フライングスコットジュニア  
“ジャッキー・スチュワート!!”       
“出会い” (1973年11月)     
 ちょっと予定より早く着てしまった。今日は、なぜかここの様子がいつもと違っているように思う。普段、電車の車両のように連結されている”ガラスケース”や“ワゴン”がほとんど見当たらない。ただスティールの折りたたみ椅子がたくさん並べられているのがいやがおうにも緊張感をかもち出す。実は私もこの椅子に座る事になるのだが、まだ数人が座っているに過ぎない。とりあえず友人“A君”と一番前に座ることにした。     
 数10分たったであろうか、後ろを振り返ると知らないうちに立ち見客までいるではないか。     
そろそろだ! 司会者らしき人物が出てきた。「いよいよ始まる・・・。」と私は思った。     
 現れた!!     
思ったよりも“小柄”だが、体格はさすがにがっちりしている。同時に私は、同じ空間で“彼”と呼吸しているということで“感激”していた。     
“ワールドチャンピオン!!”     
そう“彼”こそ、1969年、71年、そして73年と3度にわたるワールドチャンピオン獲得という“偉業”と、当時の最多優勝記録“27勝”を保持していた「フライングスコットジュニア」こと“ジャッキー・スチュワート”その人なのであった。実は、J・スチュワートの来日は、1966年の「日本インディ200マイルレース」、および1970年「JAFグランプリ」以来、3度目の来日でありました。このレースについては、他のページに譲るとして、今回の来日の目的は、当初富士スピードウェイで行われる“国際ツーリングカーレース「インターテック」”でETCチャンピオンチームである“ドイツ・フォード・ワークス”のスーパーマシン“フォードカプリRS”のNO 1ドライバーとしての来日のはずであった。しかし、同年F−1で同じチームにいた“フランソワ・セベール”が最終戦で“事故死”したため、レース自体の安全性と自身の限界を感じ、そのレースをもって“引退”したのであった。これらの事によって、以後のレースでの彼自身が行うドライブは永久になくなり、今回は“アドバイザー”としての来日となったのでした。そして、そんなレースの合間をぬって東京の“東武百貨店”でファンとの交流会が開かれたのだった。     
 そんな中、J・スチュワートがマイクを持った! そして、われわれにドライバーとしてレースに出場できない理由を説明したのち、次の質疑応答に入っていくのでした。     
 一通り質問が終わると“景品”が当たる“クイズコーナー”が始まった。会場のファンがその答えに正解すると“J・スチュワート”本人から“景品”が渡されるという豪華なものであった。私は、「何とか1つもらいたい・・・。」という一心から最後になる問題を待っていた。     
「さて、J・スチュワートさんは、F−1グランプリに合計何戦参加されたでしょうか?」質問が終わる前に私は手を上げてしまっていた。そして、司会者が私を指すとすぐに「99戦です!」と答えてしまったのです。     
すると、J・スチュワートが笑顔で「YES!」と言ってくれました。そして、私は、彼より直接景品であった“真っ赤なタイレルF−1プリント入りトレーナー”を手渡しでもらう事になり舞台の上に上がり“世界チャンピオン”と握手をして受け取りました。感激の一瞬でした!!この感激は一生忘れないと・・・・私はこの瞬間思いました。私は、今でも鮮明にこの時の事は覚えています。     
 “「フライング・スコット・ジュニア」ジャッキー・スチュワート”こそ最後の60年代スタイルを持つレーシングドライバーであると私は思います。     
(つづく)
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