Holocaust ――The borders――
Intermissionミノル 2 第3話
「どうした、変な貌して」
水銀灯はいつの間にか昼間の太陽のような光で工場の隅々を照らしあげている。
二十世紀後半に立てられたのだろう、彼女の顔立ちには影が見えない。
光線の向きを計算して作っているために影ができないのだ。
真っ平らな表情で、彼女は不思議そうにミノルを見つめている。
でもそれは人形のように無機質なものではなく、複雑に貌を変えていく。
「――ミノル」
段々不機嫌そうになり、最後はむすっとした貌で睨み付けてくる。
「変だったか」
――判らない
ミノルは返事を返しながら、目の前でくるくると貌色を変える少女を見つめ返す。
――何故、何が変だ
日系の顔立ちをした少女は、自分の歳から考えれば随分年下に見える。
無論、まだ産まれてから一年程しか経過していない――だが、彼女の記憶のほとんどは『柊宰』の物だ。
彼女の無機脳には彼の記憶全てが――そして改ざんされているらしい、その行動の記憶が――ある。
判らないのは、それだけの『経験』を持ちながらも奇妙に幼い行動を取ったり奇行に走る事だ。
そう、喩えるなら――まるで子供のように。
そして未だに謎か残るのは、彼が、女性型義体に入った事だろう。
いや、女性型義体によって自分を再構成した――そう考えれば、彼女が『殺せ』と言った理由も説明が付く。
――まだ、子供なのかも知れないな
眉を吊り上げて彼を睨み付ける幼い顔は、見ようによってはむくれているようにも見えなくない。
「何のつもりだ」
もうすっかり明るくなった工場の中で、彼女は腰に両手を当てて仁王立ちになっている。
見上げる睨み付ける視線に怯む事もなくミノルは言う。
「いや。少し昔の話を思い出していた」
もうミノルは身構えるつもりもなかった。
数ヶ月前なら既に酸欠で地べたをはいつくばっていてもおかしくはない。
久々に、数ヶ月ぶりに出逢った彼女は――もうそこまで自分に対して乱暴な真似はしない。
そんな奇妙で――確実な感触。
ぱきり
視界が大きく揺れて、何の感触もなくがたんと視界がまっすぐ真下に落ちる。
揺れながら彼女の顔が目の前に来る。
先刻まで自分を見上げていた顔が自分の目の前で、斜めに傾いでいる。
――ああ、そうか
まるでカメラマンがカメラを取り落とした、かのように。
唐突に理解する。
痛覚と触覚まで切り取られたらしく、不自然な視界は揺れるように彼の前で踊る。
そして始まる――これからは、彼女の時間だ。
「私を見下ろすな」
不機嫌そうな顔。
不機嫌な声。
数ヶ月ぶりの、自分の知っている彼女の顔。
「お前はわたしのものだ」
久々に聞く、彼女の傲慢な言葉。
初めて彼女がこの『本性』を表した時に発した言葉。
「お前の生死は私の手の中にある。お前の行動は私の計画のままにある」
まるで催眠術をかけているかのように同じフレーズを繰り返す。
「お前は、私のために存在する私の剣だ」
何故、という言葉はそこには似合わない
ミノルは、何の抵抗もなくその言葉を脳髄に刻み込んだ。
何も。
疑うという余地すらそこにはなく、まるで初めからそう言う風に定められていたかのように。
――なぜ抵抗できないのだろうか
ミノルは自分がそれを受け入れている事実に僅かに疑念を抱いた。
理解している自分と、それを理解しようとしている自分が別々にいるかのように。
確かに、彼女の言うとおりにナノマシンは自分の中に存在する。
それは彼女のせいではなく、気がついた時には存在したらしい。
『変わっているな』と言ったのを彼は覚えている。
ナノマシンの濃度がほぼ一定のまま、脳髄の一部を占有していると、彼女は言った。
だから彼女は毎回無痛注射器を彼に撃ち続けた。
それが何を意味しているのかは判らなかった。
「そうだろう」
彼女はほんの僅かに目元を緩め、笑みを浮かべる。
艶のある年不相応な表情。
彼女は微笑みを浮かべたまま両手で視界の端を覆っていく。
手が影に隠れ視界の外側まで領域を伸ばした時、彼女の顔がそのまませまってきた。
「だから、お前は私の思うとおりでなければ――」
揺れる視界。
頬に触れる、彼女の指。
不意に思いついた。
聞き慣れない悲鳴に、少しだけミノルは顔をしかめる。
そして、案の定体は動いた。
子供のような黄色い声で悲鳴を上げたのは、腕の中にいる彼女。
突然の抱擁に驚く彼女は、とくん、とくんと心臓の音を伝えてくる。
ミノルはまるでしがみつくように彼女を抱きしめていた。
「――ミノル」
体が動いたと言う事は、彼女が『縛って』いた訳ではない。
いつもであれば完全に動かないように抑え込んでいるはずだ。
さもなければ――完全に、身体をコントロールされている、はずだ。
――望んでいた?
ミノルは何も言わずに両腕に力を込めてみる。
自分の左肩に載るものは重みを感じさせず、ほのかなぬくもりだけを彼に与えている。
抱きしめた彼女の体は、以外に柔らかく抱き潰せそうな程。
もしかしたら、人形などではなくてなどと考えてしまう程。
擬似的なんだろうか、自分の胸の前で自分と変わらぬ鼓動を伝えるものがある。
「何――を、するんだ」
――開いてみたい
脈打つ物を、見てみたい。
この抱き潰せそうな体を引き裂いて、それを見てみたい。
胸骨を、肋骨に指をかけて大きく開き、人工臓器であろうと――脈打つそれに手を触れてみたい。
それが流すはずの血を見てみたい。
もし作り物のそれならば、是非一度音を立てて啜ってみたい――彼女の目の前で。
それが作り物であろうと、ただ音を立てているだけの物であろうと、本当に肉の塊であろうと。
ほんの僅かな間身動ぎしていたが、やがて彼女は体から力を抜いた。
「ミノル」
妙に落ち着いた声が彼の耳朶を打つ。
今までに聞いた事のない声。
言葉の声音と、アクセント、そして息遣いに――我に返る。
それともそれがかんに障ったと言うべきだろうか。
まるで何事もなかったようにミノルは彼女を解放し、立ち上がる。
胸程の高さしかない彼女の顔が不思議そうに彼を見上げ――視線を、追う。
視線が絡まり、一瞬の沈黙が過ぎる。
もう一度彼女は彼の名を呼んだ。
いや――そんな気がした。
「……名前を、つけてくれないか」
取り繕うこともなく、彼女はミノルを見つめている。
作り物の顔で、作り物の目を僅かに潤ませるようにして。
瞳の中に移り込んだ水銀灯の形に、ミノルは目を細める。
――まるで小動物と向かい合っているようだ
いつ、立場が変わってしまったのか。
「名前、か」
柊宰、ではないと彼女は主張する。
「そうだ、ミノル。……私には名前がないのだ」
それは滑稽であるとミノルは感じる。
『柊』博士の記憶の全てを持っているのだ。
ただ彼女の主張では、彼女の主記憶装置の中でデータとして彼の脳髄が転写されているに過ぎないと言う。
それが何を意味しているのかさっぱり判らない事ではあったが。
その中で凍り付いたデータとしてだけ博士が存在するので有れば、では彼女は何者なのか。
――だから名前、なのかも知れないな
「お前には名前がない」
それはどういう事になるのだろうか。
彼女は微笑むような柔らかい表情で彼を見つめ続けている。
「俺は自己意志がない」
今まで自分で決めて自分で運命を切り開いてきた記憶がない。
全て他人から押しつけられたモノを排除しようと必死になって。
『他者』を出来る限り単純かつ的確に切り離し。
ただそれは、生きようとする意志の顕れ。
いや――肉体の持つ本能。
「そうだな」
ミノルは笑った。
ただ白く、何の感情もない笑みで。
――彼女に名前をつけるのだとしたら
「リーナ……ってのは、どうだ」
――ふん?
柊博士は測定データを睨みながらふと首を傾げた。
そこにあり得るはずのない波形が刻まれていたからだ。
――脳波パターン……
確かにどこかで見た記憶のあるパターンである。
彼は今までの研究に使われたLycanthrope達のデータベースから検索をかけ、今見ている波形に酷似する波形を計算させる。
彼の目の前でディスプレイはカーソルを数回点滅させて、結論を弾いた。
一つ新しいウィンドウが開き波形が表示される。
『検索結果 1件』
ウィンドウの上方に刻まれているのはLycanthropeの名前。
写真入りのそのデータを見て博士はため息のような息を吐き出した。
――『リーナ=ハインケル』……か
ごく初期に発見された脳異常の少女の波形サンプルと同じ波形。
彼女は調整段階で心臓死に至り、その後『リーナ』と呼ばれた別人としてデータが残されていただけだった。
彼女の始末をミノルに指示したのは彼だったが、もうそれも何年前の話だというのだ。
――いや
関係ないのかも知れない。
宰は顎に指を当てて、ひげをなでるようにして僅かの間沈黙する。
そもそも、リーナの特殊能力――脳を圧迫される事で得たその特異な能力はいったい何だったのだろうか。
確認されているのは『記憶転写』と『テレパス』だったはず。
ミノルの話を総合しても、惚けている老人と変わらない行動をとる以外は異常のない少女だったらしい。
データも、テレパスにありがちな脳波形状をしているだけで特別な異常はない――いや、なかったはずだ。
今はそれよりも。
――何故、今この脳波が『リーナ』だと私は感じたのか
脳波の波形単体の話ではない。
時系列的に展開し、3次元からなるパラメータによりその『構成パターン』をデータとして取り込み構築している。
確かに単位時間平面における波形も個人差が出る物ではあるが、似通った波形も勿論存在する。
だから、『次はどう動く』というデータを『時間軸上』へと展開させたもので個人を判別できるのだ。
もっとも膨大な量のデータベースと、複雑な予測計算の上での話だが、これでおおよそ個人の性癖、趣味、思考過程を予測できる所までに完成している。
だが、個人のそのデータを見比べる事など人間には不可能である。
見たところで七色の波打った光の塊に過ぎないのだから。
――そしてそれ以上に……
逆に言えば、それを見分けた上に『西森臣司』から検出された脳波パターンが、他人である『リーナ』と酷似するというのはどういう事か。
宰は首を振った。
説明するにはあまりにも不確定の事象が多すぎる。
論理的な説明をするには空間に刻み込まれていると言われる「影」についての説明をしなければならなくなる。
それはまだ完全な理論になっていない。
ぱしゃん、と簡単な音を立てて監視用ディスプレイの中で目標が息絶えた。
だから彼はそんな事は忘れる事にした。
同時に脳波パターンがフラットな平面を描き出す。
すぐに彼はマイクのスイッチに指を伸ばし、突き出た親指程のマイクを口元に寄せる。
「よくやった。そのまま回収して帰投せよ」
今は、この最高のサンプルをどうやって料理するか、それを考える時だ。
他の余計な事は、それからでもできる。
その時はそう思っていた。
痛みが産まれた。
それは私の産声とも言えるだろう。
彼は私に気がつく事はない――私は、痛みそのものだからだ。
彼は殺されたのか?
いや、そう言う訳ではなかった。
だから私がここにいるのだ。
いやそもそも私は誰なのか。
私は、彼の中で初めから存在した。
彼と向かい合う事はないはずだった。
彼自身でありながら、彼ではないのだから。
本来なら、こうやって意志を持つ事すらなかったはずなのに。
私は彼の影としてただその影響を与える一つの要素として――人格の一欠片としているべきだった。
そうすれば、彼はこんな痛みを覚える必要はなかった。
私は自殺する事などできない。
私を滅ぼす事ができるのは、彼自身だ。
彼が、自ら滅びを選ばない限り、私は――まさに一心同体――死ぬ事はできない。
もしかすると『悪魔払い』でもすれば私は消え去るのかも知れない。
彼という名前の自我が、『同一性』をもって存在する限り私は認められない『悪魔』なのかも知れない。
私は姿を持つ事ができた。
それは彼が自由にできる物ではなかった。
私は一体誰なのだろう。
彼は一体誰なのだろう。
彼は求めていないのに、私は彼から自由を得る事ができた。
でも還らなければならない。
私は一人ではないのだから。
痛みと共に産まれ、彼らの御陰で目覚めた私は。
私を疎み、忌み嫌い、いっそ滅んでしまえと考えていた彼も――俺もやっと、一歩踏み出した。
もう目の前を遮る雲はない――
◇次回予告
「『兄貴』の許可が出たので強制連行」
卒業前、打ち上げを行う実隆達。
変わらぬ日常を祈るような、そんな苛立ち。
「『自覚すること』って、判る?」
Holocaust Chapter 3: 隆弥 第1話
それはあたしの方が聞きたいのよ。なんで、柊実隆があたし達と同じなのか――
忘れ得ぬ闇の色
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