“「くるま」村の映画館” 
「栄光のル・マン」
(PART 2)
アメリカ映画1971年度作品
 
“「栄光のル・マン」は偉大なる映画だったのだろうか?!”  
 “ニコラス・キャニオンの自宅は、人やものが増えて手狭になる一方だった。ニールと2人の子供にマラミュート犬がおり、急速に増えつづける4輪と2輪の車があった…その中には新車の12気筒のフェラーリ・ベルリネッタ(ニールからのプレゼント)、スティーヴのクーパー、ジャガーXK、コブラ、英国製のランド・ローヴァー、大型のリンカーン・セダンなどがあった。” 

 1964年当時マックイーンは、良い映画の脚本(マックイーンが望んだという意味で)に恵まれなかったようでした。あの「大脱走」で見せた演技こそ、ファンが望んでいたものでありました。 

 “役者の仕事の失意から逃避するために、スティーヴはもっぱらモーターサイクル・レースに没頭、1964年の1年間に5つのトロヒィーを持ち帰った。ほとんどのレースに、彼は友人のバッド・イーキンズに整備してもらった改造したトライアンフに乗って出場した。 
 その年、マックイーンはレースにとりつかれたようになり、このスポーツに熱中するために5,6本の映画出演依頼を蹴ったほどだった。ニールは当時を回想して語る。「スティーヴは単なるローカルのレーサーじゃないこと、1流のレーサーとだって競争できることを証明しようとして躍起になっていたわね。」” 

 このように、スティーヴ・マックイーンはただの趣味の領域をはるかに超えたモーター・スポーツへの情熱をますますエスカレートさせていくのです。そして、私は、ここで新たな事実を知ることにより、マックイーンの執念のような「栄光のル・マン」製作の秘密を知るのでありました。 

 “1965年に爆発的なヒットを記録したマックイーン主演の「シンシナティ・キッド」のダビングの仕事が終わって、スティーヴは再度、ジョン・スタージェスと協力して「ディ・オヴ・ザ・チャンピオン」というタイトルが予定されたカー・レースの映画の企画に取り組んだ。「つらい心理的な障害を乗り越えて」世界チャンピオンの座につく、危険なF−1グランプリのレーサーを主人公にした作品だった。製作顧問には、あのスターリング・モスが予定されており、5月末の「モナコ・グランプリ」において2人は合流し計画を温めていた。スティーヴは6月の「フランス・グランプリ」と8月の「ドイツ・グランプリ」にも立会い、次ぎのシーズンにそれらのレースを「ディ・オヴ・ザ・チャンピオン」の背景に用いるための独占契約を取り付けた。 
 ところがマックイーンには、1966年度にヨーロッパで行われるレースをめぐって、ジョン・フランケンハイマー監督という強敵がいた。MGM社の資本をバックに、フランケンハイマー監督がスティーヴの友人ジェイムス・ガーナーを主役にしたレース映画「グランプリ」の製作準備中だったのだ。 
 …だがフランケンハイマーのほうが一足先にスタートしており、スティーヴは「チャンピオン」に取りかかる前に別の作品を2本かかえていた。そんなわけでわれわれは最終的に企画を捨てざるを得なかった。スティーヴはグランプリ・カーでヨーロッパのサーキットに挑んでまわるつもりでいたから、そう決まると本当にがっくりしていた。” 

 私は、1966年製作の「グランプリ」を見ていますが、決して良い出来のレース映画だとは思いませんでした。それは、実際のレースシーンと映画撮影車との違いがはっきりしており、レースマニアからすれば物足りなさを感じずにはいられませんでした。やはりレース経験者がいなければリアル感を表現できないのだとつくづく感じました。もし、この時マックイーンが、計画通り「ディ・オヴ・ザ・チャンピオン」を製作していたらどうだったのだろうかとつい考えてしまいます。その代わり「栄光のル・マン」は生まれなかったかもしれませんが・・・。 
 そんな1966年ごろ、マックイーンは、環境保全問題にも真剣に関心を抱いており、映画「ザ・カミング・オヴ・ザ・ロード」はそんな自然保護PR映画であり、マックイーンはナレーションを担当したのでした。さらに、チノの少年院での非行少年に対する有益な活動が見とめられて、マックイーンは南カリファルニア大学青少年問題研究センターの諮問委員会委員に任命されることになり、唯一の俳優ということで大いなる誇りを感じていたようでした。 

 “1968年の11月、レース狂いがもとでもちあがった夫婦間のごたごたを和らげようと、スティーヴはハリウッドのディスコティック「キャンディ・ストア」でニールのために豪勢な12回目となる結婚記念日のパーティーのお膳立てをした。その席でニールはスティーヴに、もしこのまま結婚を続けるつもりなら、バイク仲間とばかり会うのをやめ、私といる時間を作ってほしいと祈願するが、その願いはついに実ることはなかった。”

 
 スティーヴ・マックイーンはこの後ついにあの「ル・マン」と出会うことになるのでした。仕事を口実にマックイーンは、自らのプロダクションであった「ソーラー・プロダクションズ」のカメラマン達とフランスの「ル・マン24時間レース」に立ち会ったのでした。しかし、まだ映画の企画は何もなくただのホビーとしての観戦でありました。 

 “「デイ・オヴ・ザ・チャンピオン」を作りそこなったことをまだ心残りに思っていたスティーヴにしてみれば、ル・マンでのレースは、以前の夢を実現するチャンスを差し出してくれているようなものだった。新聞記者を前にしてスティーヴは語っている。「長い間、カー・レースをあつかった映画の決定版を作ろうというアイデアをあたためてきた。はっきり言えば、私は今までにないとびきり最高のレース映画を作りたいんだ!」 
カメラマンを連れていったのは、映画会社にバックアップしてもらうための必要資料を作るためだったのだ。レースとはこんな凄いものなんだと…。 
スティーヴは語る。「気分の高まりは口では言えないくらいだ。秒読みが始まり、観衆がぎっしりつまったメイン・スタンドの前で、レーシング・カーの長い列から我先にと飛び出すあの緊張感…まあ、そのヴァイブレーションが肌で感じられるってもんだ」 
 CBSシネマ・センター・フィルムがソーラー・プロダクションズと提携し、制作費の援助をおこなう取り決めが成立。製作開始は1年後の1970年6月と決まった。スティーヴは今度こそ絶対に後に引かないぞと決意を固めた。” 

 ところで、マックイーンとニールの関係は、この映画製作の決定により、決定的な離婚原因となってしまったのはなんとも皮肉な話しでありました。 

 “激走!セブリング12時間レース!!” 
“スティーヴが一観衆として立ち会った1969年のル・マンで小差で2位となったのは、パワーアップしたポルシェ908(3リッター)のフル・レーシング・モデルだった。特に、ポルシェのエース・ドライバーだった「ジョー・シファート」操るポルシェ908スパイダーの性能のすばらしさに惚れ込んだ彼は(CBSを通じて)その元ファクトリー・マシンを購入して、ソーラー・プロダクションズのかかえるリストに加えたのだった。スティーヴの説明するところによると…「ル・マンというのはやたらととばすレースだ・・・」 
 あそこで本物の感じをつかんで走るために908のような車に慣れておく必要があった。ハリウッドのレース映画は大半スターに吹き替えを使っているが、私はル・マンでは吹き替えの世話にはなりたくない。自分で908をドライブできないなら、映画を作る意味がない。 
 ポルシェの整備とメインテナンスには熟練した人間が必要と判断したスティーヴは、もとグランプリ・ドライバーのリッチー・ギンサーを雇った。” 

 リッチー・ギンサーといえば、当時を知っているファンは、すぐに第一期ホンダF−1の専属ドライバーだった彼を思い浮かべるのではないでしょうか。1965年のF−1世界選手権最終戦「メキシコ・グランプリ」において、彼は、最初のグランプリ勝利をホンダにもたらしたのでした。後年彼は、全くレース界から引退し、アル中となり不慮の死を遂げてしまうなんとも悲しい運命を辿るのでした(写真のポルシェ908は、日本の風戸裕が1970年に購入した同型車)。 

 “マックイーンはテストとして、南カリフォルニアのホルトヴィルでのスポーツカー・クラブ・オヴ・アメリカ(SCCA)主宰のイベントにそのポルシェで出場することにした。1970年2月、スティーヴは白の、地を這う908でそのサーキットを爆走し、2位の車を完全に1分近く引き離して、優勝した。 
その週末、こんどはニールの目の前で2度目の勝利を掴むためリヴァーサイド・ロード・レースにチャレンジするが、ギヤボックストラブルが突然起きてカーブでクラッシュしてしまう。 
しかし、スティーヴはいたって冷静に慌てるメカニックを尻目に一言言い放った。 
「新しいギヤボックスが要るな!」”

 
“自動車レース歴に終止符を打つことになった経緯を語るマックイーンは上半身裸で、ジープのフェンダーにもたれてぐったりとすわっていた。 
「1970年セブリングのレースが最後の大物レースだった。もちろん、映画にしたあの年のル・マンは別にしてだがね。セブリングとル・マンは世界最高のスポーツカー・イベントだ。両方に出てしまった後は、出るものがなくなってしまった」「その時までに、私はニールの気持ちまでも失ってしまっていた。私がレースで出かけたのと同じぐらい遠い所へ彼女は行ってしまった。多分、もっと遠くへ」” 

 1970年のマニファクチャラーズ世界選手権は、1966〜67年の“フォードVSフェラーリ”に匹敵する激闘が続いておりました。それは、年間25台製作を義務ずけられた5リッタースポーツカーで選手権が争われており、このシーズンについては、“ポルシェ917VSフェラーリ512S”の激突で沸きに沸いていたのでありました。私も個人的なことですが、モデルカー・レーシングにおいてフェラーリ512Sを所有しており、友人“ハマ”のポルシェ917と本物と同じく激闘を繰り広げていたわけであります(勝敗は、本物と同じく917優勢でありました)。 
 この1970年セブリング12時間レースは、選手権2戦目にあたり、第1戦のデイトナ24時間レースでは、ポルシェ917がデビュー・ウィンを果たしていた関係上、フェラーリの巻き返しが焦点でありました。 

 “マックイーンの白いポルシェ908スパイダー・・・ドライバーとしてマックイーンとチームを組んだのはレブロンの御曹司でスポーツマンとして知られるレーサーのピーター・レブソンだった・・・マックイーンは、速さの点で15番目とみなされており、レース通たちはその出場をあざ笑うように見ていた…クラッチ・ペダルを骨折した左足で踏もうなどと考えられる、阿呆もいいところの映画スターがステアリングを握り、しかもパワーの劣るポルシェ908で、トップ・レベルのレースに出場して超一流のヨーロッパの車とレーサーたちを向こうにまわそうと考えるなんて、いったい正気なのか?” 

 実はマックイーンは、セブリング12時間を2週間後に控えた時、彼は無謀にもモトクロスレースの大イベント「第3回レイク・エルシノア・グランプリ」に出場し、なんと事故を起こし、左足を6箇所痛めてしまっていたのでした(写真は、ギブスをはめてレースに挑むマックイーン、痛々しさが分かります!)。 

 “スティーヴは語る。「いいかげんな気持ちじゃないってことを、なんとしてでも証明して見せる必要があった。ある意味では、あれは私の人生で最も重要なレースだった」” 

 マックイーンはどうにかレース出場を認められて、スタートすることが出来たのでありました。 

 “マックイーンのポルシェ908はスピードと馬力の点で、ファクトリー・マシンのフェラーリ512Sやすばらしいポルシェ917と対抗しても、どだい勝負にならないのは明らかだった。同クラスの3リッター車の中ですらマトラ650、アルファロメオT33、フェラーリ312のどれと比べても性能的に開きがあった。 
スティーヴは語る。「われわれより大きくて速いマシンのほとんどはスタートからハードに飛ばしすぎて、12時間走るうちに自滅しちまうだろうと見込んでいた。われわれは走りを安全で着実なペースに保ち、車をいい状態にしておいて、レース終盤で取っておきの切り札を出すという作戦を取った」”

 
 “余すところ2時間となった頃、グレゴリー(1965年のル・マン優勝者)のアルファロメオが後方に落ち、マックイーン組みの908は順位が2つ上がり、驚くべきことに総合2位となって、アンドレッティのフェラーリの背後に迫った。ドラマが一段と盛り上がった。信じられぬことに、トップをきっていたフェラーリがレースから脱落したのだ。スタート後10時間30分のことであった。後1時間半でゴールである。マックイーンはその時のことを思い出して語る。「総合優勝はその時点ではわれわれのもののように見えた。ドライブしていたのはピート。彼の最後の番で、やつは最高に見えたよ」 
 その時フェラーリはいちかばちかの手段に出た。4位を走っていたフェラーリにリタイヤしたマリオ・アンドレッティを乗せて最後の賭けに出たのであった。 
「こんなに頑張ったのは初めてだ。インディで優勝した時だって、これほどじゃなかった。今までで一番手ごわいレースだったよ。これに勝てたとは、私も運が良かったよ」これは、アンドレッティのレース後のインタビューであった。マックイーン組は、善戦及ばず総合2位でレースを終えたのだった。 
マックイーンはガッカリしたか?「ガッカリなんかするもんか!」スティーヴは笑いを浮かべて言う。 
「こっちより大きいマシンと対抗して、何とかしようなんてわれわれは思ってもいなかったよ。クラス優勝を狙っただけだ、総合じゃなくね。とにかくあれはすばらしかった…まったく夢みたいだったよ!」 
 あるスポーツ・ライターはその時のレース結果を次ぎのように要約している。「個人参加で、しかもドライバーの片割れが足を折った映画スターという1台のポルシェ908をやっつけるために、斯界のチャンピオン・ドライバーは渾身の腕をふるって、しかも強力なファクトリー・マシンのフェラーリを1台でなく2台も操る羽目になったのだった」” 

 さあ、喜びあふれる“スティーヴ・マックイーン”は、意気揚々と、最終目的地であるフランス「ル・マン」へと向かうのでありました!! 

 “これまでのレース映画につきものの、よくあるまやかしは避けたいと思っている。レースは美しいスポーツなんだ。私はそれを正しく映画化することに真剣になっている。もちろんこの作品の中にも衝突シーンをいくつか盛り込むつもりだ。ル・マンじゃ車は実際に衝突するからね。だがこの作品は掛け値なしにうそ偽りのないものになるはずだ。いっさいの妥協なしにね。” 

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