初見仏記 [3]

1998年10月21日~10月22日

東大寺二月堂

周知のごとく三月堂の隣が二月堂だ。などと物知り顔に書いたが、正直にいうと、私はこのときに初めてそういうふうになっていることを知った。さらに一月堂もあるのだ。一体、何月まであるのだろうか?

二月堂は無料である。屋根付きの階段を昇ると、建物の周囲に張り出した回廊に出る。細君は家に残してきた子供たちの動勢が不安なのか、こともあろうにこの回廊にある公衆電話から横浜の家に電話をしている。時間を持て余した私は、ポケットを探ると邪魔な五円玉と一円玉があったので、賽銭箱に放り込んでから紐を引いて鐘を鳴らした。雨も上がってきて、西の空には黄金色の夕焼け雲が、薄紫色をした生駒連山の上に低くたなびいているのが見える。薄暮の奈良市街が、逆光になった寄棟造の大仏殿の向こうに見え、眼下に目を転じると、伽藍の甍が夜の帷に沈もうとしている。こんな心落ち着く光景を目にするのは久しぶりだ。来てよかったなと、秘かに思った。

回廊を抜けたところに石畳があり、緋毛氈が鮮やかな茶店が出ていた。ここで写真を撮りたいばかりに、緋毛氈に腰掛けて垂れ布に書かれていたわらび餅を注文した。暫くして出てきたわらび餅は、大振りの椀の底に敷かれた黒蜜の上にずっしりと重いほど盛られており、その若草色の餅の上には黄粉が広げられ、さらにその上に粉砂糖と抹茶が乗っていた。含水量が多いのか、くず餅よりもゲルの程度が低く、口に入れると融けていくような感触だった。私にとってわらび餅はこれが初体験ということもあって、まったく期待していなかっただけに、日も暮れなんとする山寺で思わず絶世の美女に出くわしたような味わいだった。値段は500円也。

雨がすっかり上がって、赤橙色に変化した夕日が不意に差し込んできた。雨に濡れた石畳や灯篭が暖色に輝くのを見ていると、幸福な気分になってくる。畳んだ傘を手に石段を下りていくと、一段毎に夜の気配が増してくる。土産物屋は皆シャッターを降ろし、辺りは静まり返っている。あれほど賑わっていた大仏殿前の参道も、今は嘘のように人影が途絶え、残照が松の木の向こうに見えるだけだ。大仏殿門は優美な三角形の屋根の輪郭だけを残して、闇の中にうずくまっている。南大門に向かって歩いていると、松林の中から、「ひゅ~~ん」と悲鳴のように鹿が鳴いた。

興福寺~猿沢の池

通りに出て興福寺方面へ向かう。正倉院展の開催を知らせる奈良国立博物館の大きな看板が目に付く。10月24日からということで、残念ながら今回は見ることができなかった。鹿が悠然と車道を横切っていて、車がみな止まってその過ぎ去るのをじっと待っている光景を目にした。効率は悪いが長閑な町だ。

10分ほど歩くと興福寺の五重塔が見えてきた。この時期、奈良の有名な観光施設はライトアップされているのだ。強烈なライトに照らされた塔は、強いコントラストを得て屹立していた。少し肌寒い日ではあったが、秋の奈良は、兼好法師も徒然草の中で述べているように、「神仏にも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし」である。人気も少なく、五重塔を独り占めしたような気分に浸れる。是非ともお薦めである。興福寺の境内では新たな発掘が行われているようで、青い防水シートで一面覆われ、囲いがしてあった。立て札には、柵より内側にはいると防犯ベルが鳴り響くとあった。

興福寺境内の隅に南円堂があって、その横の階段を下りると猿沢の池に出る。池の周りは漆黒の闇に覆われているが、所々に30cmほどの高さの石柱に十文字の切れ目を入れた灯篭が置いてある。この池に身を投げた采女の話をしながらふと池を見ると、対岸に並んだ灯篭の明かりが映って尾を引いている。目を上げると、夜空に一層黒く見える森の梢の上に、光に照らされた五重塔の尖塔が頭を出していた。風情のある光景だと思った。

市内散歩

細君が女性誌に出ていた店を見たいというので、うろうろと歩き回ってみたが皆目検討がつかない。そうこうしているうちに、また猿沢池に出てしまい、私の方向感覚は完全に信頼を失った。やむなく三条通りの土産物屋でその店のある南市町という町名をいって聞くと、先ほど通った道の側だという。そして、そこは芸妓の置屋街だったところだと教えてくれた。教えられた通りに行ってみると、今度はあっさりと目的地につくことができた。

細君が女性誌に出ていた店を見たいというので、うろうろと歩き店の名前は「ん」といって、カウンター15席のみの小さな店だが、なかなか雰囲気があってよろしい。夜のコースは8000円からだが、昼のコースは季節の味をふんだんに、先付、お椀、お造り、おしのぎ、天ぷら、炊き合わせ、雑炊、デザートの全8品で3500円とある。ただ、要予約らしい。今度もし来ることがあったら、予約して食べに来よう。(電話)0742-27-6700、昼:11:30~13:00、日曜定休

細君が女性誌に出ていた店を見たいというので、うろうろと歩きこの店の辺りでは未だに格子戸の家も散見され、一種独特な雰囲気を持った町並みとなっていて、一目で他と異なることが分かる。また、そのうちのいくつかは割烹や料亭に改装されていて、入ってみたい誘惑に駆られる。だが、これらの多くはお品書きと値段が出ていないので、入るには相当の勇気が必要だ。

奈良駅前の土産物屋で『歴史とのふれあい・奈良の仏像(上)・(下)観賞の手引』(関根俊一著・株式会社フジタ発行、各650円)という和綴じ本を購入した。この本は寺毎に所蔵する仏像が平易だが正確に解説されており、大いに参考になった。しかも安価なところが嬉しい。著者は現在奈良国立博物館学芸課勤務の文部技官で、昭和31年生まれということで、我々と同年代であることも親しみが持てる理由かも知れない。手軽な仏像解説資料を求めている人には 最適な本ではないかと思う。

まあ、こんなふうにして奈良の第1日目は終わったのだった。
それにしても肌寒い日だった。

(構わず第4話につづく)

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