『1966年日本インディ200マイルレース』
(1966年10月9日)富士スピードウェイ(左回り4.3kmコース) スタートを切るインディーカー!先頭は、ジャッキー・スチュワートのローラT90・フォード。 |
ジム・クラーク、マリオ・アンドレッティ、ジャッキー・スチュワート、グラハム・ヒル、ボビー・アンサー、ロイド・ルビーなんと懐かしい名前だろう!!こんなすごい連中が、かつて日本にやって来たことがあることを皆さんはご存知だろうか?それも、アメリカの“インディー500マイルレース”をそのまんま持って来たレースで走ったのだから、すごいのなんのって……!!そんなレースを私は、見ていたのです、小学校6年の秋に、テレビですが…、それもかなりの記憶として残っているのです。インディ500といえば、数年前まではTBS、現在は、テレビ朝日で放送されていますが、当時は、私の記憶では、TBSでの放映だったと思いますが・・・(確信がありません)。
もともとインディアナポリス500マイルレースの歴史は古く、1900年初頭に、現在のスピードウェイの場所で行われました。当時も、現在と同じ“オーバルコース”で行われていましたが、コース路面は、全て“レンガ”で覆われており、その上でレースを行ったのでありました。今も、その名残として、スタート地点に1部残されています。そんな長い歴史のあるインディ500マイルレースを日本で開催するなど、現代では、実際シリーズ戦が日本で行われていますが、1966年当時では、とても考えられないことでした。主催は、後の「日本CAN−AM」を開催した「日本オートクラブ」でありました。写真のマシンは、1960年代中盤までインディカーレースを支配していたフロントエンジンマシンだあり、1965年にジム・クラークが初めてミッドシップエンジンカーであるロータス38で優勝して以来、フロントエンジンカーは、姿を消していくのでありました。 |
ジム・クラークとマリオ・アンドレッティが来る!!
小学校6年の私は、インディ500マイルレース自体、F−1とどのように違うのかが良く分かっておらず大好きだったモデルカー・レーシングにおいても、例えばコグレ製「ロータス・フォード」は、箱絵がF−1のロータス25で、中身がインディーカーのロータス・フォードでありました。当時のメーカーでさえも区別が出来ていない状態であり、ましてわずか小学校6年の子供に区別ができるわけもなかったのでありました。 しかし、そんな子供にもジム・クラークや、マリオ・アンドレッティの名前ぐらいは、わかっていました。彼等は、F−1やスポーツカーレースにおいてすでにスターだったからです。 その彼等がやってくるのですから、私はいやがおうにも期待が膨らむのでした。写真は、1966年のインディ500におけるマリオ・アンドレッティのブラバム・フォードとアメリカの英雄AJ.フォイトのコヨーテ・フォード。楕円形の左回りコースをぐるぐる回るインディ独特のオーバルコースに合わせて当時のマシン達は、極端に右側のサスペンションアームを長く設定していることが分かる。これにより右重力によるバネ下荷重を調整しているのでした。 |
ところが、予選で思わぬ事態が発生したのでした。優勝候補のジム・クラークがエンジントラブル、マリオ・アンドレッティがギヤトラブルのため、なんと決勝出場を断念せざるをえなくなったのでした。私は、このドライバーたちを見たいがために楽しみにしていたのですから当時の落胆ぶりは半端ではありませんでした。よって、私は、ジャッキー・スチュワートとその年のインディ500優勝者であるグラハム・ヒル(現代の1996年のF−1チャンピオンであるデーモン・ヒルのお父さんです)のみに注目せざるを得ない状態になりました。写真は、1965年の優勝マシンであるジム・クラークのロータス38フォード。ブリティッシュグリーンにイエローストライプが本当にカッコ良く思えたものです。
写真左ナンバー19のレッドとホワイトのストライプのマシンが、優勝候補だったジム・クラークのロータス38・フォードでありました。クラークは、このNo.19のロータス38で1966年度のインディ500マイルレースで惜しくも連覇ならず2位となっています。 結局予選は、下記のように決定し、ジャッキー・スチュワートのローラ・フォードがポールポジションを獲得しました。 予選結果(上位6位まで)
|
フライング・スコット・ジュニア誕生!!
レースは、富士の名物である30度バンクを使わない左回り4.3kmコースを使用し、80周で争います。 しかし、インディ独特の右よりのサスペンション設定そのままの状態で臨んだマシンなどは、右コーナーはまったくスピードが出せず大変苦労していたように思われました。グラハム・ヒルはまさにそうでありました。いっせいにスタートしたあと、トップに立っていたジャッキー・スチュワートを激しく追っていたヒルは、右コーナーで極端に遅れ、ストレートで追いつくといった状態がしばらく続き、2周目に1度ヒルはトップに立つがその後L.ルビーに抜かれついに76周目のヘアピンで電気系トラブルでストップしてしまう。L.ルビー、B.フォスターとトップが入れ替わる中、その両車が共にリタイヤすることになるです。これによって、再びスチュワートがトップに立ち、結局そのままチェッカーを受けることになるのでした。(写真が優勝したジャッキー・スチュワートのローラT90フォード、そして私もいまだに持っている“コグレ模型”製の同型車) レースとしては、なんとも退屈なレースであり、野球であれば過去のショー的要素の多かった時代の日米野球のような内容であったと思われてなりません。しかし、グラハム・ヒルの来日は、これが最初で最後となったのでした。このレースに勝ったジャッキー・スチュワートは3年後F−1チャンピオンとなるのですが、日本での2度目のレースとなる1970年のJAFグランプリにおいても優勝し、日本では無敗を誇ることになるのでした。名実ともに、ジム・クラークの後継者の称号「フライング・スコット・ジュニア」の誕生でありました。 レース結果(上位3位まで)
ご意見・ご感想お待ちしています。
|