Holocaust ――The borders――
Chapter:2
臣司――Shinji―― 第1話
相似、という言葉を思い出す。
ある一つのパラメータ以外が同じであり、そっくりな姿を持った状態――それが相似。
もし自分の相似形があるのであれば、そんなものではないだろうか。
普段の俺が、今のように考えているのを知れば恐らく鼻で笑うだろう。
私ははそれだけ俺の事をよく知っているし、よく理解している。
であるなら、私は何だろうか。
こんな風に考えるようになったのは、簡単に人が砕けるようになってからだ。
ひとが、くだける。それがあり得ない事象から、現実へと至る。
命――いや、生物というのは脆い。
それがどんな生物であろうと代わりはしない。
犬畜生から――人間まで、全ての肉の塊達は全て。
ある特定の分子構造を持つ特殊な鎖、それは肉である限り変わらない。
だから、たった一つの方法だけでそれは砕け散る。
簡単なことだ。炭素と、水素と、基本的な構造は全て同じ。
だから炭素を切り取ってしまえばいい。
炭素だけ、全て取り除くような事をされれば、分子はその構造を不安定にして――物質としては構造を崩壊する。
死だ。
死というものを、こんなにも単純に無痛でもって行うことができる。
それも一瞬なのだ。
――それが本当に痛みを伴わないのかどうか、そんな事は判るはずはない。
何故なら、それを行う『もの』は自分で自分を攻撃することがないように指定されているからだ。
当然だ、もしそのリミッタを解除してしまえば、自分同士で崩壊してしまうではないか。
むしろ、周囲の自分以外から自分の材料を取り込んで緩やかに増加するように設定されている。
特に体内に仕込むように設定された『それ』は、自壊能力を与えられ、体内で血球に偽装しながらも異物として濾過・排除される。
だからそうならないように設定するのは言うまでもないだろう。
だがその反動は来る。
増加と現象が釣り合う間はまだいい。
体調の変化や僅かな環境変化でそれが狂うらしい。
だから動きを抑え込むための抑制剤を常に服用しなければならない。
そう、相手の命を奪い去る事実を手に入れるための代償。
判っているつもりだった。
頭だけでは理解していてもままならないものだ。
何人砕いてもこの感触だけは変わらない。
ぐずりと。
そう、まるで砂でも掴むかのように崩れ去ってしまう。
ほんの僅かに力を加えれば。
風に流されていく砂漠の砂のように。
でも、それはあまりに細かくて見ている端から――蒸発するように消えてしまう。
煙のように。
その瞬間だけは耐えられない。
何故か自分が砕け散っていくのを見ているようで、肩から力が抜ける。
指先にかけて、何かが突っ張ってしまうような痛みが走る。
だからそれはきっと引き替えなのだと、そう言い聞かせてみる。
これも代償。
ではいったい、何の代償だというのだ。
これだけの代償を払いながら、俺は何を手に入れたというのだ。
全身を苛む脱力感に包まれながら俺はいつも思う。
違う。
そんなモノは望まなかった――と。
痛み始めた時、私が産まれた。
死を覚えた時初めて生を知るように。
望まない力によって痛みを覚え、俺は考えるようになった。
俺ではない俺――私は、自分の事をそう呼ぶようになった。
私はいつの間にか自分を把握している。
いつどこで何をしてその時には何を思って何が目的で何を求めて何が必要だったのか――
でも、私は一人だ。
私は乖離している一つの人格ではない。
人格ですらない、私は俺だ。
だが同一の人格ではない。そこに、大きな違いがある。
痛みに苦しむ俺と、痛みにより産まれ理由を考え続ける私。
何故産まれたのか――その存在理由を考えようにも、俺はその痛みに気をとられている。
私の存在を考えようともしない。
私は影ではなく、相似形なのだ――俺の。
考えたことがある。もし逆らう力すら失った小さな獣だとするならば。
俺が、力を持っていないとするのであれば。
笑止。
そんなことは絶対にあり得ない。だから、俺は見捨てられないのだし、また逃がそうとしないのだ。
おもしろいじゃないか。
ああ、判っているさ。
俺は奴らにこの力を与えられた。だがその力の行き場を知る奴はいない。
だから――
Chapter 2 臣司 ― Shinji ―
信じられないものがある。
それは噂、幽霊、超能力、宗教…名前だけあって論理的に形を一切持たないもの。
そんなもののどこが信用に足るというのだ。
魔法、それは非論理的な存在だ。
神様、それは偶像にすぎない。
確かに感じられて、見ることができて、ふれることのできる全てが現実。
さようなら
現実――疑う必要のないもの、それは金を含めて全て、確実な権力とも言える。
たとえ論理的であっても薄氷のように漂う、朧なものは信頼してはいけない。
そうやってずっと言い聞かせてきた。
――久々に見たな
畳に直に引いた布団から身体を引きはがして、彼は枕元においたアルミの灰皿をひっつかむ。
くしゃくしゃのパックから、残った煙草を引き出すとチープなライターで火をつける。
すぐに吸い慣れた濃い香りが鼻腔に流れ込んでくる。
朝の冷たい空気と同時に、一気に脳髄を醒ましてくれる。
――…参っているのかもな
ため息をつくように煙を吐き出して、彼は思案するように煙草をくわえたまま布団からでた。
他愛のない噂――それは本当に些細なことから始まった。
「増殖する?」
『Hysteria Heaven』と言う名前で販売されるドラッグが発見されたのは、今からおよそ一月前。
その時には、まだ発見が早いと思われていた。
だが最初の犠牲者が現れたのはもっと――そう、前の段階だった。
まず取り調べた警官が、勤務中に意識不明の重体に。
鑑識で検査中に、鑑識の人間全員が奇妙な幻覚症状を訴えて病院へ。
同様に、この薬剤は既に蔓延していた――
「ああ」
勤務中にいきなり何人も病院に担ぎ込まれたせいで、急にてんやわんやになった一課の刑事。
畑違いとは言え、仕方なく彼らはその穴埋めに奔走せざるを得なかったのだ。
矢環は持ち前の能力で仕事をこなしながら話を聞いていた。
その――『Hysteria Heaven』について。
「ヨーグルトを作る方法って判るだろう。アレと同じらしい」
彼は鼻で笑って書類をつまみ上げる。
「おい、信じてないな」
「信じられるか、そんな奇妙な話」
「噂かも知れないけどな」
同僚の話を打ち切ろうとして――大きな声が彼の背中からかけられた。
「おい、書類は後だ、行くぞ矢環」
木下憲一が、気むずかしそうな顔で彼の真後ろにいた。
それに黙り込んだ同僚を、少しだけ哀れむように視線を向けて、矢環は立ち上がった。
「はい」
はっきり言って最悪の状況だ。
手がかりになるものは、最初にたれ込みのあった少年だけ――それも、全くの無駄足に過ぎなかった。
捜査は振り出しに強制的に引き戻されたと言っても良い。
そしてそれから一月がたったというのになんの進展もない。
「薬?」
それだけならまだ良いだろう。
週に一度ほどのペースで未だに奇妙な殺人が続いていた。
このままでは自分の捜査能力まで疑われてしまう。
それだけじゃない――これだけの事件に何故、上層部は動こうとしないんだ――??
「はい」
今回の通報だって、結局事後。どれだけ情報が手に入るか、それが重要になる。
「…電話は誰が対応したんだ?」
場所は駅裏、繁華街からかなり離れた路地である。
ビルとビルの狭間で、人間の破片が発見されたのだそうだ。
「自分ですよ。恐慌状態に入った青年からの通報でしたから、どこまで正しいか判りませんけどね」
渋い顔でハンドルを回しながら、彼はつぶやいた。
矢環とコンビを組んでからは長い。
木下は大きく息を吐いて腕を組んだ。
「自分は薬のせいかな…とも思うんですけど」
「なんだ、幻覚とでも言いたいのか」
矢環はちらっとミラーを見るように、助手席の木下を見た。
不機嫌そうな表情はいつものことだが。
「いいえ。妙な興奮状態にあったからです」
それに――と、付け加えようとして、彼はやめた。
「ここですね」
既に現場に到着していたからだ。
車をそのまま適当な路肩に停めると、二人は無言で車を降りる。
粗末なビル街によくある、無機質で嫌な臭いに囲まれた場所。
ここに住み慣れていない限り、常に嗅いでいなければならない臭い。
木下はいつ来ても慣れなかった。
懐からメモをとりだして読み上げる矢環に、そんな仕草は見られない。
「通報者の名前は佐藤俊平、この辺じゃ名の知られたちんぴらです」
ちんぴらに知名度を求めるな、と木下は軽く吐き捨てながら聞く。
「男は普段この辺をよく歩いていると言ってましたが、前科ありの薬のバイヤーをやってます」
言いながら通報されたビルへと近づいていく。
この辺りに乱雑に立てられたビルの中では結構新しく、小綺麗な印象を与える。
だが、開発時期がバブル期最盛期であり、周囲の環境等はあまり良くない。
ビルとビルが、人が入るのが精一杯という狭い道を作ってしまうのを見ればそれがすぐに判る。
酷いのは、そんな隙間に自販機をおいたりしているところか。
影になってしまって裏側にゴミが溜まり放題になっていたりする。
――法的にもかなり無茶をしてるようだしな
駅に隣接した地区でもかなり酷い地区だ。
「違法な薬の取引は、首都だけの物だと思っていたがな」
やんわりとかなり厳しい発言をする木下。
思わず矢環は口元をゆがめる。
「まぁまぁ。そう言うことを言っているから、『名物刑事』になっちゃうんですよ」
矢環の物言いにふんと鼻で答える。
こんなやりとりも、矢環だからである。
もし一課の他の人間なら、そんな言葉だってでてこないだろう。
「えーっと…」
ひょい、と顔をつっこんで一瞬彼は硬直する。
振り返って彼はビルの隙間を指さした。
「ここです」
木下は彼に続いて、隙間をのぞき込んだ。
ビルとビルの幅はおよそ50cm、人間が横ばいになって進める程度の隙間。
その汚れた通路の真ん中を占拠するように、何かが落ちている。
なにか――そんな風に誤魔化す必要はないが不自然さがそこにある。
「…本当に人間のものか?」
衣服を来たまま、乱雑に並べられた人間の部品。
それは死体と言うよりはむしろバラバラのマネキンと言った感じを受ける。
「…………それって、いけって事ですよね」
「判ってるならさっさとしろ」
気のない返事をして、矢環はゆっくりと身体を横にしてその隙間に入っていく。
木下は部下の姿からビルの壁に視線を移し、そのまま壁を眺める。
――窓は…ないな
こちらに面する壁に、一切窓はない。
ダクトが開いている物の、全て鎧状の格子になっていてとても物を投げられるような隙間ではない。
結論は一つ。
わざわざこんな隙間に、好きこのんで放り投げたと言うことだ。
「人騒がせだ…」
「警部っ」
妙にくぐもった叫び声に、やれやれと肩をすくめて矢環の側まで行く。
「どうした」
「これ…これは、人の死体です!本物の、人間の死体です!」
――これも領分だろうか
木下はすぐに署に連絡を入れて人員を要請した。
所轄の人間が来るまでの間、くわえ煙草で死体の転がる路地を見つめて考えをまとめようとしていた。
――これは今までに起こっている猟奇殺人と同じ物だろうか
すぐには返答できないだろう。
今までは、死体は無為にバラバラに刻まれていた。
つい先日に起きた事件でもそうだった。
だが目の前にあるバラバラの四肢は、明らかにそんな意思を感じられない。
細片に刻むのは、身元不明はおろか人間であることすら隠すために行われた物と思われている。
どんな刃物でどのようにすればそう言う風になるのか、それは未だに判っていないが。
だが今目の前にある不自然な死体――そう、血痕を一切残さない死体は違う。
――手段不明なのは今までと同じだが
何故ここまできれいな状態で死体を放置しているのか。
一番論理的な答えは、どうやっても一つしかない。
――見せしめ
この殺し方だけで、死体の処理の仕方だけで恐らく意味が分かるのだろう。
どう見ても普通じゃない殺し方――いや、死体の扱い方だが。
「…鑑識に回しても、たいした物はでてこないだろうな」
「同感ですね」
思わずつぶやいた独り言に反応した矢環に目を向ける。
矢環は丁度彼と反対向きに立っていて、車に手を乗せている。
「それ、死んでからそんなに経ってないみたいでしょ?」
彼は顔を木下に向ける。
視線が合って、彼は死体に目を戻した。
血痕もなく、綺麗な死体――そう、傍目にマネキン人形にしか見えないぐらい。
「でも、切断面はすごい有様ですよ」
まったくどうしてこんな酷い事件ばかり担当するんだろうか。
そんな風に聞こえた。
「と言うことは、害者は…バラバラにされて、綺麗に血抜きをされて、さらに化粧までしてから捨てられた、と」
そんな事をするのは余程の変態だろう。
矢環は首を振る。
「いえ、化粧はしてませんよ。本当に生きたままばらされたみたいですけど」
「どっちにしてもいい話じゃないな。マフィアか…どっかの殺し屋の仕業だろうな」
と自分で言って、先刻の話が脳裏をひらめいた。
――薬、か…
何にしてもこの事件は自分の担当ではない。
そう結論を出した時、最初の車がそこに到着した。
「木下」
現場を引き継ぎした一課の同僚に任せて帰って来るなり署長に呼ばれた。
「何ですか?先刻の現場の件ならお伝えしたとおりですよ」
署長の岡崎は苦い顔を浮かべると首を横に振った。
「そんな事なら止めたりしない。…ちょっと話がある」
貌から滲み出る苦み。
木下は軽口も叩かずに頷き、岡崎の後ろについて署長室へと入った。
彼の直属の上司に当たる岡崎は煙草を嫌う、珍しい人間だった。
署長室はだからいつも白く、署内分煙化の主導的人物なのだ。
「事件の捜査、うまくいってるか」
だからこの部屋はあまり好きではない。
署内分煙化に限ってはあからさまに敵対しているのだから。
あの匂いがないと落ち着けない。
まるでそれを知っているからこそ、ここに呼び出しているようにも思えた。
「進んでませんね。今回の殺人は、巧く外れでしたし」
ああ、と署長は頷く。
「今までとの連続性――『ミンチ連続殺人』、手を引かなければならないことになった」
――え?
岡崎が木下の表情をのぞき込むように伺っている。
彼の表情の一つ一つをつぶさに観察するかのように。
「結論はそうだ。どうせお前のことだ、理由は一切聞きたがらないだろう」
ふう、と安心したように息を吐くとどっかと自分の椅子に腰を深く沈めた。
木下は表情を凍り付かせたまま、言葉の意味をゆっくり咀嚼している。
「…それは、私が…捜査からはずれることを言っているんですね」
岡崎は頷く。
「残念だが、な」
「ええ。全くです」
ミンチ連続殺人を、初めに連続殺人だと断定したのは彼だった。
その殺人の類似性――ただし、規模は異常に大きいと判断すべきだった――を、場所や時間という既成概念をはずしてまで考えたのだ。
組織がらみである可能性は否定できなかった。
だが、この所轄でできる捜査などたかが知れている上に何より、刻まれた死体以外の証拠は残っていない。
そのため表だった大きな捜査を行うこともできなかった。
「上は、この事件を明るみにするつもりらしい。そしてお膝元で捜査をするということだ」
報道は明日の朝、今日中に準備を行い記者会見については明日の朝に行うという。
どこからか漏れたのか、それとも上の判断なのか――今のところ不可解な事が多かった。
ただはっきり言えるのは、このために一つ痛手を被ったことだ。
木下はため息をついた。
「まぁしっかりやってくれているし、別におとがめもないし」
ふん、と木下は鼻を鳴らした。
――結果がでなかったからだろ
事件の重さを鑑みて、極秘に数人で行った捜査は不可能という判断は、すなわち彼の彼の捜査の失敗を示している。
誰がそう言わなくても、彼はそう思っている。
「おとがめが無ければいいだなんて、古い体質ですな」
皮肉混じりに呟く彼に、岡崎は署長の顔ではなく一人の警察官の貌を浮かべて口元を歪める。
「木下、今日日お前みたいな古い体質の警察気質な男も珍しいぞ」
警察気質――岡崎がこうこぼす時は署長ではない。
「先輩、判ってるんだったらそれでいいじゃねえか」
「警察ってのは結局組織だ。…お前にはどう思われても、俺の行動ってのは政治の一つだからな」
二人は大学での後輩先輩同士――逆に言えば、岡崎は怖ろしく早く出世した事になる。
確かに木下は『問題児』扱いでかなり出世が遅れている事になるが、それを差し引いても二歳違いとは思えない。
――まぁ、普通ならそうだろう。
木下にしてみれば『当たり前』の事らしいが…
「そう言うところは、見習わないと出世できないな」
へへへ、と笑いながら木下は肩をすくめた。
岡崎はふふん、と鼻を鳴らして頷く。
「ああ、署長にそれだけ言える一介の刑事って奴はどこを探したっていないさ」
「…それは一応、褒め言葉として捉えておくさ」
そう言うと、彼は少し居住まいを正す。
「署長」
こういう時は、止めたって聞かない。
長い付き合いだけによく判る。
――もしかして、だから配属されてきたのかもな
巧く操縦するのではなくて、彼の分の責任まで負え、という暗黙の命令だろうか。
暗鬱たる気持ちに、彼は小さく頷いた。
「判った判った、今更署長もくそもないだろうに。…もう俺は知らん。休暇中のお前の行動まで縛るつもりはない」
お約束の殺し文句を呟くと、彼はにっこり笑った。
「日本国の法律と、警察官のモラルに反しない程度に、好きな行動をしたまえ」
「はっ」
彼は大げさすぎる敬礼をして見せると、署長室を出た。
木下警部は捜査一課ではかなり有名な人間である。
署長と先輩後輩でつーかーの仲、それももちろんあるが、何よりその熱い捜査方針があんまりにも有名なのだ。
捜査中に『一般民間人』などという言葉を使う警官は、それだけでも処分の対象になりそうなものだ。
この木下の呼び出しも、周囲の人間はお叱りだと思われていたらしい。
だから署長室を出てすぐは誰も彼に視線を向けることはなかった。
――ふん
彼にとっては、それすら勲章に感じられた。
後ろ暗くひねくれた事ではなく――本当に、誇らしげに。
「木下さん、どうでした?」
だから結局、一番に話しかけてくるのは彼――矢環だった。
「伸也、俺は明日から一週間有休を取ってきた」
へ?と怪訝そうな貌をする部下に、できる限りの笑みを使って答えてやる。
「おい、なんだと思ってたんだよ、署長の呼び出し。無茶な休暇だとは思ってたけどさ、言ってみるもんだぜ」
矢環はああ、と頷く。
「じゃぁ」
「ああ、海外でゆっくりしてくるさ。予定通りな」
予定通りの言葉を聞いた矢環はうんうんと頷く。
「――で、行き先はどこです?ううん、それより今日はそれじゃとりあえず一緒に呑みませんか?」
申し合わせたような彼の言葉。
「折角一山終えた事だし」
さりげなく机においた手の下に見える休暇申請書。
――馬鹿が
思いながら口元には笑みを浮かべる。
「んだったら休み取ってこいよ。言っておくが俺は呑むぞ」
「望むところです。せいぜいおみやげ、ねだらさせてもらいますよ」
矢環はにかっと笑みを浮かべて休暇申請書の上で拳を作った。
「これが今回の事件の概要資料だ」
本来ならもう既に提出済みであり、捜査が終わったなら破棄するべきコピーした資料だ。
こう言うのを平気で持っている辺りが、彼の彼たる所以なのかも知れない。
「手口の似通った殺人なので、同一犯の犯行だと俺は見ている」
彼らは木下の自宅――木下は結婚しているので家を持っている――で話をしていた。
いつもよりも少し早い時間に引けた彼らは、いったん木下の家で話をまとめることにしたのだ。
「…でも木下さん」
ファイルにきれいにまとめられた資料をつまみあげながら、矢環は言う。
「これ、とても普通の人間が行なった犯行とは思えませんよ」
矢環の表情はまるで嫌なものを見た人間の表情だった。
そう、彼でなくても、どれだけ修羅場をくぐった刑事であっても吐き気を催すような事件だ。
「多分だな。…所詮、人間の正気っていうのはどこからどこまでなのか明確な境目があるわけじゃない」
詭弁のような言葉をつむぎ、木下は腕を組んだ。
だが、そんな狂気に満ちた事件だからこそ、早く解決しなければならない。
「全て何らかの手段でなます切り。必ずと言って良い程、何の証拠物件も残っていない」
死体ですら証拠にならない状況では、なんともいえない。
「期間は不定期、対象は無差別、場所はこの街に限られている」
彼の言葉に、矢環はあごに手を当てて首をひねる。
「犯人の目的ってなんでしょうね」
「さぁな。それが判るんだったら苦労…」
言いかけてはっとした。
長年刑事をやってきているというのに、そんな基本的なことを考えていなかった。
今朝の事件ですらまずそれを考えたというのに。
――これだけのことをしでかして何の得がある
人を殺すことをもし趣味としているならその命題は無駄もいいところだ。
彼は食事をするように人を殺しているのだろうから。
では、――いや、屠殺は食事をするために食べる部分を寸断するのだ。
今回のように膾にする理由がない。
膾に切り刻みたくなる程、相手を恨むか――さもなければ。
「木下さん?」
「あ。ああ、いや、そう言や犯人の目的なんか考えてなかったからな」
考える暇もなかった、とも言える。
なにせ処理すべき内容が多すぎるのだから。
「まぁこんな殺人事件ですから。目的が思いつかないのも正しいですよ」
殺人にはいくつもデメリットを持つ。
ただ快楽のためだけに殺しているにしては、目立ちすぎる。
もしかしてそのぎりぎりの線を楽しんでいるのかもしれない。
「まいったなぁ…」
ぷるる ぷるる
その時間抜けな電子音がした。
矢環に目を向けて、彼がうなずく。
「はい、木下だが」
『ぜんぜん酔ってないじゃないか』
その声は岡崎のものだった。
◇次回予告
「殺人がこう立て続けだと人が足りなくてね」
休暇を取り消されて、別の殺人事件を担当することになる木下。
「ちっ、結局休暇は昨晩の数時間だけじゃねーかよ」
そして彼は――ビルの谷間で奇妙な物をみることになる。
Holocaust Chapter 2: 臣司 第2話
それと悪いな、今丁度煙草を切らしてるんだ
事件の幕が開ける
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