 スティーヴ・マックイーンは、大スターになってからもチノの少年院に寄付金を送ることを続けたことや(後にスティーヴ・マックイーン奨学金となる)、恵まれない子供達を見つけては赤の他人ながら援助をすることを惜しまなかったことがこの本には書かれています。しかし、それとは裏腹に自分が納得しないことに対しては、あくまでも挑戦的であったと書かれています。多くの人は、スティーヴのことを近寄りがたい男とか、変人的だと彼のことを評していることの方が多かったようです。映画でも、スタントマンはいっさい使わずに「栄光のル・マン」においても彼自身で運転したぐらいですから、彼の完璧主義は度を越えていたといってもいいのではないでしょうか。 
 スティーヴは、人生において3度結婚しています。最初が、当時ブロードウェイのトップ女優の“ニール・アダムス”(1956年結婚、1972年離婚)、2度目が「ある愛の詩」で有名になった“アリ・マッグロウ”(1973年結婚、1977年離婚)、そして3度目の結婚相手は、モデルで当時20歳初めだった“バーバラ・ミンティ”(1977年結婚)でありました。全ての離婚の原因となったのは、スティーヴのモーター・スポーツへの過剰なまでの執念と執着であったようです。16年間も暮らしていた最初の妻“ニール”は、スティーヴの異常なまでのモトクロス・バイク熱やモータースポーツ・レースへの参加に対して当初から反対だったようですが、「栄光のル・マン」撮影におけるスティーヴ自身の“スタントマン”ぶりを見て、ついに耐えきれず、離婚を決意したと本人がコメントしています。これは、スティーブ自身も後で認めていることですが、家庭をかえりみない(?)彼の持って生まれた信念とでも申しましょうか、頑固一徹主義が災いしたといっていい事実でした。

 
 彼のプライベートにおけるクルマとのエピソードは、数え切れないほどありました。 

 “TV映画「拳銃無宿」は手堅いヒットとなり、役者生活で初めてマックイーンに着実な収入をもたらした。新しい稼ぎの中から、彼は2台のスポーツカー、黒のポルシェ356ロードスター(スーパー・スピードスター・モデル)とグリーンのなめらかなマグネシウム・ボディの英国製のレーシング・ジャガーXKSSを購入。「あのジャグはめったにない珍品だったよ」とスティーヴは語る。” 
 “スティーヴは、カリフォルニアのデル・マーとウィロー・スプリングスのロード・サーキットにポルシェで出場して続けて優勝し、前回の優勝がまぐれでないことを証明した。” 
 “お金が出ていく方としては、スポーツカーのレースが相変わらず出費の筆頭だった。その頃には彼はより速いマシン、なめらかに地をはうような「ロータス・ル・マン・マーク11」に惚れ込んで、ポルシェには見向きもしなくなっていた。「本当にレーサーらしくなりはじめたのは、ロータスに乗るようになってからだった。ずっとリラックスして、スムーズにすばやくカーブをまわれるようになったね。スピードの何たるかがわかりはじめていたんだ」” 
 “スティーヴは会社側の弁護団から法的な警告を受けた。つまり、もしレースに出て怪我をし、映画の撮影が続行不可能になった場合、全制作費弁償の訴訟を起こす用意がある、というのだった。スティーヴはこの警告を無視した。” 
 “英国の伝説的なレーシングドライバー“スターリング・モス”と初めてあったのは1959年、ところはカリフォルニアだった。スターリング・モスは語る。「行動というものの価値を信じている男という印象を受けた。高速のモーター・レーシングに関して、学ぶことはなんでも学ぼうとする男だった。真剣に耳を傾け、忠告を聞いてくれたし、実にのみ込みが早かった」” 
 “スティーヴは1962年3月、ジョン・クーパー率いるブリティッシュ・モーター・コーポレーションのチームの1員として、スターリング・モスと共にフロリダ州セブリングでのレースに出場した。セブリングは指折りの国際的大会の1つであり、それに出場するということはスティーヴが高速マシンを操る能力を備えていることを証明するものだった。マックイーンは語る。「12時間耐久レースで、ヒーレー・ル・マンをクーパーと交代で運転したんだ。7時間まではわれわれはクラスのトップをきっており、トロフィーは確実だったのだが、エンジン・トラブルが起きて戦外に落ちてしまった。それでも私はオーケーだったと思っているよ」 
 このレースを振り返って、ヒーレーの設計者である“ドナルド・ヒーレー゛は語る。「彼は非常に優れていた。レースにかかりきりになることが出来たなら、レーサーとしてかなりのところまでいっただろう」” 

 このセブリングでのレースの後、マックイーンは、本気でレーシング・ドライバーになるべきかを考えたといわれています。 

 “マックイーンは職業上の大いなる転機に直面した。役者を続けるべきか?それとも、ジョン・クーパーとBMCからの、ヨーロッパで一緒にレースをしようという誘いに応じるべきか?” 

 マックイーンは、2日間考えぬいて結論を出したのでした。 

 “でも私にはニールと2人の子供がおり、連中のことを考えなければならなかった。やはりその事が、大事だった。結局私はBMCの申し出を断った。…もし独身だったら、レースに明け暮れる生活に飛びこんでいたと思うな。” 

 *この続きは、(PART 2)でご覧ください!!

 
(GO TO TOP)(GO TO MENU)(GO TO PART2) 
このホームページで使用しました「文献」および「写真」については、著作権法で守られています、当ホームページにおいては、趣味範囲でのみ使用し、営利目的に使用しないという主旨で作成しておりますので特に著作者には届出はいたしておりません。よって、「文献」、「写真」等のコピーでの使用にはご注意ください。 
 著作権所持者や関係者の方は、何かございましたら即刻対応しますのでご連絡下さい。 
 連絡先:h-makino@mac.email.ne.jp