Holocaust ――The borders――
Chapter:3
隆弥――Takaya―― 第8話(最終話)
冥い闇の中。
自分が歩いていたと思った道が、道ではなくただの荒れ地だったことに気がついて、振り向く。
でも、闇が広がっているだけで何があるのかすら見えない。
光が見える。でも、それが本当に光なのか幻なのかも判らない。
昨日だと思っていた事。
それは昨日ではなくもっと以前だった――いや、あり得ないことだった。
事実はねじ曲げられ――いや、事実は曲がった訳ではない。
――これは苦行だ
握りしめた拳を開き、目を開く。
『自分』をかたどった姿で、『自分の部屋』の牢獄の中にいる自分を知る。
それを砕く事もできれば、失う事も出来る。
自分を取り巻く嘘に気づいて、それが全て嘘なのだとしたら。
――じゃあ、この俺は何者なのだろうか
唯一の真実?
いや。
自分すら、ここにいる自分すら――嘘。
――いや、嘘じゃないさ
自分ではない自分の声。
――嘘じゃあ、ない。それが事実だ
――っ!
「ふん、全く……」
『Lycanthrope』と言う名前の薬は、脳に直接影響を与えるのだろうか。
タカヤは鼻を鳴らして首を振った。
「下らない、これでも気に入っているんだ」
自分のズボンのポケットに手を突っ込んで、苛々した表情で自分の周囲に満ちる悪意に呟く。
――尤も
「貴様らの事ではない」
“Dog eye absolute thousand hand”
大慌てで一歩飛び退く。
いつものつもりで紡いだ言葉が、意味を成さずに霧散する。
――何故
冷静に判断を下す。
今は、束縛を行う事は出来ない。
韻律を整える事は出来ない。
――だから、割り込んでくるな、隆弥っ!
戦闘中に、『隆弥』に割り込まれたのはこれが初めてだった。
今までは自分の意志だけで抑えられるはずだったのに。
それでなくとも不安定になっているのに、これでは戦闘すらできないではないか。
――このままでは任務は確実に達成できない
人間外。
屈辱的なまでに、彼は後退するしかなかった。
――今はまだ駄目だ。
これから、だがまだこれからだと言うのに
異常。
彼は彼自身に起きている異常に、まだ気がついていなかった。
まだ今まで通りのつもりだった。
それが、さらに彼を惑わせる事を、まだその時は気づいていなかった。
雨が降り風が吹き、たとえ地上が洗い流されるようなことがあったとしても――
この苦行は続くに違いない。
――ミノル――!
「…これ、わすれものだよ」
小さな少女の手。
差し出された小さな掌の上に載せられた銀色のメダル。
鈍色に輝くそれを、彼は一度つまんで自分のポケットにつっこんだ。
無言で――なにより恥ずかしさの方が先に来てるから――しばらく、ほんの少し躊躇うように彼女を見つめて、少年は言う。
「おれい」
ぶっきらぼうに、彼は、もう一度自分のポケットに手を入れると、先程出したメダルを渡した。
「どうしたの?」
真後ろから声をかけられて、実隆は振り返った。
菜都美がお盆にお菓子とお茶を載せて、入り口に立っていた。
入り口のふすまを閉めずにとことことそのまま近づいて、備え付けの机にお盆を載せる。
「いや」
実隆は、身体を預けるようにして窓から外を見上げていた。
この部屋は腰の高さに窓の桟があり、人が外に落ちないように簡単な手すりが設けられている。
アルミ製のその手すりに彼は両腕を載せて夜穹を見ていた。
雲一つない穹に幾つもの白い星。
「ちょっと、星をね」
もう一度顔を、窓から穹に向ける。
まだ肌寒い空気が流れる中、星の灯りすら冷たい。
街の灯りのせいで穹が狭く感じられても、それでも深く覗き込めない程広い空洞。
何故か、そこに星がある事が、今の実隆には信じられなかった。
――邪魔だな、と思っていたんだ
だから、その言葉は飲み込んだ。
――星がなければもっと穹が広く感じられるかも知れないから
菜都美は彼のすぐ隣にひょいと身を乗り出して、右手に持ったマグカップを差し出す。
「はい、コーヒー」
「ありがと」
簡単に応えてそれを受け取ると、一度首を傾げて一口コーヒーを含む。
インスタントではない、豆から出したコーヒーは、砂糖もミルクも入っていなかった。
舌の上で苦みと、豆をローストした時の焦げた匂いが広がる。
「何か、用?」
「食後のお茶。…ミノルは、普段飲まないの?」
へへへ、と笑みを浮かべて菜都美もコーヒーを飲む。
実隆は身体を反転させて、窓に腰をかけるようにして身体を預ける。
「ああ、うち、おやつの習慣って子供の頃からなかったし、両親ともお菓子は食べなかったからな」
せいぜい飲んでも日本茶だけだったと、彼も記憶している。
「……そなの?」
「変だろ?だから、俺達って小遣いの使い道は大体食い物」
そうか。
言葉を切るために一口コーヒーを飲んで、ため息をつく。
――そうだ
考えれば、奇妙な話だ。
両親の事だ。
楠里美、楠重政の二人には実の息子がいない。
そんな話はしていなかったが、少なくとも隆弥の事を『実の息子』扱いしていたはずだ。
だが、生活圏を別にするかのように、彼らとは食事以外の接点がまるで他人との関わりのようだった気がする。
そもそも、中学生ぐらいであれば子の親離れが始まる時期ではあるのだが、それにしても――おかしい。
決して反抗期だった訳でもないというのに、何事も家族の軋轢がないというのは逆に不自然だ。
そして何よりもその隆弥の代わりにいた『隆弥』。
何かが音を立てて崩れていくような不安感と同時に、里美の他人を見つめる不審な目つきを思い出す。
――まるであれは、自分を完全に忘れてしまったような目だった
もしあれが演技であるなら恐ろしい程だ。
そしてあそこにいた不出来な偽物の隆弥は、何のためにあそこにいるのだろう。
息子であるはずの『柊実隆』を追い出してまで。
――逆か?結果として追い出される事になったのか?
黙り込んで目を閉じた実隆の隣から離れ、菜都美は机に腰をかける。
正面ではないが、こうしていれば彼を前から見つめる事が出来る。
――ミノル
彼は、どんな状態であっても彼女の『敵』には見えなかった。
一瞬懐に入れたメダルを思い出して、口元だけに笑みを浮かべる。
――……覚えてないだろうなぁ
子供の頃、他人から初めて貰った宝物。
色んな物を捨てたのに、どうしても捨てられなかったニッケルでできたステンレスのメダル。
記念硬貨並に大きなそれには、キーホルダーの枠がついているのだが、肝心なキーホルダーの金具は随分と前に切れてしまった。
鎖は幾つかついていたものの、時が経つにつれてそれも一つ、一つと欠けていく。
今ではもう、メダルを支える枠だけになってしまった。
いつも持っていたせいで表面はすれて輝く程になっているが、そんな立派な物ではない。
どこかの記念で、小遣い程度で手に入る、名前の刻印が出来るメダル。
そこに深く刻まれている文字は。
8. 8. MINORU HIRAGI
――でも、あたしには判る
あの時、彼女は泣いていたような気がする。
理由は――あまりにも怖かったから。
親とはぐれて公園で泣いていた所に声をかけてきたのが彼だった。
一人しかいない時、誰に声をかけられても懼ろしいばかりで逃げて泣きやまかったのに。
『どうしたの?』
何故か、その男の子のその声は怖くなかった。
それから一度も会う事はなかったが、初めて見た時にすぐ判った。
このメダルをくれた男の子だと。
そして、名前も一致した――ヒイラギミノルという彼の名前に。
「悪い」
実隆の声に現実に戻される。
彼が窓から身体を起こして机の側まで歩いてくる。
皿の上のクッキーを一つつまむと、ひょいと口に入れる。
「……何が?」
自分も倣うようにかじってみる。
少し甘い香りがして、口の中で溶けていく。コーヒーには合うほのかな甘み。
「いや、黙り込んじまったから」
科白の割に取り繕う風でもない彼に、菜都美は逆に黙って上目遣いに彼を覗き込んでみる。
コーヒーカップが口元に届きそうなところで気づいたのか、実隆は眉を寄せて訝しげに彼女を見下ろす。
「…なんだよ」
「え?……ふーん、まあいいや」
そう言ってまだ湯気を上げる自分のカップに口を付ける。
実隆はあんまり面白くなさそうに顔を歪め、彼女の隣に座る。
「お前、卒業式には出るのか」
かつん、というカップを机の上に置く音が、奇妙な程耳についた。
嫌な音――実隆の意識がそちらに引きずられた瞬間、菜都美が動いた。
「おい」
右肩に、彼女の頭が乗っている。
油断しなければさっとかわしていたのだろうが、もう重くもない彼女の頭と左腕が触れる感触がある。
「ミノルは?」
彼女は返事の代わりに応える。
「……出るつもりはない。それに、多分……隆弥も来るだろうし」
どちらの、と特定するつもりはなかったし、菜都美もそれを聞こうとはしない。
「それに、これ以上何かあったら、俺は多分」
俺でいられなくなる。
彼は言葉を続けず、でかかった言葉を飲み込む。
「どーなるか、判ったモンじゃねーからな。式ぶっこわすかも知れねーだろ?」
菜都美は動かない。
何も言わない。応えない。
ただ、黙って彼にもたれかかっている。
――寝てるのか?
一瞬そう思ったが、そんなはずはない。
「……そう」
まるで言葉が続くのを待っていたように、しばらくして彼女から答えが返る。
本気で眠そうな元気のない声。
「あたしさ」
何かを言おうとして躊躇うような、喉を鳴らす音。
少しだけ乱れた呼吸。
――また、泣いてる?
勿論、顔は見えないから判らない。
――最近情緒不安定だよな
「おい、黙り込むなよ」
「もぉ…」
不機嫌そうな声がして、菜都美の身体が離れる。
上げた貌は不機嫌をそのまま貼り付けたようなものすごい貌だった。
「…………また来るわよ。今日はお休み」
そのまま、どすどすと足音を立てそうなぐらいの勢いで彼女は去っていった。
「あ、お盆……」
勿論彼女は振り返る事はなかった。
お盆に皿とカップを載せて降りても、台所には誰もいなかった。
――……
お盆を夕食を食べたテーブルの隅に置いて、カップと皿を流しへと持っていく。
水切りに置かれたスポンジをとって、まだ洗剤が残っているのを確認するとため息をついた。
――洗うだけ洗っておくか
家族がおやつを買う習慣がなかったのは確かだ。
だから、兄弟で買い込んだ菓子を食べながら話す時、こうやって片づけることも結構あった。
皿を一撫でして、水道を捻る。
――兄貴……
隆弥を追うのに、手がかりがない訳ではない。
今手元に手がかりがないという事実、この矛盾した点が言えば一つの手がかりになる。
――だから、その矛盾点を一つずつ解決すればいい
「隆弥」の件。「木下」の件。
数え上げたら、幾つでも歪みはあるはずなのだ。
――まずは――
彼は自分を怒鳴りつけた警官を思いだした。
――木下警部がどこにいるのか、からかな……
いつも眉間に皺を寄せて、困ったような貌を浮かべて嫌味ばかり言う、いかにも叩き上げと言った感じの警部。
「木下」
だが、今彼は目を丸くして、普段誰にも見せないような貌をしていた。
病院を移送されてから、彼はそこに入院しているはずの矢環を捜した。
だが、看護婦の誰もが彼の存在を知らなかった。
カルテは愚か、彼の名前すら。
「署長?、どうか、したんですか?」
それから一日が経過して、岡崎が彼の元に訪れていた。
神妙な表情で。
「お前の入院期間が不明確になった。だから、一時的に部署を変更する。……いいか」
それは実際に解雇と変わらないような内容だった。
存在しないような役職、現在欠員だという部署――つまり、そう言う事だ。
――そうか
しかし聞いていない事がもう一つある。
「不明って、署長」
「んああ、この病院の院長とは古い付き合いがあってな」
本人に伝わる前に、直接岡崎の方へ連絡が行く、なんて事があるのだろうか?
――それだけ、付き合いが長いからか?
それとも人事的な話を理解しているのか。
しかしここは警察に関わりの深い病院ではない。
警察病院手に負えないような場合だから、今は特別なのに。
――何だ
木下は手応えのようなものを覚えて、眉を顰めた。
それは、水だと思って飲んだものが、妙に口の中で粘ったような。
有ってはいけない、違和感。
疑え。
耳元ではないどこか。
自分ではない声。
それを、「意志のある声」として捉えるのか、自分の感情、意志、そして『勘』と信じるべきなのか。
この言葉にならない感覚を、少なくとも彼は信じるようになった。
――『相似形』か
自分の意志とは、形の違う物。
自分の思いとは、色の違う物。
自分とは違い、自分の意志を照らす物。
太陽と月――それも、自分の中にある。
自分の勘から、木下は自分の思考を強引に中断しなければならなくなった。
「担当医から聞いたらしいが、相当かかるらしい。短くても半年以上」
「っ!」
疑え。
今度ははっきり聞こえたような気がした。
言葉が、思考が心なしか『はっきりと形になるせいか』異常に早く感じる。
何故か、思考しているという時間が、概念として加速するように。
「どうして」
「理由は、今回の件だ。……実は、矢環の事なんだが」
言い淀むように一度区切ると、彼は水を飲むようにして言葉を継ぐ。
「お前がこっちに移送される前に、亡くなった」
「…矢環が」
ごくりとつばを飲む音がやけに大きく響いた気がした。
「これで、被害者のほとんど全部が…お前を除くと、死んでしまったことになるからな」
疑え。
もう言われるまでもない。
自分の力で、納得のいく限り調べる方が早い。
そうでなくても――それでなくてももう、無駄だ。
「私も死ぬ、ということですか?」
「まさか。そうではなくて、君だけ生き残っているから、だよ」
岡崎の視線に僅かに哀れみが浮かぶ。
「……昔から丈夫だったからな。お前の血液からワクチンでも研究されるんじゃないか」
「成る程、血清でもなんでも作ってくださいって言ってやってください」
応えながら。
この大きな檻の中から逃げ出す算段を、彼は考え始めていた――
◇次回予告
嘘とは。
「何だとこら、人が朝飯作ってやった上にこれから出勤するって言うのに」
嵜山みらいと御堂暁。
その閉じた世界が崩れていく。
Holocaust Intermission:lie 第1話
俺、あいつの事が好きなのかな
穹はまだ暗く扉は閉ざされたまま
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