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Holocaust ――The borders――
Intermission

ミノル 1   第3話(最終話)

「夢?」
 実隆の目の前で、ミノルは甲高い裏声をあげて問うた。
「夢のはずがないだろう。――これは真実さ。お前の足下に転がってる死体に聞いてみると言い。『お前は生きているか』って」
 自分と同じ顔が、唐突に怖ろしい冗談を言った。
 『お前のために用意した、歓迎の挨拶だ』と。
――殺した?人間を…こんなにも殺したのか?
「どうした。お前も殺したんだろう?今日」
「っ、殺してなんかっ」
「あれで死んでいないと言えるのか?――あれだけ派手にやれば、死んでいなくても半身不随ですめば良い方だ」
 にたり、と同じ顔が笑みを浮かべる。
「俺も殺した。――ただそれだけだろう、何を戸惑っている」

  ざり

 地面をかむ石の音。
 靴の裏で砂利をかじる音だ。
――奴が近づいてくる
 瞬時、彼の姿が消える。
 唐突に背中側から引きずり戻される感覚。
 抗うことのできない力で、足が浮き上がる。
 そして――目の前には、紅黒い地面。
「腑抜けめ…覚えておけ、もう、お前には逃げ場はない」
 耳元で囁かれて、直後脂の匂いが鼻に流れ込む。
 ぴちゃりと冷たい液体の感触が頬に。
 ずるりと膜を拭うような感触が手に。
――覚えていられるのは、それだけだった。

 報道管制がしかれた殺人事件に巻き込まれた被害者として、いつか取り調べを受けた刑事の前に座っていた。
「ふぅ、なんだかなぁ」
 木下は後頭部をがしがしと思いっきりかいて、目の前の少年と相対していた。
 少年は二日前の夜に『犯人』とめぼしい人物である彼に職務質問をした。
 手がかりはゼロ、彼は全くの無実であることが判った。
 にも、関わらず。
――全く無関係だった訳じゃないのか
 そう言うことになる。
 今回の殺人の手口は前回によく似ている。そう言う意味では、同一犯の犯行である可能性が高い。
――目撃者と勘違いされて、襲われたか
 だとしても、彼は無傷の状態で発見された死体の側で気を失っていた。
「……何があったのか、教えてくれるよな?一般市民」

 記憶ははっきりしない。
 どんな状態で、どんな状況で、その言葉が紡がれたのか。
 ただもう――死の匂いと血の感触が全てを忘れさせている。

  『忘れるな、お前の周りには敵しかいない』

 同じ顔をした化物。
 思い出したくない景色。

「木下さん」
 気遣うような女性の声が、刑事の隣から聞こえた。
 俯いていたので気がつかなかった――この間、質問を繰り返した女性だ。
 彼女は明らかに咎めるような目つきで刑事を見ている。
 刑事はちらっとそっちを見てから、ふんと鼻を鳴らして実隆の方を見た。
 実隆は助け出されてから、一度シャワーを浴びて身体を洗った。
 家に帰る前に、こうして取り調べを受けていると言うことだ。
 もう家の方には連絡が入っている――預かる、という意味の電話が。
「…なぁ、見たことを話せばいいんだ。…何でお前が殺されずにあそこに倒れていたのか、事情を教えてくれるだけで良いんだ」
 高飛車というよりは全く気遣いのない言葉。
 だが今の実隆には、そのぐらいの言葉では全く動じることはなかった。
 相手は――人間だ。
「覚えていません」
 正しい記憶など、与えられるはずはない。
 ショックが激しかったのは当然だが、それ以上に信用してもらえないような証言など――する気が起きない。
 かといって、『犯人は私です』などと言えるだろうか?
――莫迦な
 第一、そんな真似をしても無駄だ。
 それすら狂言にしか聞こえない。
 事実そんな嘘を言っても仕方がないはず――だ。
――それでも…あいつは、俺と同じ顔をしていて
 同じ名前だった。
「……判った、まぁ、先刻の事もある。今日はこれで帰ってくれ」
 刑事は投げやりに言い、渋い顔で頭をがりがりと掻いた。
「あ、それと、私の名前は木下だ。…近いうち、また出頭してもらうかも知れない。それは覚悟しな」
「刑事さん」
 実隆は立ち上がらず、机の上で手を組んだ格好で彼を見上げた。
 不機嫌そうな顔をした、父親より少し若いぐらいの刑事。
 しかめっ面しかできないような、頑固な男の顔。

 その顔が――ゆがむところをみてみたい

「以前、自分を犯人扱いしていたのは、こんな猟奇的な事件なんですね」


 実隆はふらふらと夜道を歩きながら帰っていた。
――あ、そうか
 コンビニに買い物に行った事をすっかり忘れていた。
 もしかすると、今警察署にあるのかも知れない。
 確認するのを忘れていたし、返してもらうことも忘れてしまった。
――まぁ、いいか
 多分、家に帰ればそれもうやむやになる。
 何より今の警察署にのこのこ戻る気はない。
 吐き捨てるように聞いた木下の言葉がまだ耳に残っているから。

『そうだ。どうせならお前が犯人だったら楽な事件だったのにな』

 そうかも知れない、でも、あの状況で自分が犯人だと証言したところで無駄だ。
 証拠不十分で釈放してしまうのがオチだろう。

  血まみれの路地裏

 ふと穹を見上げた。
 星が零れてきそうな満天の空。

  存在理由

――俺は一体誰なんだろう
 路地裏で惨殺していたミノルは一体誰なのか。
 自分と同じ顔をして、自分と同じ声をしているのに、全く考え方の違う自分。
 あれは――誰なのか。
「実隆!」
 答えのでないまま、気がつくとそこは自分の家の前だった。

 玄関には上着を羽織った隆弥と里美がいた。
 二人とも心配そうな顔を彼に向けている。

  何故か遠く見える その家の光

「兄貴…」
「心配したよ。まさか何か事件に巻き込まれるなんて」
 隆弥は真っ先に口を開いて、実隆の側まで来る。
 里美は「飲み物いれてくるから」と玄関から奥へと入っていく。
「…うん」
 実隆は簡単に返事をして、隆弥と並んだまま家に入った。
 食卓で両親がお茶を淹れて待っていた。
 待ちかまえられているようで、実隆は無言のまま卓についた。
「無事みたいだな」
 実隆の様子を見て、重政は一言言うと一口お茶を啜って立ち上がった。
 里美も視線を投げかけるだけで、何も言わず彼が去るのを見ていた。
「里美さん」
 隆弥が声をかけると、里美は頷いて席を立った。
「お茶、お代わりいるんだったら沸かしてあるから」
「うん、おやすみ」
 里美も軽く頭を下げて微笑んで返し、とてとてとその場を去った。
「さて」
 彼は自分用のコーヒーを淹れ直して、実隆の前に座り直した。
 実隆はマグカップの中身で自分の手を暖めているだけで、いっこうに飲もうとしない。
 時折生きているのを確認できるような呼吸をしていることが判るぐらいだ。
「……もう遅いけど、約束通り少し話をしようか」
 そう言って、彼は一口コーヒーを啜った。
 実隆は彼の提案にふと顔をあげて、思い出したように頷いた。

 だが、結局何を言って良い物か判らず、実隆は逡巡していた。
――夢の疑問
――傷の疑問
――死体の事
――自分の事
――曖昧な事
――そして
 なにより、目の前にいる隆弥自身の事。
「兄貴、俺…」
 言うべきだろうか。
「…人を殺したのかも知れない」
 隆弥が、その笑顔のような表情を僅かに揺らした。
 だが、彼が口を開くより早く続きを紡ぐ。
「コンビニに買い物に行った時、変な視線を感じた。…そして、路地裏で、死体を見た」
「この間見た夢かい?」
「…違う。警察に連れて行かれたのは…」
「発見者だったからか。……まぁ。お前がうそをつくはずもない」
 ずず、とコーヒーを音を立てて啜る。
 その表情は決して揺るがない――ように見えるのかも知れない。
 元々、表情のわかりにくい顔なのだ。
 冷静なのかぼぉっとしているのかははっきりいって、付き合いの長い彼でもよくわからない。
「――それだけじゃ、ないんだ」
 どこまでが夢で。
「俺は」
 どこまでが今ある現実なのか。
――くっ…
 ぎりぎりと自分の歯が軋むのが、聞こえた。
 思わず顎に力が入った。
 それも全力で。
 自分の意志でそれをこじ開けようとして、まるで力が入らなくなる。
 身体が、それを拒んでいるように。
「落ち着けよ。…それじゃ、今度は俺がお前に言いたい事があるんだ。…落ち着くまでいいかな」
 がちがちに固まった表情をほぐすように、実隆は顔に手を当てて頷いた。
 それから、溜息をついて隆弥はコーヒーを飲み干してしまう。
 短いようで、実は長かったんだと感じる瞬間。
 それは、自分の手の中で、お茶が冷たくなってしまっている事に気がついた時。

 話の内容は、彼の子供の頃の話だった。

 どの辺から記憶が曖昧なのか、良く覚えていない。
 実隆は、多分眠かったせいだろうと考える。
「こら、聞いてるのか?」
 可笑しげに笑う隆弥に、気がつくと彼が顔を覗き込んでいるのが見えた。
「あ…あ、悪い」
 実隆が答えると、隆弥は口元を吊り上げるようにして笑う。
「大事な話だぞぉ。お前と初めて会った時の事だ」
 にひひ、と普段では絶対見せない笑いを浮かべて、楽しそうに実隆を見つめる。
「……会った時だったら、俺だって覚えてるだろうが」
「いーんや、遠くから眺めただけだから。ミノル、お前を引き取りに行く前に一度俺はお前を見てたんだよ」
 楽しそうに言い、彼は肩をすくめてみせる。
「『こいつがミノルって奴か』ってね。親父に写真を見せてもらってたから」

 児童養護施設の塀の向こう側。
 そこは、あり得ない世界と変わらなかった。
 だから実隆の中の世界は、児童養護施設までで留まっていた。
 親類というものは名乗り出ることもなく、結局施設に留まっていた年長者――世界の中でも最も孤立していた人間だった。
 どういう類の施設だったのか、とりあえずの教育と生活を覚える事はできた。
 理由は判らないし、知らない。
 その記憶の外側に何があったのか、彼の記憶ではもう曖昧で判らない。
 今思い出せるのは、その施設の外形と。
 ただ、自分の名前が書かれた紙を握りしめて今の家族と対面した瞬間だった。

 隆弥の話は続く。
「面白いことを白状してやるよ。……俺も、実はこの両親の子供じゃない」

  めき

 今の音は、自分が全身を緊張させたから聞こえたんだと思った。
 事実、体中がこわばっている。
 今の言葉を聞いて、全てが揺らぐ気がした。
「兄貴…」
「嘘、だと思うか。……まぁ、ゆっくり考えてみてよ、その辺は。俺はこれ以上言うつもりもないし」
 第一、と彼は一言付け加えた。
「似てるだろ?両親と」
「……兄貴」
 隆弥は可笑しそうにくっくっと笑い声をこぼして、唖然と見つめる実隆を見ながら言う。
「ミノル、引き取られてきた時に持っていた名前、合っただろう。アレ、一人分の名前じゃないぞ」
「え?」
「実隆の、実って字と隆って字、間があいていただろう?」
 ぞくり、とした。
 今平気な顔をして話をしている彼の顔を、じっと見つめてなんかいられない。
 ただ何を言おうとしているのか――それが気がかりで、そこから離れることができない。
「ミノル、あの紙な、お前の名前って訳じゃないかも知れない」

  どくん

 『俺か?――ああ、俺の名前は、柊 ミノルだ』
 奴の声が、脳裏に蘇る。
「…どうして」
 どうして今頃。
 どうして今まで。
 そして――どうして、何故隆弥が。
「そんなことをいうんだ」
「何故?」
 隆弥は、その時初めて目を丸くして、うーんと気軽に物を考える時のように首を傾げた。
「何故…そうだなぁ、この間から言っている、『自分の親族探し』の何かの役に立つと思ったから」
 悪気のない笑みで答え、彼はしきりにこちらの様子を窺う。
 実隆は――硬直していた。
 完全に取り残された、そういう感じだった。
 だから隆弥は眉を寄せて少しだけ落ち着かない様子を見せた。
「お、おい、そんなに真剣に悩むなよ、俺が悪いみたいじゃないか」
 おたおたして彼はお湯を火にかけ直して、お代わりの準備を始める。
「悪かったよ、何かそんなに心配なことがあったのか?」
 今度は先刻までの顔ではなくて――そう、彼の顔が、態度が意地悪に見えた時とは違って。
 妙に、おどおどして見えた。
 それがおかしくて、苦笑して実隆は手を振る。
「いや、ちょっと…びっくりしただけだよ。兄貴だって別の…施設だったのか?」
 ははは、と笑ってやかんにかけた火を止めて、彼は自分のカップにお湯を注ぐ。
「…お前は日本茶か?」
 頷くと、彼はお湯を急須に注いでくれた。
 それを受け取って、自分のカップに注ぐ。
「俺は施設じゃない…親が違うだけだよ」
 はは、と僅かに照れた仕草で彼は席に着いた。
「こうやって兄弟で話すのもあんまりなかったよな」
「なくなった、の間違いだろ?兄貴が寝坊するようになって」
 痛いところをつかれた、そんな風に彼はぱしりと小気味の良い音を立てて自分の額を叩いた。
 滑稽な様子に、実隆は笑う。
「そうだな。こりゃしてやられたよ」
 ははは、と笑いながら、ゆっくり席に着いた。
「…でも、そう言えばそれっていつ頃の話だったっけ?」
「高校に入る前ぐらいだろ?…そうだよな、部活に入るのを決めたぐらいから急にだから」
 当初から主将に不満を言われていたのを思い出す。
 隆弥もそれを聞いて――自分の事なのに忘れている位、彼はボケているのだ。
「まぁそんなだからだよ。…気にしちゃいけないよ」
 自分で言うのか、それを自分で。
 つっこもうと思ったが止めた。

 もう夜中の二時を回っていた。
 とりあえず寝ることにして別れて、実隆は自分の部屋に戻った。


◇次回予告

  立て続けに起こる殺人事件。
  早朝の殺人――それもまた関連性のない変死事件だった。
  結論も出ないまま、木下警部は捜査から外されることになる。
  「日本国の法律と、警察官のモラルに反しない程度に、好きな行動をしたまえ」

 Holocaust Chapter 2: 臣司 第1話

 …所詮、人間の正気っていうのはどこからどこまでなのか明確な境目があるわけじゃない
                                            そして再び日は昇る

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