頭上の「尾上の鐘」や三本指の邪鬼が支える巨大な線香壺などを見ながら本殿へと入る。天井には願いをかけた寄進の額がいくつも掲げられている。仏壇の手前の蝋燭立ての下には水が張ってあって、大量の溶けたロウが醜く浮かんでいた。
3人の女子高生がなにやら真剣に見上げている。その視線の先にあるものを目にしたとき、一瞬言葉を失った。仄暗い仏壇の奥に、金色(こんじき)の巨大な仏像の顔が弱い明りに照らされて浮かび上がっていたからだ。長谷寺の本尊十一面観音菩薩立像(像高10m余、後背12m余)で、わが国最大の木造仏といわれている。左手に蓮華の挿した水瓶、右手に錫杖を持つ長谷型観音と呼ばれる独特の姿をしている。仏壇の間口いっぱいの巨大な顔面が仏体から離れて浮遊し、私の頭部を飲み込んでしまいそうだった。観音菩薩の慈悲よりも圧倒的な畏怖心が私を支配した。
観音菩薩の呪縛を解き放つ儀式のように、私は秘かに尊像をデジタルカメラのメモリに押し込めた。カメラの背面のポリシリコン型液晶ディスプレイで中を覗くと、対角2インチの小さな窓の中で、巨大な観音菩薩が窮屈そうにしているのが見えた。カメラの筐体を擦ると、ねじ穴の隙間からもやもやとその巨体を表すのだろうか。願い事を3つきいてくれることを条件に出してあげることにしよう。見張りの僧侶が巡回して来くる気配を感じて、慌ててその場を立ち去った。外へ出て、もう一度ディスプレイを覗いてみると、写真はいつもの通りぶれていた。仏罰であろうか。
憂かりける人を初瀬の山おろし
激しかれとは祈らぬものを<源俊頼朝臣>
こくもりの泊瀬の仏押し込めて
願いの呪文写真機こする<Kai>
さらに奥に進むと一切経堂と本長谷寺があったが、ともに小さな 堂宇で語るべきものはない。
石垣の上の一切経堂の中には大きな箪笥のようなものが置かれ、薬箱のような番号付きの抽斗が沢山収められていた。あのそれぞれの抽斗の中に経文が収められているのであろう。「一切経堂」というからには、観無量寿経、大日経、金剛頂経、薬師経、梵網経、華厳経、般若心教、観音経、発心因縁十王経、虚空像菩薩経などありとあらゆる経文が集めてあって、必要に応じて閲覧することができたのであろうか。現代でいうところのライブラリなのかもしれない。
本長谷寺は蔀戸の裏に板が張り付けてあって、なぜか中央部だけが15cm四方くらいの大きさにあいていた。中は暗くて、何が入っているのか一向に分からない。こういうこともあろうかと、かねてより用意しておいた秋葉原で購入したマグライトで照らしながら覗いてみた。段ボールなんかが無造作に置かれていて、なんだか倉庫として利用されているかのようだった。マグライトを振ってあちこち調べていると、突然目玉のようなものがキラリと光った。まるでこちらを睨み付けているかのようだった。ぎょっとした。内部の何者かも知れないものから、厳しく叱られたようだった。慌てて階段から飛び降りた。修学旅行の女子高生たちが何事かと、興味深そうに私の方を見ていた。
暗闇の怒れる眼 はつせでら<Kai>
五重塔、三重塔跡まで分け入ったが、まだ奥の院へと道は続いていた。後は大したものもなさそうだし、面倒になってきたのでパス。
来た道を戻って、本殿の外舞台へと出る。ここからの眺めは素晴らしい。きっと数週間後の紅葉の季節や垂れ桜が満開の春に訪れたら、抜群の眺めなのであろう。眼下には点在する伽藍や龍の背中のような登廊の甍が見渡せ、彼方には鬱蒼と繁る森と起伏の判然としない灰緑色の山々が、曇天の空の下に這いつくばっていた。
いくたびも参る心ははつせでら
山もちかひも深き谷川<花山天皇御詠>
花咲かば堂塔埋もれつくすべし
<高浜虚子>
苦労して登ってきた長い階段を今度は逆に下って、降り着いたところでトイレに入った。比較的衛生的なトイレであったが、小便器の前に立ったら、膝が笑っていた。急におかしくなって、TOTOの文字を見ながら一人で笑った。
土産物屋を一通り見て回ると、この辺りの名産物が自ずと知れる。葛、わらび餅、よもぎ餅、胡麻豆腐、三輪そうめん、そして地酒である。地酒は別にして、その他のものは例外なくどの店先にも並んでいる。昼食に出てきた胡麻豆腐とにゅう麺はこの流れを組んだものだったのだと、このとき初めて理解できた。「柿の奈良漬け」などという奇抜なものも売られていたが、これはジョークみたいなもので、観光客の関心を引くためのものなのだろう。
酒屋は異常に多い。この辺りは長谷寺の門前町として栄え、かつては伊勢参りの参宮街道としても賑わったとはいえ、わずか500〜600mの間に7〜8軒もの酒屋が現存しているのは驚きである。特に中山酒店の「こくもりの里」という地酒は、そのネーミングから強く私の興味を引いた。古くは門外不出の蔵本秘蔵の酒で、品質管理のため一般酒店では手に入らないものだという。一般の清酒よりアルコール度数が高く、コクと風味が豊かな個性的な味わいというのが謳い文句だ。ほとんど買ってしまいそうになっていたのだが、まだ旅は始まったばかりで、重い酒瓶を持って回らねばならないことを思って、泣く泣く諦めた。
三輪そうめんという名は確かに聞き憶えがある。商売をしている生家に関西方面の問屋から送ってくるお中元は、揖保の糸か三輪そうめんと相場決まっていたからだ。後で分かったことだが、三輪山という霊場が近くにあって、その付近で盛んに作られているのだそうだ。
結局ここの土産物屋街ではもみじの葉が付いた水羊羹とワラビ餅の粉とを買い、おやきという焼いた草餅を歩きながら食べただけだった。多分、ワラビ餅が食べられるのは、家に帰ってからずっと後になって、ほとんど忘れかけた頃になるに違いない。妻が「このワラビ餅の粉は何から取れるんですか?」と尋ねて、店の女主人が「ワラビです」と答える間、私は関わりのない人間の振りをしていた。
御室 斉く 三輪山見れば隠口 の泊瀬 の桧原 思ほゆるかも<万・7-1095>
土産物店街の中にあった薬局で奇妙な幟旗を見かけた。黄色の地に「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」と書いている。胃腸薬のようで、抹茶が配合されているもののようだ。まことに奇妙な名前で、なんとなく怪しくて、いやらしい印象を発散していた。
ダラダラ坂と階段を登って、駅に着いたときにはもう精根尽き果てていた。ホームのベンチに座って冷たい缶入りの紅茶を飲みながら電車を待っていると、また小雨が降ってきて、辺りが暗くなってきた。向かいのホームのベンチでは風呂敷包みの大きな荷物を背負ったお婆さんが、ひどく運行間隔のあいた電車を待ちくたびれて居眠りをしていた。
【長谷寺編・完】