近鉄大阪・山田線室生口大野駅から急行で榛原駅下車、準急に乗り換えて長谷寺駅下車。たった2駅なのにひどく交通の便が悪い。時計はとうに12時を回っていて、長針が怠惰に足を垂らしていた。
長谷寺駅で下車したのは我々を含めて3人だけだった。天候はうつろいやすく薄日も射してきたが、この駅前風景も室生口大野駅に劣らず殺風景だった。僅かに点在する土産物店もガラス戸が固く閉められ、白いカーテンが引かれていた。
駅前の案内図を見ると長谷寺へ至る道は2通りあるようだったが、一番楽そうなショートカットの道を取ることにした。駅正面の石段を降りて綺麗に敷石された参道を下っていった。
睡眠不足のせいで全身がだるく、軽い頭痛と火照りで思考がまとまらない。いつの間にか義務的に歩を進めていた。
初瀬川に架かる橋を渡って、右手に古い旅館を見ながら道案内に従って右折すると、ようやく観光地の臭いが微かにする参道へ出た。急に激しい空腹感が襲ってきたので、まずなにはともあれ食事のできるところを探すことにした。観光ガイドもなにも持っていないので、どこになにがあるのか皆目見当が付かない。
両脇に土産物屋や酒屋や茶店が並ぶようになってきたが、食欲を満たしてくれそうな店はなかなか見つからない。軒の瓦屋根が傾き、二階部分の所々剥落した土壁に格子窓があいた、今にも朽ち果てそうな店を見ながら歩いていると、「あら、どこ行くの?」、「ちょっとそこまで、うどん食べに」などという会話が聞こえてきた。引き返して今すれ違ったばかりのその人についてうどんを食べに行こうかとも思ったが、やっぱりやめにした。
途中、柿の葉寿司の文字も見える鮨屋や鰊蕎麦のメニューが出ていてる食堂などがあったが、先にもっと旨いものを食べさせる店がありそうで、過ぎ去っているうちに、とうとう長谷寺の門前まで来てしまった。二人がかりで懸命に呼び込みをやっているところがあって、「松茸ご飯 ¥1,300」の文字も見えたので、安易にそこで昼食を取ることに決めた。
招かれるままに戸口を入るとそこは古い旅館だった。玄関で靴を脱いで上がると、二階の部屋に通された。普段は客室に使っているのを、昼食時には食堂に転用していることがすぐに分かった。コイン投入口が着いた14インチのテレビ、帳場に通じるダイヤル部に樹脂製の盲蓋がついたペパーミントグリーンの内線電話、今ではほとんど見ることのなくった鳥居の形をした漆塗りの衣紋掛け、手足の触れる位置が削り取られた壁紙、煤けて醤油をこぼした跡のような色合いに染まった掛け軸、横長の奇妙な形をした底の浅い花瓶に活けられた黄色と白の菊、どれをとっても安宿の風情が充満していた。まるで35年も時代が遡ったような錯覚に襲われた。
六畳二間続きの襖を取り払ったところに、四人座りの飯台や、上面が赤い色をした折り畳み式のスチールテーブルが雑多に8台ほど無造作に並べられていた。ここでも唯一の客であった我々が、その中では一番上等に見える飯台に席を取ると、隣村から嫁に来たようなエプロン姿の若女将が粗末なお茶を入れて、白い魔法瓶を脇に置いて去っていった。侘びしい空気が毛穴の奥まで染み込んできた。
唯一の救いはすぐ裏手に流れる初瀬川のせせらぎの音が絶え間なく聞こえてくることだった。それを妻は「蝉の鳴き声みたい」といった。開け放った廊下の戸の向こうの窓から杉林が見え、鴉が一羽飛んでいるのが見えた。
石走り激ち流るる泊瀬川
絶ゆることなくまたも来て見む<万・6-991・紀鹿人>
辺りを観察するのにも飽きて、会話もとぎれた頃、ようやく食事が運ばれてきた。献立は松茸ご飯、にゅう麺、味噌だれ胡麻豆腐、たくあん、以上である。値段からいえばこんなものなのかもしれないが、雰囲気が折角の昼食をスポイルしてしまっていた。それでも妻はそれなりに満足したようで、「胡麻豆腐美味しかったね」などといっている。貧乏人の娘を嫁に貰っておいて本当によかった。確かに味そのものは悪くはなかった。
続けて独り言のように、「でも、薬味くらいはもうちょっと綺麗な容器に入れておけばいいのにね」と呟いた。薬味の七味唐辛子はハウス食品のラベルが付いた小瓶で、しかもそのラベルは相当に色纈せていたのだった。