樽峠高ドッキョウ

年間を通して山を歩いてだいぶ経つが、いまだかつてヒルなるものにお目にかかったことはなかった。それがとうとうこの高ドッキョウで出会ってしまった。話には聞いていたがその気色悪さは予想以上だった。四万温泉で聞いていた通り、気をつけていても取り付かれるし、本で読んでいた通り、引っ張っても離れない。ヒル初心者としては山を愉しむような気分にはなれず、冬枯れの季節に出直してくることにしたのだった。


天気の不安定な9月の三連休に、一泊二日で山に行こうと考えた。各地の天気予報を見ると静岡方面が比較的安定している。前夜発日帰りで行けそうな所をと探して、山の見た目が佳く、なにより名前が個性的な高ドッキョウを訪れてみることにした。
東海道本線の清水駅からバスを乗り継いで板井沢というバス停に着く。ここから川沿いの車道を小一時間ほどで樽峠を目指す峠道の入口となる。道連れの沢音が晩夏を告げるツクツクホウシの鳴き声に変わると稜線は近い。やさしげな風が拭き越す峠前では石仏の地蔵様二体がお出迎えだ。十字路になっている峠に立つと山道に沿って延びる草原は日に輝いて明るく、植林のなかをたどってきた身には優しげに見える。
だがこの見た目の安心感は大きな間違いだった。この草原に踏み込んで峠の標識の写真をしばらくのあいだ撮り、植林帯の土の道に戻って、何の理由でだったか、たぶん念のため見てみようという軽い気持ちで靴を脱いだら、いたのだった。三匹ばかり。履いていた靴下が編み込みの強いもので、まだ表面でうごめいているだけだったのが幸いだった。とりあえず手近な石で削り落とした。
あたりを見わたして考えること小半時。やはり遠路はるばるここまで来て峠だけで帰るのももったいないと稜線のトレースに踏み込んでいく。ルートそのものは比較的穏やかで、上り下りがあっても苦になるものではなく、草原のなかに付けられた一条の踏み跡は見ているだけで愉しい。ヒルは峠付近だけにいたのではと思いたくなる。
樽峠からの稜線の道。じつはヒルが隠れている。 樽峠からの稜線の道。
だがこれも大きな間違い。しかも山道の表面ばかりでなく葉にも付いているらしく、峠から歩き出して半時ほど経ってチェックしてみると、左右の膝の両側に一匹ずつ。靴を脱いでみると、這い上がってくるのがいないか注意しながら歩いていたつもりなのに、右に一匹。驚いたことに、いつ付いたのか、ザックを下ろしてみると背負う側に一匹。
最初はライターの火を近づけてみたが落ちない。これ以上近づけるとスラックスや靴下に穴が開いてしまう。で、ナイフを使うことにした。ナイフで突くとよく伸びる。細い細い身体がよく伸びる。自分では付いたところから離れようとしない。いや遊んでいる場合ではない。片端からこそげ落とす。


今回はヒル対策などなにもしてきていない。あーもういい。今日は中止。であれば本数の少ない帰りのバスをつかまえなくては。全速力で峠に引き返す。峠直下の植林のなかに出て、ザックを投げ出してチェック。帽子と首巻きタオルを脱ぎチェック。上半身裸になって着ているものと肌をチェック。単独行なので背中を見られないのがもどかしい。しかたないので首巻きタオルで背中を洗うようにマッサージ。継いで右足。靴を脱いで靴下を、スラックスをまくり上げて足首を。いまのところ対象未発見。左の靴を脱ぐ。無事。さてと左のスラックスをまくり上げてみると、吸血中のが一匹。
そいつはいままでと同様、ナイフでこそげ落とした。ここは稜線ではないのでヒル拡散防止のためまっぷたつにしておいた。それにしても張り付いているのに全然気づかないとは…。しかし誰もいないからいいようなものの、しまいには下着一枚になってスラックスの裏表をチェックをした。人影の多い丹沢とかではできない相談だろう。
峠からも全速力で往路を車道に戻る。ヒル被害の拡大は鹿の繁殖に負うところが大きいが、登山者が気づかず里に連れてくるのも問題になっている。その一端となりたくはなく、またまた靴を脱ぎ、スラックスをまくり上げ、ザックの表面やら帽子やらを確認。さすがにここでは下着一枚にはならなかったが、どうやらもう付いてはいないようだ。ひとによっては家まで連れ帰ってしまうこともあるらしいが、あちこちで吸血の済んだのをぽろぽろ落として歩いているような気もする。それもまた気色悪い。
樽峠への登山道入口。バス停からここまで、茶畑は多い。 樽峠への登山道入口(左奥へと入っていく)。バス停からここまで、茶畑は多い。
帰宅して改めて調べてみると、雨上がりはまずいそうだ。そういえばこの日の朝は雨だった。季節としては夏に出るそうだ。高ドッキョウのヒルだと9月はまだ出るらしく、Webで検索しても出会った事例が報告されている。予防としては塩水を靴に吹き付けておくというのがあるが、すぐ効果が薄れそうだ。どうやら薬用石けんを靴と靴下と脚に塗り込んでおくのがいちばん確実で安上がりのようだ。ついでにスラックスにも擦り込んでおくのがよいかもしれない。雨が降ったら泡だらけになるかもしれないが。


高ドッキョウの稜線そのものはよい雰囲気なので、ヒルなど気にせず歩ける季節に再訪したいものだと思う。樽峠の下にあるヒュッテ樽なる無人小屋(予約制)がじつにしっかりとした快適な作りで、ここに泊まって稜線縦走というのもよいかもしれない。まぁ、いずれにせよ、葉が落ちるころあたりにまた考えることにしよう。
2008/09/14

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