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“「栄光のル・マン」は偉大なる映画だったのだろうか?!”
![]() 1964年当時マックイーンは、良い映画の脚本(マックイーンが望んだという意味で)に恵まれなかったようでした。あの「大脱走」で見せた演技こそ、ファンが望んでいたものでありました。 “役者の仕事の失意から逃避するために、スティーヴはもっぱらモーターサイクル・レースに没 このように、スティーヴ・マックイーンはただの趣味の領域をはるかに超えたモーター・スポーツへの情熱をますますエスカレートさせていくのです。そして、私は、ここで新たな事実を知ることにより、マックイーンの執念のような「栄光のル・マン」製作の秘密を知るのでありました。 “1965年に爆発的なヒットを記録したマックイーン主演の「シンシナティ・キッド」のダビングの仕事が終わって、スティーヴは再度、ジョン・スタージェスと協力して「ディ・オヴ・ザ・チャンピオン」というタイトルが予定されたカー・レースの映画の企画に取り組んだ。「つらい心理的な障害を乗り越えて」世界チャンピオンの座につく、危険なF−1グランプリのレーサーを主人公にした作品だった。製作顧問には、あのスターリング・モスが予定されており、5月末の「モナコ・グランプリ」において2人は合流し計画を温めていた。スティーヴは6月の「フランス・グランプリ」と8月の「ドイツ・グランプリ」にも立会い、次ぎのシーズンにそれらのレースを「ディ・オヴ・ザ・チャンピオン」の背景に用いるための独占契約を取り付けた。
私は、1966年製作の「グランプリ」を見ていますが、決して良い出来のレース映画だとは思いませんでした。それは、実際のレースシーンと映画撮影車との違いがはっきりしており、レースマニアからすれば物足りなさを感じずにはいられませんでした。やはりレース経験者がいなければリアル感を表現できないのだとつくづく感じました。もし、この時マックイーンが、計画通り「ディ・オヴ・ザ・チャンピオン」を製作していたらどうだったのだろうかとつい考えてしまいます。その代わり「栄光のル・マン」は生まれなかったかもしれませんが・・・。
“1968年の11月、レース狂いがもとでもちあがった夫婦間のごたごたを和らげようと、スティーヴはハリウッドのディスコティック「キャンディ・ストア」でニールのために豪勢な12回目となる結婚記念日のパーティーのお膳立てをした。その席でニールはスティーヴに、もしこのまま結婚を続けるつもりなら、バイク仲間とばかり会うのをやめ、私といる時間を作ってほしいと祈願するが、その願いはついに実ることはなかった。” |
スティーヴ・マックイーンはこの後ついにあの「ル・マン」と出会うことになるのでした。仕事を口実にマックイーンは、自らのプロダクションであった「ソーラー・プロダクションズ」のカメラマン達とフランスの「ル・マン24時間レース」に立ち会ったのでした。しかし、まだ映画の企画は何もなくただのホビーとしての観戦でありました。
“「デイ・オヴ・ザ・チャンピオン」を作りそこなったことをまだ心残りに思っていたスティーヴにしてみれば、ル・マンでのレースは、以前の夢を実現するチャンスを差し出してくれているようなものだった。新聞記者を前にしてスティーヴは語っている。「長い間、カー・レースをあつかった映画の決定版を作ろうというアイデアをあたためてきた。はっきり言えば、私は今までにないとびきり最高のレース映画を作りたいんだ!」
ところで、マックイーンとニールの関係は、この映画製作の決定により、決定的な離婚原因となってしまったのはなんとも皮肉な話しでありました。 “激走!セブリング12時間レース!!”
リッチー・ギンサーといえば、当時を知っているファンは、すぐに第一期ホンダF−1の専属ドライバーだった彼を思い浮かべるのではないでしょうか。1965年のF−1世界選手権最終戦「メキシコ・グランプリ」において、彼は、最初のグランプリ勝利をホンダにもたらしたのでした。後年彼は、全くレース界から引退し、アル中となり不慮の死を遂げてしまうなんとも悲しい運命を辿るのでした(写真のポルシェ908は、日本の風戸裕が1970年に購入した同型車)。 “マックイーンはテストとして、南カリフォルニアのホルトヴィルでのスポーツカー・クラブ・オヴ・アメリカ(SCCA)主宰のイベントにそのポルシェで出場することにした。1970年2月、スティーヴは白の、地を這う908でそのサーキットを爆走し、2位の車を完全に1分近く引き離して、優勝した。
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“自動車レース歴に終止符を打つことになった経緯を語るマックイーンは上半身裸で、ジープのフェンダーにもたれてぐったりとすわっていた。
「1970年セブリングのレースが最後の大物レースだった。もちろん、映画にしたあの年のル・マンは別にしてだがね。セブリングとル・マンは世界最高のスポーツカー・イベントだ。両方に出てしまった後は、出るものがなくなってしまった」「その時までに、私はニールの気持ちまでも失ってしまっていた。私がレースで出かけたのと同じぐらい遠い所へ彼女は行ってしまった。多分、もっと遠くへ」” 1970年のマニファクチャラーズ世界選手権は、1966〜67年の“フォードVSフェラーリ”に匹敵する激闘が続いておりました。それは、年間25台製作を義務ずけられた5リッタースポーツカーで選手権が争われており、このシーズンについては、“ポルシェ917VSフェラーリ512S”の激突で沸きに沸いていたのでありました。私も個人的なことですが、モデルカー・レーシングにおいてフェラーリ512Sを所有しており、友人“ハマ”のポルシェ917と本物と同じく激闘を繰り広げていたわけであります(勝敗は、本物と同じく917優勢でありました)。
実はマックイーンは、セブリング12時間を2週間後に控えた時、彼は無謀にもモトクロスレースの大イベント「第3回レイク・エルシノア・グランプリ」に出場し、なんと事故を起こし、左足を6箇所痛めてしまっていたのでした(写真は、ギブスをはめてレースに挑むマックイーン、痛々しさが分かります!)。 “スティーヴは語る。「いいかげんな気持ちじゃないってことを、なんとしてでも証明して見せる必要があった。ある意味では、あれは私の人生で最も重要なレースだった」” マックイーンはどうにかレース出場を認められて、スタートすることが出来たのでありました。 “マックイーンのポルシェ908はスピードと馬力の点で、ファクトリー・マシンのフェラーリ512S |
“余すところ2時間となった頃、グレゴリー(1965年のル・マン優勝者)のアルファロメオが後方に落ち、マックイーン組みの908は順位が2つ上がり、驚くべきことに総合2位となって、アンドレッティのフェラーリの背後に迫った。ドラマが一段と盛り上がった。信じられぬことに、トップをきっていたフェラーリがレースから脱落したのだ。スタート後10時間30分のことであった。後1時間半でゴールである。マックイーンはその時のことを思い出して語る。「総合優勝はその時点ではわれわれのもののように見えた。ドライブしていたのはピート。彼の最後の番で、やつは最高に見えたよ」
その時フェラーリはいちかばちかの手段に出た。4位を走っていたフェラーリにリタイヤしたマリオ・アンドレッティを乗せて最後の賭けに出たのであった。 「こんなに頑張ったのは初めてだ。インディで優勝した時だって、これほどじゃなかった。今までで一番手ごわいレースだったよ。これに勝てたとは、私も運が良かったよ」これは、アンドレッティのレース後のインタビューであった。マックイーン組は、善戦及ばず総合2位でレースを終えたのだった。 マックイーンはガッカリしたか?「ガッカリなんかするもんか!」スティーヴは笑いを浮かべて言う。 「こっちより大きいマシンと対抗して、何とかしようなんてわれわれは思ってもいなかったよ。クラス優勝を狙っただけだ、総合じゃなくね。とにかくあれはすばらしかった…まったく夢みたいだったよ!」 あるスポーツ・ライターはその時のレース結果を次ぎのように要約している。「個人参加で、しかもドライバーの片割れが足を折った映画スターという1台のポルシェ908をやっつけるために、斯界のチャンピオン・ドライバーは渾身の腕をふるって、しかも強力なファクトリー・マシンのフェラーリを1台でなく2台も操る羽目になったのだった」” さあ、喜びあふれる“スティーヴ・マックイーン”は、意気揚々と、最終目的地であるフランス「ル・マン」へと向かうのでありました!! “これまでのレース映画につきものの、よくあるまやかしは避けたいと思っている。レースは美しいスポーツなんだ。私はそれを正しく映画化することに真剣になっている。もちろんこの作品の中にも衝突シーンをいくつか盛り込むつもりだ。ル・マンじゃ車は実際に衝突するからね。だがこの作品は掛け値なしにうそ偽りのないものになるはずだ。いっさいの妥協なしにね。” (GO TO TOP)(GO TO MENU)(GO TO PART 3) このホームページで使用しました「文献」および「写真」については、著作権法で守られています、当ホームページにおいては、趣味範囲でのみ使用し、営利目的に使用しないという主旨で作成しておりますので特に著作者には届出はいたしておりません。よって、「文献」、「写真」等のコピーでの使用にはご注意ください。
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