長谷寺 [2]

長谷寺はもう目の前だ。長い石のスロープの向こうに瓦葺きの仁王門が見えている。平安貴族の女人たちもこぞって出かけた長谷詣、いざゆかん。

突然修学旅行生たちがどこからともなく現れてきて、我々の意気込みの腰を折った。いつもなら修学旅行生には辟易するのだが、今回ほど観光客が少ないと、必ずしも悪くはない。観光の旅にはある程度の賑わいがあった方がよいことを、改めて知った。

とはいえ、セーラ服の女子高生たちに囲まれて移動するのはご免なので、入口脇にあった不動妙王を奉ってある社を見学して少し時間を潰していた。

仁王門をくぐるとすぐに、登廊と呼ばれる屋根のついた長い石段が遥かに伸びていた。腹ごなしには格好の代物だ。登廊の両側は石垣を組んだテラス状になっていて、枝を剪定されて無惨な姿となった木が無数に植えられていた。入口でもらったパンフレットを見ると、どうも牡丹のようだった。春になると、この死に絶えて肋骨がむき出しになったような枝々に生命が蘇り、4月から5月にかけての頃になると、紅白や練色の牡丹が満開に咲き誇るのだろう。

長谷寺は花の寺として有名だ。春は見事な枝垂れ桜に続いて150種7000株の牡丹が咲き、初夏は紫陽花が香り、秋になると全山紅葉に燃え、冬も寒牡丹が咲く。しかし我々の訪れた10月中旬には、ただ緑に埋め尽くされているだけだった。

隠口( こもりく ) 泊瀬( はつせ ) の山は色づきぬ
時雨の雨は降りにけらしも

<万・8-1592・大伴坂上郎女>

登廊の途中に、藤原定家塚、俊成碑があるとの案内があったので寄り道をしてみることにした。登廊から直角に伸びる脇道を少し進むと、『謡曲「玉鬘」(たまかずら)と二本(ふたもと)の杉』と書かれた立て札があり、その側には確かに2本の幹の根元がくっついた杉の木が立っていた。なんのことか分からず立て札の説明を読むと、以下のように説明されていた。

謡曲「玉鬘」と二本の杉
謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が、僧を長谷寺の”二本の杉”の下に案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという物語になっている。
玉鬘は、光源氏と契り生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あって筑紫へ身を隠すが、母に会いたい一心で筑紫から船で大和に至り長谷へ祈願のため来たところ右近と巡り会い母の死を知るわけである。
長谷寺の観音信仰は、そのような願いを示現してくれるというので、王朝時代から盛んだったという。

謡曲史跡保存会

初瀬川早くのことは知らねども
今日の逢う瀬に身さへ流れぬ

<源氏物語・玉鬘>

長谷寺は古より霊験あらたかで名勝地であったことから、万葉集、古今集、源氏物語、枕草子、蜻蛉日記、更級日記、芭蕉、蕪村など多くの作品に登場する。そんな長谷寺ならではの話だと納得はしたのだが、定家・俊成とは関係のないことのようだ。この杉のほんの少し先まで行くと確かに塚や碑があるのだが、相変わらず定家塚・俊成碑の縁起は分からずじまいであった。

元へ戻って、長谷型燈籠と呼ばれる独特の燈籠が下がる登廊を再び登り始める。先が見えたと思ったら、そこは踊り場になっていて、右に直角に折れて、更に続いている。どうやら登廊は回廊のようになって登っているようだった。昨夜ほとんど一睡もできなかったせいか、体が重く、足の運びも緩慢になってきた。

石段を登っていくと、天井に取り付けられたスピーカからひとりでに解説が流れて来た。人の往来を検知するセンサが設置されているようだ。ビームを横切るタイプかと思って柱を調べたが見つからなかったので、巧妙に天井の梁に取り付けられた反射式の赤外線センサなのだろう。

ふと後ろを振り向いてみたが、まるで人影なく、ただ長い階段と柱の作る空間が一点を目指して収束しているのが見えるだけだった。「パースペクティブ……」、昔憶えた英単語が頭に浮かんだ。

意を決してまた登り始めた。また踊り場があって、今度は左に折れていた。予想されたことだったので今度は落胆もなかった。横から茶色と白の毛をした猫が出てきて、猛烈な勢いで私の目の前の階段を走り登ると、頂上の手前で反対側の外へ出ていった。

頂上の出口では、黄色い法衣布を羽織った若い僧侶が待ち構えていて、私が最後の石段を踏むと、ご苦労様とばかりに手を合わせてお辞儀をした。私も額に玉の汗を流しながら、軽く会釈を返した。粗い呼吸のまま顔を上げると、先に登っていた妻が涼しい顔をして、私の方を見て笑っていた。

結局階段は108間、399段あったようだ。それにしても、観光旅行に来た筈なのに、どうしてこんなに体育会系の活動となってしまうのであろうか。もう石段はこりごりである。

見ると若い修行僧の側にはあの猫がいて、僧が頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めていた。

(To be continued...)

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