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Holocaust ――The borders――
Chapter:3

隆弥――Takaya――   第1話


 三月。
 卒業まであと一週間ない。学校の授業なんてもう形式のようなものだ。
 受験のために、と学校側が授業ではなく時間と場所を与えているためこの季節は自主登校なのだ。
――早いな…
 頬の傷はこの一月で完全に塞がって、大きな傷跡にもならなかった。
 最近の整形の技術というのは凄い。目立つような傷跡を消すことだってできるらしい。
 隆弥は自分の机から窓の外を眺めた。
 廊下。授業中だというのに、ここ三年生の廊下には何人もの学生が溢れている。
 授業そのものはもうないからだ。
 外。
 この教室から見えるのは、だだっ広いグランドだ。
 何もない、本当に何にもないグランドだが、校舎の影になった部分には剣道部の道場がある。
 部室はその隣にある体育館側に乱立した武道系部室の一角にある。
――もう、卒業なんだ
 思いながら彼は僅か目を閉じて回想した。

 冥い夜の闇。
 それをひたすら歩き続ける事を繰り返す。
 足の裏が痛くなるまで。
 靴の底がすり減るまで。
 その先に眠る物は――だが、歩いている本人には判らない。
 歩きたくて歩いてるんじゃない。
 そう叫びたくても、誰も止めてくれるわけではない。
 ただ――心の隅が少しだけ痛むのを、和らげてくれるだけ。
 何でこんなところで歩いているのだろう、そう思うことから逃れるだけ。
 現実を見つめられないのは、それだけ辛いから。
 でも、そんな逃避はいつまでも続くわけではない。
 実際、これが逃避なのかどうか理解すらできなくなってきた。
 存在に対する逃避。
 理由に対する逃避。
 これが本当の逃避?
 現実は――そう、どれがもう現実でどれが夢でどれが本性なのか判らない。
 歌い続ける。
 その死を含む唄の中で、白刃は閃く。
 どこからどこまでが嘘で、どこからどこまでがそうではないのか。
 雨が降り風が吹き、たとえ地上が洗い流されるようなことがあったとしても――

 この苦行は続くに違いない。

 自分に対する不安が増し始めたのは高校二年を過ぎた頃だった。
 ある会話の食い違いが、彼を引き留めていた。
「え?昨日試合だったよね?」
「何を言ってるんですか、試合は三日前ですよ」
 隆弥は繊細な質だ。
 外見や話しぶりから想像できない程細かい事を気にする。
 記憶違い――普通ならそう考えるところだろう。
 だが隆弥は、幾つもつぎはぎされたような自分の記憶の食い違いに気がついた。
 それが始まりだった。
 初めは病気だと思っていた。
 だがそうではないらしい。幾例も記憶障害の例を見ても、自分のような例はない。
 第一、まるで図ったかのように肝心な記憶がなかったり――何故か、自分の記憶と現実が全く違ったりする。
 言うならそれは、自分だけ別の時間に住んでいる別の人間のように。
 疑い始めると手が届かなくて、止めることすらあり得ない。
 ただひたすら――彼は、疑問を投げかけるしかなかった。

――俺は、誰だ…


Chapter:3 隆弥 ― Takaya ―


「何黄昏れてるんだ」
 実隆は窓の外をぼぉっと眺めている隆弥の肩を乱暴に叩いた。
 特別驚きもせず、ゆっくりと実隆を見返す。
「ん、俺は成績は悪くないからな。櫨倉統合文化学院だったらすんなりエスカレータだよ」
 本当はエスカレータではない。編入試験のようなものを受ける必要があるのだが。
 これは、部内から成績のいい学生の場合はその成績だけで入る事もできるシステムになっている。
 すなわち、ある程度成績が良ければ簡単なテストで点数を補充するような感じだろうか?
 逆に成績の悪い人間は『足切り』によって編入試験の資格すら奪われてしまう。
 もっとも通常の受験は可能ではあるが……
「げっ、嫌味かそれは」
 実隆は思わず顔をしかめて眉を吊り上げる。
 ふふん、と隆弥は逆に伺うような笑みを浮かべる。
「あのねぁミノルくん?大学に行かないとか言ってる人に言われたくないよ俺は」
 目を白黒させて言い淀む実隆をみてくすくすと笑う。
「…ふん」
 実隆は不機嫌そうに自分の机へと帰っていった。
 彼の元に、結局警察からの電話はなかった。
 来なかった、と言うべきだろうか、それともそれどころではなくなったのだろうか。
 あれ以来『ミノル』を名乗ったあの男も見かけなかった。
――自分と同じ名前で同じ顔の男
 Doppelganger――ドッペンゲンゲルと言う病気がある。
 自分と同じ姿をした、もう一人の自分だ。
 伝承によれば、彼に会った自分は死んでしまうのだという。
 だがこれがドイツ語である事をふまえれば、それが二重人格、MPDの事を指しているのはほぼ間違いない。
 少なくとも実隆はそう思っている。
 だからあいつは、自分の何なんだろうか。

『ミノル、あの紙な、お前の名前って訳じゃないかも知れない』

 隆弥の話がもし事実なら。
 『実』と言う名前の奴と、『隆』という名前の自分が、双子だったという事だって考えられる。
――やめやめ
 ぶんぶんと頭を振って、首をごきりと鳴らす。
 大きく伸びをして嫌な考えを振りほどくと――丁度終業のチャイムが鳴った。

「卒業前に、どっかで打ち上げしないか?」
 鷹は、放課後の教室で大声を上げてクラス全員に声をかけた。
 特別クラス全体が仲がいい、という訳でもないが、鷹は――良い意味でも悪い意味でも――目立ちたがり屋だった。
「お、いーねぇ」
 あちこちで声が挙がる。
 別に――鷹が仕切ってやる訳じゃない。
 彼自身も、『ちょっとした提案』程度にわざと聞こえるように言っただけだ。
 そうする事で、周囲に影響を与える。
 彼自身は『人気者』のつもりらしいが、決して嫌味ではない。
「どう?クスも柊も?」
 ふふん、とにこにこ顔の隆弥に、少し意味ありげな表情を浮かべて実隆に目を向ける鷹。
「な、タカマル、俺は」
 断ろうとして、でもすでに囲まれていたりする。
 逃げられないように右側に立ちはだかる鷹。
 椅子を押さえ込んで、左脇から迫る隆弥。
「参加参加。断る必要なんかないでしょ?」
 と、罪のない笑顔を湛える。
 そして調子に乗った友人連中が二人を――いや、実隆を逃げられないようにする。
「『兄貴』の許可が出たので強制連行」
「なんでーっ」
 鷹は叫ぶ実隆を横からヘッドロックを極めるようにしてふん縛ると、彼に囁く。
「真桜さんとどっか行こうなんて考えてる奴は捕まえておかないと」
 否定しても無駄、周囲から失笑があがる。
 さらに追い打ちをかけるように、できる限りの小声で彼は耳元で囁いた。
「ばらされたくない写真、あるんじゃないかな?」
「お前っ」
 怒鳴って顔を上げても、ちなみに実隆は何のことだか判らない。
 ちなみに身に覚えもないのだが。
――…どこの、何の写真だろうか
 今の勢いで振り解かれた鷹がちょっと焦ってるのを後目に、思わず考え込む。
 が、もう一人すぐ側に最も畏れるべき敵がいる事を彼は完全に失念していた。
「ほぉ、それはよくないなぁミノルぅ〜。お兄さんそんなこと聞いた事もないぞ」
「げ」
 いつのまにかにこにこと笑みを湛えながら、近寄ってくる隆弥。
 実隆に対する脅しではなくて、隆弥に対する揺さぶりだったようだ。
 両手をわきわきさせて隆弥は顔を近づけてくる。
「んー?これは詳しく聞かないとね〜」
 にこにこ。
 素知らぬ顔でにやにやしている鷹を睨んで、実隆は覚悟するしかなかった。

 良くあるように、無自覚な親とか酒屋の息子が酒を集めてくるような打ち上げじゃなかった。
 集まるのは夕方の六時、そのまま適当な場所で腹ごしらえをしながら話をして、とりあえず馬鹿騒ぎさえできればいい。
 そう言う感じだった。
「しかし」
 問題は、そこからだった。
 有名なファーストフードのチェーン店でがつがつ喰いながら、困った顔をつきあわせているのは滑稽な物がある。
 それも、男子高校生ばかり。
 傍目には恐らくいやな光景なのだろう。
「ゲーセンてのも芸がないよな」
「最近はあみゅーずめんと云々って言わないと差別用語だよ」
「……でもそれだったらカラオケってのもなぁ」
「何事もなかったように無視しないでくれぇ」
「カラオケでいーんじゃないか?叫んだって誰も文句は言わない」
 一同、一瞬顔を合わせる。
「カラオケでいいか」
 そこで、なし崩し的に決まってしまった。
 とはいえ別に反対する理由もないし、問題もない。
「俺最近の曲はちょっと…」
 渋る隆弥を捕まえるみたいに肩に腕を回す実隆。
 無論仕返しである。
 鷹もにやりと笑って挟み込むように反対側から腕を回す。
「へぇ、じゃあいつぐらいの曲なんだ?何が得意なんだよ」
「あおいさんみゃく」
 かきん、と堅い金属のような音がした。
 その場にいた全員が固まる。
「………嘘だよ、嘘に決まってるじゃないか」
「お前さんの嘘は嘘に聞こえないんだよ」
「実はダイナマイト節」

  すぱこんっ

「んなわけあるかい!」

 カラオケならどこにだってある。
 別に珍しくもない施設だし、最近じゃ新しいのも幾つか立ち並んでいる。
 だから――
「あ」
 同じような事を考えている先客がいてもおかしくない。
「アレ、ほら」
 菜都美の肩をくいっと引いて、彼女は言った。
 菜都美は、急遽電話で『打ち上げ』に呼ばれた口だった。
『人数は多い方がいいじゃない』
 隣のクラスにいる友人の見田令子にこう言われれば、断る理由もない。
 彼女たちは夕食を食べてから集合、という形で駅前にある繁華街に来ていた。
(ほら、アレ楠くんでしょ?)
 令子は視線だけで菜都美に合図する。
 見覚えのある集団の中に、見知った顔が何人かいる。
 菜都美も頷いて、ちらっと自分たちの中の一人に視線を送った。
 嘉島史乃はクラスの中でもあまり目立たない雰囲気の少女だ。
 菜都美の友人の中では、一番おとなしいだろう。
――丁度良いかな
 カラオケに行くというのも、ほとんど無理矢理つれてきたような物だ。
 菜都美は彼女に目だけを向けて、大きく頷いた。

「おーいっ」
 実隆は眉を吊り上げた。
 丁度隆弥をからかっていたところだ、非常に分が悪い。
 鷹と隆弥の二人が一斉に実隆の方を見た。
「まて、待て俺は知らないぞ、俺じゃないぞ俺じゃっ」
 言っている間に菜都美達のグループも近づいてきた。
「ほら、こんばんわミノル。なに、丁度良かったね」
「……」
 彼女の言い草にじとーっと半眼で睨み返す実隆。
――『丁度良かった』はねーだろーが
 これじゃまるで図ったみたいじゃないか。
 反論する余地がなくて、男二人の痛い視線を浴びたまま彼はうなだれた。
「あ、ね、君らもカラオケ?」
 鷹は隆弥の首をつかんだまま、彼の顔の横で人差し指を立てる。
 隆弥はそれを嫌そうに避けて、首をほどこうとする。
「こいつがさ、歌いたがらないから」
 その人差し指でぐりぐりと隆弥の頬をつつく。
「えー?なんでー?」
「どう?どうせなら一緒に入らない?」
「…このカラオケ、十人も入れる部屋、ないよ?」
「まぁ待てまぁ待て」
 わいわいと話し始める中で、鷹が両腕を振って、大きい声で言った。
「どうだ?この際だから、二手に分かれるっての」
 お互いがお互いを見回して、別に反対意見が出るようではなかったので…
「じゃ、とりあえずグループに分かれようか?ほら、うちらはこっち」
「お、おいっ」
 鷹のペースに載せられたまま、実隆と隆弥は引きずられるようにして輪から離れる。
 上杉、柊、楠の三人なので森林トリオと呼ばれた事もある。
 菜都美は鈴子に目配せして、史乃の右に回り込む。
「じゃああたし達こっち」
 そのまま左を固める令子と――やってることは実隆達と変わらなかった――実隆達のグループへと分かれる。
「じゃ、とりあえずお互い二時間ってことで」
「続き、まだどっか行くって言うなら、その後で決めましょうか」
 簡単に話を付けるととりあえず、とそのままお互いのブースへと分かれた。
 鷹、実隆、隆弥、菜都美、令子、史乃の六人のグループである。
 ブースに向かいながら、服の裾を真後ろに引っ張られる。
 見ると、菜都美が何か言いたそうにして実隆の方を見ていた。
「……なんだよ」
「史乃のことなんだけど」
 鷹が相変わらずの様子で話しながら歩いていくのを見ながら立ち止まった。
 令子はちらっと菜都美の方を見て、ウィンクしてみせる。
「あのおとなしい娘か」
「隆弥さんの事好きらしいのよ。…それで…ね?」
 実隆は僅かな時間だけ、目を丸くしていた。
 そして、ゆっくりと溜息をついた。
「………好きにしろよ」
 一気に襲ってきた脱力感に彼は興ざめするのが判った。
 どうにも、そう言う感覚にはついていけなくなることがしばしばある。
――どうせ邪魔なんかしねえよ
 実隆としては何もわざわざ言う必要はないだろう、と呆れてしまう。
「呑気な奴だよ」
 む、とむくれる気配がする。
「ちょっと、何よ」
 ひょい、と彼女は実隆の先回りをするように回り込んでくる。
 もう他の連中は指定されたブースに入ってしまっている。
 カラオケのように時間で決められていて金を取る施設では、のたのたしている方が損をする。
「言い訳は後で聞くから、早く行くぞ」
「あ、もう、ちょっとっ」
 だから、彼女の非難の声を無視して彼はブースへ向かった。
「ちょっと、前にも失敗したの、ミノルのせいだからね」
 実隆に伸ばした手が、宙をつかんだので慌てて大声を張り上げる。
 さすがに実隆もむっときたのか足を止めて振り返る。
「何の話だよ、俺、あの娘と顔会わせるのは初めてだぞ」
「そんなのかんけーないわよ、あの時隆弥さん…」
 言いかけて、数秒間硬直する。
 よくよく考えたら、本当に実隆は関係なかったはずだ。
 思わず口走っていたがもし――そう、実隆が隆弥の週末の話をしていたとして。
 だから何が変わったわけではないだろう。
「…隆弥が、倒れた時か」
 言い訳もできず黙り込んだところに、実隆の低い声が浴びせられた。
 低い、真剣な声。
 それは実隆にとっても同じ事だった。
――変わってしまったのは、あの瞬間から
 先刻までの呆れたような視線が消え、何か急に薄暗くなったような冥い光を湛えている。
 空気が重圧をかけてくるように、周囲が重苦しくなる。
 菜都美が言葉を出せずにいると実隆は背を向けた。
「あれからは何ともないのか」
 『自分のこと』だと気がつくまでに、実隆は自分たちのブースに入ってしまっていた。
 中にはいると、既に鷹が歌い始めていた。

 二時間というのはそれほど長い時間でもなかった。
 あっという間に時間が流れ、もう一つのグループと合流することになった。
「俺ら、帰るわ」
 何があったのかは判らなかったが、二次会以降はないようだった。
 一瞬だけ合流すると、店の前で散り散りになることになった。
 それでも、もう時刻も二十一時を過ぎている。
「…ま、丁度良いか」
 声をかけようとして振り向いて――そこに、隆弥の姿がない。
 ちょっと離れたところで、先刻菜都美の言っていた少女――史乃と一緒に話をしている。
 ふと思いついて、側の菜都美の腕をとる。
「う、わわ、何?」
「隆弥、俺先帰るわ、じゃーな」
 有無を言わせず菜都美を引きずるようにして、実隆は隆弥に手を振りながら背を向けた。
 充分離れたところまで来て、一度後ろの様子を窺ってから菜都美の腕を放す。
「なな、……何か、用なの」
 暗い夜中の照明でもわかるぐらい彼女は動揺している。
 が、実隆の視線は彼女ではなくそれよりもっと後ろ――隆弥の様子に注がれていた。
 隆弥の様子はわからないが、嘉島史乃という少女は嬉しそうな表情をしていた。
 それだけで十分だった。
「用?ああ、お前さんのしている『応援』とやらをしてみただけだよ」
 はん、と息をつくと、先刻より幾分か遅く歩き始める。
 一瞬唖然と表情を固まらせるが、すぐにその貌を険しくする。
――何よ
 でも何も言わずに黙って彼の後につく。
 繁華街から下って、自分たちの家まで――途中まで同じ方向だから。
「お前には聞きたいこともあったから、丁度良いしな」
 ひょい、と顔を向けると、彼女はむくれたようにうつむいて、口をへの字に曲げていた。
「何よ」
 心なしか、声が震えているような気がする。
 きっと顔を上げて、実隆を睨み付けて答える。
「……聞くような機会がなかったからな」
 かしん、と地面と靴の間で小石が噛むような小さな音。
 もう自動車の走り抜けるエンジン音もしない、静かで人気のない道路。
 周囲に満ちる光は小さな街灯だけで、二人を遮るものもない。
 実隆はしばらく黙ったまま、じっと睨み付けている。
 アレがどういう事だったのか、結局一月経った今でも判らない。
 僅かでもそれを知っているだろう――菜都美からも、あれ以来何も聞いていない。
 聞けなかったというのも事実だ。
 沈黙は、しばらく菜都美の表情の上で固まり続けている。
「いいわ。あたしの知ってる限りの事、教えてあげる。ミノルだって知る権利があるはずだからね」
 やがて彼女は口元を歪めて笑った。
 口元に笑みを湛える彼女は、先刻までの彼女とは雰囲気が違った。
 真桜菜都美という少女は、セミロングのさらさらした髪の毛が自慢の長身の少女だ。
 彼女自身は気にしているが、少したれ目の愛嬌のある顔立ちをしている。
「…どう?」
「どうって…お前」
 耳鳴りがする。
 きりきりと、外側の圧力が音もなくましていくようなそんな気配。
 すっと彼女は手を伸ばして、実隆の首下に指を――

  ずんっ

「か」
 背中に急に受けた衝撃。
 喉が、絞り出される空気によって鳴る。
 視界がブラックアウトしてしまって何が起こったのか判らない。
 ただ、喉元に何かがあって。
 背中が、先刻までなかったはずの堅い壁に押し当てられていることだけしか、判らない。
「こう、いう…ことよ」
 声が聞こえて、突然首から熱い物が体中に行き渡る――感触。
 今まで血流が押さえられていたように指先がびりびりと震えて、体中に棘を押し当てられているように痛む。
 その意識と同時に視界が帰ってくる。
――すぐ側に菜都美がいて、その後ろに道があった。
 風景と記憶と、今の状況から考えて――結論は一つ。
 実隆はまず疑った。
 自分達が先刻までいた道が遙かに遠くに思えた。

「忘れてしまった方が、良かったのにね」
 さらっと自分の頬をなでていく髪の毛。
 驚くほど側に彼女の顔があった。
 すっと実隆の眼前を彼女の前髪が流れて、彼女は離れていく。
 そこは先刻までいた道から曲がった、細い道。
 青いくすんだ夜の闇に、セミロングの彼女は実隆を見下ろしていた。

  ぞくり

 空気が凍てつくように、気配の中に『それ』が混じっていく。
 まだ酸欠でがんがんと鳴り響く頭を振って立ち上がる。
「どういうことだよ、一体」
 目の前にいるのは『菜都美』ですら――
「どういうこと?」
 だが、前髪からわずかに除く彼女の口は鋭く突き放すように口走った。
 まるで責任は実隆にあるかのように。
 そう聞いた実隆が悪い――そう言い切るかのように。
 彼女は大きく顔を振って叫んだ。
「それはあたしの方が聞きたいのよ。なんで、柊実隆があたし達と同じなのか――」
 ばさっと音を立てて彼女の髪がなびき、影から表情が覗く。
――泣いて――いる?
 強気に叫ぶ彼女が、何かを必死に耐えているかのように苦しそうな表情を浮かべていた。
 ふ、と。
 それまで場を支配していた強烈な『それ』が消えていく。
 同時に彼女の姿が小さくなったように見えた。
「菜都美」
 くたびれたような笑み。
 ぎこちなく零れた苦笑に、実隆は唖然とする。
「御免、ちょっと抑えがきかなかった。…怪我してない?」
 だから思わず声をかけていた。
 彼女は言って笑った。
 いつもの明るい声で。

 ゆっくりと繁華街から自宅へ向かう道を選んで歩く。
 先刻辿ってきた道よりも人気はなく、静かで暗い道。
「…言わなくても判るところは省くからね」
 アスファルトの堅さが足下にあるうちに彼女は話し始めた。
 空にある星は暗く、町の灯りは空の端を燃やすように明るく。
――いつもの夜と変わらない風景
 その中に溶かし込むような黒い髪が揺れるたび、彼女の表情に影が差す。
「『真桜』って名前が古い貴族の名前だってことは知らないよね」
 真桜――今でこそ有名な名前だが、変わった名前には違いない。
 駅前にある真桜武道場は剣、長刀、無刀取りまですべてをこなす総合格闘術を教える。
 実践的なものも伝統的なものもすべて教えてくれるという特殊な流派だ。
 子供や主婦などがメインで、さすがに本場の格闘技をやっている人間は通っていない。
 K-1辺りに出場したりシューティングの選手なんかとは色が違う。
「貴族って言ったって落ちぶれよ。戦国時代のね」
 それにしたってかなり古くからある由緒のある名前だろう。
 だがそれは、名誉や地位の御陰ではなくその血のせいだ、と彼女は言った。
 曰く――真桜は化け物の血筋だ、と。
「おとなしく人間をやってればよかったのよ、下手な貴族が、覇権を狙って化け物に身をやつした」
 寂しそうに彼女は呟き続ける。
 時々それでも可笑しそうに笑みを浮かべる。
――化け物
 御伽噺にでるような鬼や妖怪の類。
 今日本にそんな存在がいるとは思えないし、第一――発見されたことはない。
「真桜っていう名前はね、敗北した証。浅はかな貴族が生き残ろうとして暴挙に走った証拠よ」
「変わってるけど、俺は良い名前だと思うけどな」
 菜都美はくすくすと笑いながら、大きく伸びをするようにして背を反らせる。
 そして、一つだけ大きく溜息をつく。
「ありがと」
 そして、にっこりと笑みを浮かべた。
「じゃ、その…『今の』はその化け物の力なのか」
 彼女は頷く。
「どういう化け物で、どんな力なのか判らないけどね。半分妖怪…はは、漫画みたいよね」
 無言。
 いつの間にか立ち止まって、彼女にも言葉をかけられないまま立ちつくしてしまう。
 菜都美も無言で僅かに首を傾げて、じっと実隆を見つめている。
――喧嘩に妙に敏感だったのは
 数日前の風景。
 治樹の、狂気にも似たあの――一方的な殺戮とも言える行動の理由は。
「あの日の、後始末って」
 実隆が暴れた時、結局あの少年達は死んではいなかった。
 但し、半数は精神病院で治療を受けている。
 あの時身体に負った傷よりも、癒えない傷を負ったに違いないだろう。
 一人はまずもって復帰できないだろうと言われている。
――そのことを、実隆は知らないが。
「慣れたものよ。気にしないで」
 そして少し神妙に眉をひそめて言う。
「…怖い?」
 一歩近づいてくる。
 どう応えて良いのか判らず、実隆は目を閉じた。
 首を振って小さく肩をすくめる。
「お前が喧嘩を嫌うようになった理由は判ったけどな」
「そうよ。あたしは怖い。喧嘩も、この力も――人間も」
 菜都美は両腕を大きく広げて、そして口元をつり上げて見せた。
「皮肉よね、人間じゃないから人間が怖いなんて」
 実隆は僅かに口を歪めて笑う。
 確かに――あの時感じていたのはむしろ恐怖。
 生物としての優位を持ちながら、何故か目の前の脆弱な存在が怖ろしかった。
「聞いても良いか?」
 頷く菜都美を制するように歩き始める。
 彼女もついて歩き出す。
「その『化け物』の血って、他に漏らしていないのか?」
「そのはずよ。一つとしてまともな分家はないはず。……人間の間でまともな生活のできる人がいなかったのも事実」
 彼女でさえ発作的に『人間』が怖くなる事がある。
 それが真桜の血の所以。
 ああ、と半ば上の空で聞いて、言った。
「じゃあ俺のこれって…」
「うん、違うかも知れない。でもミノル…確かじゃないんだけど、証拠はあるよ」
 嬉しくないかも知れないけど、と彼女は一度念を押すようにして人差し指を立てて横に振った。
「…つまり、人間じゃない証拠って、こと?」
 こくり、と頷く。
 にこにこ顔のまま、嬉しそうに。
 じりじりと、時間が僅かに流れて過ぎる。
「……確かに嬉しくないよな」
 彼女は表情を一切変えない。
 怪訝そうに顔を歪めると、実隆は確かめるようにして首を捻る。
「何で判るんだ」
「だぁって…前に、言ったじゃない。ミノルは怖くなかったって」
 つうと目を細めて彼女は優しい笑みを湛えた。
「ふふ、あたしは嬉しいかもよ。いーじゃない、世界に一人じゃないんだからさ」
 歩きながらこつん、と自分の頭を実隆の肩に載せる。
「お、おい」
「何よ、今更。……もし血を分けて無くても、あたし達はさ、言えば兄妹みたいなものじゃない」
 小さく笑い、彼女は身体を実隆に預けるようにする。
 どうせ人気もないし、彼女の言うとおりだ、と彼女のしたいがままにさせることにした。


◇次回予告

  隆弥はその日、帰ってくることはなかった。
  「ああ、お前、『日本刀の隆弥』だろう?」
  猟奇連続殺人事件の報道と共に、実隆はさらに疑念を抱く。
  「行こう、多分見ちゃいけないから」

 Holocaust Chapter 3: 隆弥 第2話

 隆弥さん、探そうよ。…どうせ、学校行ったって仕方ないでしょ
                                             血と殺戮の臭い

      ―――――――――――――――――――――――


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