Smiley Smile
The Beach Boys
(Brother/Capitol) 1967
当時にしては破格の1年以上のレコーディング期間を費やした大プロジェクト『スマイル』は水泡と帰した。ブライアンはすっかり戦意を喪失し、ますます人嫌いになってしまった。ビーチ・ボーイズの他のメンバーからさえもひどく憎まれているに違いないと思いこむようになってしまった。
そんなブライアンを再生させるため、メンバーたちはブライアンの自宅にホーム・スタジオを作り、『スマイル』のために用意された膨大な“素材”をかき集め、ニュー・アルバムの制作を開始した。こうして67年6月から7月にかけて、ほんの一月半ほどで作り上げられたのが本盤『スマイリー・スマイル』。ビーチ・ボーイズがキャピトル傘下に設立した自分たちのレーベル、ブラザー・レコードからの第一弾リリースだった。
本盤からプロデューサー・クレジットが“ブライアン・ウィルソン”ではなく、“ビーチ・ボーイズ”へと変わっている。カール・ウィルソンが本盤を称して「誰もが満塁ホームランを期待しているときに、ぼくたちはバントしたのさ」という趣旨の発言をしていたが、本盤の持ち味を見事に集約したひとことだろう。周囲は本盤に、待ちに待った“本来のブラザー・レコード第一弾アルバム”『スマイル』の壮大な幻想を期待し、肩すかしを食らわされた。
同時に、ビーチ・ボーイズは『スマイル』の制作に没頭することで、当時ロック・シーンで巻き起こっていた新しいムーヴメントに完全に乗り遅れてしまっていた。1966年から67年というのは、まさにロック・シーン激動の時期。サンフランシスコを中心に、いわゆるフラワー・ムーヴメントが盛り上がりだした。“ラヴ&ピース”を合言葉に、既成の価値観を脱した新しいライフ・スタイルを模索しようというヒッピーたちが全米各地に登場し始めた。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が世界を震撼させ、ドアーズがファースト・アルバムをいきなり全米1位に送り込んでデビューを飾った。フランク・ザッパが既成の安穏とした中産階級的価値観に“ノー”を突きつけ、ジミ・ヘンドリックスはモンタレー・ポップ・フェスティヴァルに登場し、喝采を浴びつつ「サーフィン・ミュージックは終わった」と宣言した……。
たった1年の間に、ビーチ・ボーイズはすっかり時代遅れな存在になってしまっていたのだ。“ヒップ”な文化が急激な勢いで台頭してきた中、実態はともあれ、イメージの世界ではいまだ古い時代の匂いを引きずっていたビーチ・ボーイズは“スクエア”な文化の代表にされてしまった。そんなただ中、67年9月にリリースされた『スマイリー・スマイル』は、多くの批評家から酷評を浴びた。全米ナンバーワン・シングル「グッド・ヴァイブレーション」に加え、とりあえず最高12位まで上昇した先行シングル「英雄と悪漢」を含んでいたにもかかわらず、全米アルバムズ・チャート最高41位という地味な結果しか残すことができなかった。
ビーチ・ボーイズ・ファンの間でも、いまだ“チープでアシッド/サイケデリックな実験作”のひとことで片づけられ、あまり評価は高くない1枚のようだが、本盤は『スマイル』同様、従来のロック・イディオムの流れで理解しようとしてはいけない1枚なのだ。確かに随所にドラッグの影響を思わせるアシッドなアプローチも見え隠れするが、そうした流行の最新サウンドまで視野に入れた、より広大な“アメリカ音楽”という脈絡の中でとらえれば、また違った魅力が浮き彫りになってくる。
『スマイル』について前述したことの繰り返しになるが、本盤でブライアンが見つめているのは、ロックンロール誕生以前から現在まで脈々と連なるアメリカン・コンテンポラリー・ミュージックの全体像だったような気が、ぼくにはする。だから、むしろクラシックというジャンルで語られることが多い新旧アメリカ人作曲家たちの流れを体験するのと同じ耳で接したほうが、本盤の真価をよりヴィヴィッドに感じ取ることができるはずだ。
ゴットショークにせよ、アイヴスにせよ、コープランドにせよ、ガーシュインにせよ、そうしたアメリカの作曲家たちはそれぞれ独自の試行錯誤を繰り返しつつ、奔放に揺らめく自由なメロディをつむぎあげようとしてきたわけだが、その彼方には否応なく抗いようのないアメリカン・ノスタルジアを現出させていた。ブライアン・ウィルソン/ビーチ・ボーイズが作り上げた、この屈折に満ちたポケット・シンフォニーもまた、それと同じ力学をもって、時代を超えた輝きを放ち続けている。
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