山伏山頂部山伏

山伏(やんぶし)で山の名である。山伏岳ではない。「岳」を付けるのは余計なお節介というものだろう。山中の標識にあったこの余計な「岳」は、すべてマジックペンなりで消されていた。
静岡市内から安倍川に沿ってバスに揺られること2時間、さらに歩いて4時間強の山伏は水の豊富な山だった。広い笹原の山頂からは南アルプス南部の山々がパノラマに眺められる。特に正面に眺める上河内岳の三角錐が美しい。だが谷間からわき上がってきたガスがその眺めを閉ざし、稜線をたどって大谷嶺(おおやれい)の手前に至る頃には雨雲になってしまい、八紘嶺(はっこうれい)まで縦走しようとしていた単独行者に大谷崩の下りを取らさせたのだった。


長いこと乗っていたバスを下り、斜面に広がる茶畑と人家を見ながら舗装された道を上がっていった。これからめざす稜線は雲に覆われ、5月中旬の空とは思えない重たさをなんとか支えている。通り過ぎる石垣のわきにはオダマキの花が咲いている。昼下がりの集落は人影がなく、ときおり山から下ってくる乗用車の後部座席には小さめのザックが鎮座しているばかりだ。車の音が遠ざかると、あとには左手の広い谷を流れる白い沢の轟音だけが残る。ここのところ雨がちだったせいか水量が多いようで、だいぶ高いところを通る車道からでも岩にぶつかる水流が飛沫を飛ばすのがわかる。
バス停付近のオダマキ 
バス停付近のオダマキ
舗装道はゆるやかに上下しながら大谷崩分岐に達し、その先の登山口まで一時間ほども続いた。広い駐車場の車の数を10まで数えて、小さいながらも水勢侮りがたい沢に沿って登り始める。樹林の中なので風通しは悪く、半時も登ればもう汗まみれになるので、なんども顔に水を浴びせ、ついでに一口二口啜る。沢と沢のあいだに付けられた道をたどるかと思えば、清冽な水があふれ出すワサビ畑を巻いていく。どこもかしこも騒がしいほどのせせらぎだ。だがそんな流れも登るにつれて細くなり、しぶきの跳ねる音も小さくなっていく。
最後の水場を過ぎると、沢はすぐ山の斜面に吸収され、初夏だというのに乾いた落ち葉が重なるだけになった。駐車場の車の台数と今まで出会ったパーティの数が等しいことから、もう上には誰もいないことがわかっている。明日まで人の声を聞くことはないだろう。取り残されたような感じが強まってくるが、実際には自分から離れていっている以上、勝手な言い分というものだ。
ときおり葉擦れの音が漂ってきていたし鳥の鳴き声もちらほらと響いていたが、薄い霧が下りている蓬峠で休憩のために立ちどまると、よそよそしいほどの静けさが迫ってくる。歩いているときよりも落ち着かない気分になるが、疲労が世界との和解を勧告するので意地を張らずに座り込み、頭を惚けさせていく。そのうちにあたりの木々が心配そうにこちらを見ているような気にすらなってくる。同時にかすかな低周波が響いてくるのにも気がつく。それは自分の血液がいつもより強く流れている音だった。
蓬峠 荷も下ろさずに記念写真
蓬峠 荷も下ろさずに記念写真
峠からは稜線に沿って登っていく。遠望が利かないので両側の樹木や地面ばかりに目をやりながら登るのだが、飽きるほど何度も道が折り返すので、行けども行けども山頂に近づいている気がしない。右に上がれば山頂、左に下れば避難小屋の分岐に着いたときには夕方近くで、登ってもガスで眺めもないだろうから山頂は明日の朝に回す。
10分も歩くと右手下に明るく開けた笹の斜面が広がり、その中に埋もれている屋根が見え始める。まばらに木々が立ち並ぶなかを小屋の前まで下ると、谷筋を向くようにベランダが設けてあり、ガスに閉ざされていなければかなり遠くの山まで眺められるのだろう。全体にしっかりした造りで営業小屋にしてもよさそうなくらいだが、問題は中だ。扉を開ける。予想通り誰もいない。小屋中央に土間が通り、両側に掃き清められた木の床が広い。避難小屋にしては十分すぎるほどの快適さだ。
山伏避難小屋
山伏避難小屋
林床が笹原で見通しがよいため、夕闇が落ち始めた小屋のまわりは寂しい明るさに満ちていた。携帯電話が通じるかどうか試してみると、電波はやはり入らない。これで自分は本当に切り離された夜を送ることになったようだ。中に入って荷を下ろし、あまりに疲れていたので柱にもたれて休んでいるうちに横になり、床の上に雨具で枕をしただけで眠りに入ってしまった。すっかり暗くなってから寒さで目覚め、慌ててシュラフを引っぱり出して眠り直す。


夢うつつの夜半、遠雷が聞こえたかと思うと、豪雨がやってきた。ガラス窓を通して稲光の閃光が差し込んでくる。激烈な雷鳴と雨音。一時間たっても雨はやまず、眠気も一時退却してしまったようなので、シュラフの中で腹這いになったまま暖かい飲み物を作ることにした。暗い小屋の一角がキャンドルランタンでぼんやりと明るくなる。バーナーを付けると、小屋の中がいかに静かなのかがよくわかる。ガスの燃える音がやめば、湯が注がれ、自分が飲み物をすする音が響くだけ。雷雲は静岡市内方面に去りつつあるようだが、まだ屋根を叩く雨音は大きく、木々のざわめきも弱まりそうにない。もう一杯くらい飲んでもいいかもしれない。
しばらくして、雨がやんだことに気付く。ベランダ側の窓を見ると、彼方の山が黒いシルエットになって月明かりに浮かび上がっていた。明日はきっと天気になるだろう....少なくとも朝のうちは。
2000/5/13-14

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