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謎の菩薩坐像解説 |
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Dadaちん博士はこの菩薩坐像を目に涙を浮かべながら、いつまでも見つめ続けて
いました。その背後で惣やんは、容赦なく時を刻んでいく腕時計の秒針の動きを
凝視し、焦燥感に苛まれていたのでした。 横浜市金沢区龍華寺蔵 菩薩坐像〔脱活乾漆造 天平時代(八世紀) 像高82.0cm(現状)〕本像は平成十年六月、龍華寺 (りゅうげじ)において土蔵内の整理中に偶然発見されたものであ る。台座(岩座)天板裏の墨書銘から、龍華寺門前〔現在の洲崎 (すさき)神社の位置〕にあった龍華寺の塔頭(たっちゅう)寺 院・福寿院に本尊「聖観音菩薩」として伝来し、金沢巡礼の札所観 音として信仰されていたことが知られる。また龍華寺の記録に拠る と、同院は明治七年に本寺である龍華寺に統廃合されたことが判明 し、その後、その存在がいつの間にか忘れ去られて長らく龍華寺の 土蔵の片隅で眠っていたことになる。この福寿院は龍華寺が伝える 『福寿院過去帳』からその存在は江戸前期にまで遡ることができる ことが確認でき、本像も同院本尊としてそのことには当地に伝来し ていたとみることができるかも知れない。ただし、それ以前の伝来 については全く不明である。 発見時、像はばらばらとなって いたものの、各部の保存状態は比較的良好で、木製の両脚部と両肘 以下(現在別置保管)が江戸時代の補作となるほかは基本的に当初 のものである。現状、像表面は二層に覆われた後補の漆箔(しっぱ く)のため、いささか印象を鈍くしているが、剥落部には当初の発 色のよい金箔が残存している。造立当時は金色に輝く像であったこ とがうかがえよう。 本像を技法的にみると(1)土で 作った原型(心塑)のうえに麻布を三重に糊で塗り重ねて乾燥させ たのち、(2)像の底面、および、長方形の窓状に切り開いた後頭部と 背面からそれぞれ原型の土を除去し、(3)切り開いた長方形の窓部を 繕い、(4)木屎漆(こくそううるし)で表面を成形して、(5)さらに 地固めを行い、(6)漆箔仕上げとする、天平時代(八世紀)に盛行し た「脱活乾漆(だっかつかんしつ)造り」の技法で製作されてい る。ちなみに、今日知られる天平時代の脱活乾漆造りの作例の多く は奈良の地に集中し、その西限は香川・願興寺観音菩薩坐像であ り、東限は従来、愛知・甚目寺観音菩薩像であった。しかし本像の 出現により現存作例の東限は当地にまで遡上することになった。た だし、当初から当地に伝来したかどうかは慎重に検討がなされなく てはならないであろう。 なお、横浜市教育委員会による 新聞各紙への発表では「坐像」の表記に留めたが厳密には「踏み下 げ像」もしくは「半跏(はんか)踏み下げ像」とすべきであろう。 ただし、その呼称は一般には馴染みがなく、そのため新聞発表では 「坐像」とした。 この天平時代の左踏み下げの菩 薩像の作例には奈良・興福院(こんぶいん)阿弥陀三尊像の左脇侍 像、京都・高山寺の薬師如来坐像の左脇侍として伝来した現、東京 国立博物館蔵・日光菩薩像、あるいは『信貴山縁起絵巻』に描かれ ることによって知られる東大寺大仏殿本尊・毘盧遮那仏の左脇侍像 などがあり、また、単独像としては奈良・龍蓋寺(りょうがいじ― 岡寺)如意輪観音像や奈良・額安寺(かくあんじ)虚空像(こくう ぞう)菩薩像などが有名である。したがって同様に左足踏み下げの 菩薩の姿であらわれる龍華寺像が当初から「観音菩薩」として造立 されたかとうがについてはにわかには決し難い。横浜市教育委員会 による発表が尊名を特定せず「菩薩」坐像の表記に留まったのもそ のためである。 金沢文庫頒布写真解説より |
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