ワールド・チャレンジカップ・富士200マイル・レース “1968〜69年” (1968〜69年11月23日富士スピードウェイ左回り4.3kmコース使用 周回数75周) |
69年日本グランプリの興奮が冷めやまない11月23日、興奮の“ビッグ・マシン”の対決が再び、日本レース界を襲いました。アメリカで、1966年より始まった賞金総額世界一のレース「カナディアン・アメリカンチャレンジカップ・シリーズ」通称「カン・ナムシリーズ」(以降“CAN−AMシリーズ”)は、エンジン排気量無制限のレース専門車両により争われ、FIA(世界自動車連盟)の主催する世界スポーツカー選手権の主張する一般車両を基本とする車両規定とは、はっきりと一線を引く走るためだけに作られたマシンによる豪快なレースでありました。(ちなみに、この写真のチャパラル2Eは、1/24スケールの自作モデルカーであります、あしからず・・・)そんな、“CAN−AMシリーズ”を日本で開催するという夢のような企画をした人間がいました、「日本オートクラブ」代表の塩澤進午(しおさわ・しんご)です。塩沢氏は、1966年の「インディ200マイルレース」を開催したことで有名でした。簡単にプロフィールを「AUTO SPORT」誌から引用させていただきいました。
“昭和5年 静岡県藤枝市生まれ。旧制静岡県立志太中学(現藤枝東高校)を経て、昭和28年慶応義塾大学卒。日野自動車工業の開発研究担当会社デル・レーシングモーターカンパニー代表。日野自動車レーシングチーム・ディレクターを勤める。日本初の国際自動車連盟規格によるフォーミュラカーおよび2座席レーシングカーを設計製作。自動車レース団体日本オートクラブ代表。「インディー・富士200マイルレース」をオーガナイズ。日本小型自動車振興会補助事業として「ワールド・チャレンジカップ富士カンナムレース」をプロモート。その他全国的に日本ストックカーレースシリーズなどを展開、チャンピオンをデイトナスピードウェイのレースなどに派遣した。その間日本グランプリレース大会審査委員長、JAFスポーツ委員、財団法人日本オートスポーツセンター評議員などを歴任。スピードウェイ開発プロデューサー。貸しビル業。趣味のサッカーでは、現在KBF(慶応サッカー部OB)及びSOI(旧制高校サッカーOBインターハイ)のプレイングメンバー。” 以上のことからも分かる通り、先日他界した、瀧進太郎氏とは、違った意味で、日本レース界に大変貢献していたのでは私は今でも思っております。 |
(1968年)
左の写真は、当時増刊として発行された三栄書房「デラックス・オートスポーツ 68−日本CAN−AMアルバム」であります。1レースだけの増刊とは、当時の熱狂ぶりがうかがえます。 |
“チャパラルが来ない?!”
なんとあんなに楽しみにしていたジム・ホールのチャパラルが参加しないのだ! 68年CAN−AMシリーズの最終戦“ラスベガス・グランプリ”において、ジム・ホールは他車と接触して大クラッシュをしてしまい、ドライバーのジム・ホールは足の骨を折る重傷を負ってしまった為の来日中止ということでした。大ショックでありました(写真は、ジム・ホールのチャパラルが他車に接触し宙を舞った瞬間であります)。 さらに、68年チャンピオンチームであるマクラーレンチームも参加しないこととなり、興味が正直いって半減してしまいました。やはり、チャンピオンシップのかかっていない日本のエキビジョンレースでは、トップチーム参加は無理なのでしょうか? しかし、このレースには、日本グランプリで完敗したトヨタチームが、3リッター・トヨター7を5台参加させたり、タキ・レーシングチームもローラT−70MK3を2台参加させるなど本場のレースにはない顔ぶれとなりました。さて、11月22日に行われた予選結果は次ぎのとおりです。 予選結果は、私が当時大好きだったAUTO SPORT誌のスターティングポジションを表すイラストを増刊号の「68―日本CAN−AMアルバム」から引用させていただきました。参加19台中上位10台までを表しています。 予選1位だったのは、68年CAN−AM第2戦「ブリッジハンプトン・グランプリ」で優勝し、総合ランク3位のマーク・ダナヒューでした。マシンは、実績のあるマクラーレンM6B・シボレー7リッターであり、富士スピードウェイ左回りコースながら、1分16秒81というとてつもないタイムを出したのでした。ちなみに、日本勢のトップタイムは、長谷見昌弘のローラの出した1分24秒38ですから実に8秒近くも速くまさに圧巻でした。 |
“シボレーVSフォード”
レースは、午後1時26分に元F−1ドライバーのスターリング・モスが乗るムスタング・コンバーチブルのペースカーによるローリング・スタートで始まりました。(写真の真中で先頭を走るのは、優勝したP.レブソンのマクラーレン) ホームストレートでグリーンフラックが振られスタート!!まずトップに立ったのは、M.ダナヒューのマクラーレンでした。それに続くのは、ピーター・レブソンのマクラーレンM6B・フォード。少し間があいて、各車一団となって第1コーナーへ突入。最後尾からスタートした、ニッサンチームのドライバーである高橋国光は、不調なローラT−70をあやつり一時は14番手を走る健闘を見せましたが、5周目に惜しくもオーバー・ヒートでリタイヤしてしまいました。8周目には、なんとトヨタ7の3台を周回遅れにしてしまうトップのダナヒューのスピードはすさまじい限りです。 ダナヒューとレブソンのトップ争いは、シボレーエンジンとフォードエンジンとの戦いでもありました。フォードは、まだこのCAN-AMで1966年に、ダン・ガーニーが勝って以来なく、その入れ込みも半端ではありませんでした。 2人の争いに決着がついたのは、レースも後半の66周目でした。ガス欠気味で2位につけていたダナヒューのマクラーレンがスローダウンしてピットイン、給油後ピットアウトしたが、なんとガソリンが漏れておりそれに引火してしまう不運に見まわれ、ダナヒューは、その場でリタイヤしてしまったのでした。 その後は、レブソンの独走でついにフォードエンジンの初優勝が決まりました。 また、日本車最高位は、トヨタ7の福沢幸雄であり、レブソンとの差は、なんと7周遅れという結果に終わりました(写真は、福沢のトヨタ7)。 私からしたら、ちょっと物足りない内容のレースでありましたが、本物のCAN−AMカーを見れたことで満足はしていたように記憶しています。それにも増して、ハマとのモデルカー・レーシンググランプリに破れたことの方がその日はショックだったかな…、などと思ってしまいます(笑)。 レース結果
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(1969年)
しかし、状況は、昨年と大きく違っていたのです。トヨタチームが本気を出してきたからでした。日産に連覇された日本グランプリの借りを返そうという意気込みを感じずにはいられないエントリーをしてきたのです。 私は、今回も親友ハマの家で、モデルカー・レーシンググランプリをしながらの観戦でありました。 今回のマシンは、ローラT70MK3(クライマックス社製のクリヤー・ボディ)で、シャーシは、すでに田宮製から、なんと自作パイプ・フレーム・シャーシに変わっており、ハマのニッサンR−381(クライマックス社製で、自作シャーシ)との激突が焦点でした。 |
“鮒子田 寛のマクラーレン・トヨタがすごい!!”
2回目を迎えた「日本CAN−AM」は、ワークス・チームこそいなかったのですが、オールチタニウム製シャーシを持つ“オートコーストTi22”やフォードJ(1966年にアメリカフォード車がフランスのル・マン24時間レース制覇を狙ったプロトタイプ)のシャーシを改造し、新たなボディをまとった“フォードG7A”などが参加して色を添えておりました。 また、日本のトヨタは、日本グランプリに出場したトヨタ7をCAN−AM風に改造したウイングつきトヨタ7をなんと4台参加させたのでした。その中で特に注目を集めたのが、マクラーレンM12を改造した“マクラーレン・トヨタ”でありました。 ドライブをつとめるのは、鮒子田 寛でした。これは、ボディとシャーシは、基本的にマクラーレンそのものですが、リヤエンドをカットして他のオリジナル7と同じようにウイングをつけているのが特徴であり、おもにシャーシ強度などのデータを得るための実験的な試みであったようです。 予選では、予想通りジャッキー・オリバーのドライブするオートコーストTi22が小雨模様の中1分18秒20をマークしてトップとなりました。しかし、2位にはなんと鮒子田のマクラーレン・トヨタが1分18秒52で入り、川合のオリジナルトヨタ7は、1分19秒13で3位になったのは見事でした。 その他、69日本グランプリに出場した黒沢レーシングのマクラーレンM12が2台、いすゞR7が2台、永松邦臣がポルシェ908で出場していましたが、予選は下位に低迷していました。 |
“トヨター7ついに勝つ!”
前年と比べ絶対的なスピード差はないものの前半は、完全なオートコーストTi22に乗るジャッキー・オリバーの一人舞台でした。ところが、47周目燃料ポンプの不調でコース場にストップしてしまい、これで、2位につけていた川合のトヨタ7がトップとなり、2位に大量のリードを保ちながら初優勝したのでありました(当時、大興奮のTV放映でした!)。 レース結果(上位3位まで)
このように、1969年は“ビッグ・マシン”によるレースで明け暮れた夢のような1年であったのですが、この後河合稔の事故死や、日産の日本グランプリ不参加声明などもあり、ついに1963年から始まった「日本グランプリ」が中止となり暗黒の時代へと突入するのでした。 この「日本CAN−AM」もそんな中で咲いた“仇花”に思えてなりません。 ところで、モデルカーグランプリのほうは、私が久々に快勝したと記憶しています。 ご意見・ご感想をお待ちしています。
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