黒船ショックで誕生したお台場
日本の帆船の20倍もある蒸気船
左はサスケハナ号右はミシシッピ−号 黒船館蔵
1853年7月8日、ペリーを司令長官とするアメリカ東インド艦隊が
4隻の軍艦で江戸の港ののど元である浦賀に入港。
ペリーが大統領から将軍宛の親書を、武力を持って江戸に上陸してでも渡すと強要。
開国を迫る
これに対し、浦賀奉行がその回答を4日待ってもらいたいと返答するも
この船でならば1時間で行けるところ故に、そんなに待てない。
ということで3日間で将軍の返事を貰うことに。
黒船来航の知らせは、多色刷りのかわら版でたちまち江戸市中に広まる。
江戸の町は今にも大戦争が起こるかのごとく右往左往の大混乱。
「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はい(隻)でよるも眠れず」狂歌
しかし、幕府のぬらりくらりの返答に、
ペリーは来春にはさらに多くの軍艦を率いて返書を受け取りに、
再び来航すると恫喝して、7月14日に江戸湾を出航。
1時間で浦賀から江戸までやってくるという黒船ショックに
8月には江戸の港の防衛のために品川沖に台場(砲台)を築くことに着手。
1番・2番・3番台場はわずか8カ月で完成させている。短期間のうちに7カ所の人造島がつくられた。
しかし、重大な問題があった。
台場に設置された大砲の射程距離よりも黒船の大砲のほうが長い。
つまり、こちらの弾は届かないという無用の長物であった。
埋立てだけで7萬5千両という膨大な金額は江戸幕府を終焉に追いやることに。
浦の風景
石垣の所は浜離宮で海に浮かぶ島が台場広重画 名所江戸百景
こうした最中の1854年3月31日に前年の予告どおり、
ペリーは再び来航して羽田沖に停泊。今回は9隻の黒船である。
左はぺ−リ−の乗るポ−ハタン号(2415t) 右は停泊中の黒船(近晴画)黒船館蔵
幕府のぬらりくらり作戦も今回は艦隊の軍事的威圧に屈服。
日米和親条約を締結。
黒船来航以来約15年後の1868年に250年間続いた徳川幕府は終わりを迎えた。
お台場と大砲台
3番は陸続きの公園になり、砲台の跡が残っている。 ブリッジから3番台場とフジテレビや日航ホテルを見る。