志津倉山志津倉山の雨乞岩

南会津にある志津倉山(しづくらやま)には魅力的な言い伝えがたくさんある。登山道からも望見できる巨大な雨乞岩(写真上)では文字通り雨乞いがされたというし、この岩の左右には仏像のような洞穴があって中に入った者は廃人になってしまうそうだ。その洞窟の名も「父の胎内 母の胎内」というからすさまじい。
話はこれに尽きない。山中で大木が倒れたり岩が転がるような音がするので行ってみると、なんの痕跡もないこともあるという。「空木がえし」といって、「狗ひん様」というものの仕業らしい。たぶん天狗の眷属だろう。だがこの山の異界を支配するのは別にいる。それは千年の齢を数える化け猫、雨乞岩の対岸にある猫啼岩に住み、里に下りてきては死者を食らう忌まわしきものだ。この「カシャ猫」と呼ばれる怪物の難を避けるため、付近の村では夜中に目立たぬよう葬式を出していたという。そう遠くない昔の話だそうである。


まるで伝奇博物館のような志津倉山だが、ある年の秋も盛りの十月、機会があって友人達と地元の民宿に連泊する予定で訪れた。その名を知ったときから期待していたとおり、ただならぬ雰囲気は昨夜の雨で濡れた大スラブの雨乞岩を見上げるだけでも十分感じられ、南会津の素晴らしい紅葉の合間には目に見えぬものの妖気が濃密に漂っている。実は「二つの『胎内』を覗き込む」というのをやってみたかったのだが、登山道からかなり離れているので団体行動を乱してまで行く気はせず、彼我の境界を覗き見るのは見送らざるをえなかった。行ってみたらどうなっていただろうか。いや覚えていないだけで実は行ったのかも....。そして洞窟から出てきた自分は、もはや昔の自分ではなかった....。
この山では簡単ではあるが岩場も堪能できる。痩尾根に鎖場と飽きさせないが、グループで行ったものだから先頭が休憩に立ち止まると末尾のものはまだ岩場の途中ということも多く、登っているのならまだしも止まっていると不安定で仕方ないのだった。「もう少し進んでくれー」とか言って尾根の上に出ると、そこがまた絶壁だったりする。賛嘆の声を上げただけですぐに通り過ぎてしまったが、もっとよく目を凝らして下を覗き見ていたら、異形の者がこちらを見上げてじっと佇んでいたのが見えたかもしれない....。
痩せ尾根を登ると岩壁の縁だった
痩せ尾根を登ると絶壁の縁だった。
(たぶん「一ノ岩」付近)
山頂は秋色の会津の山を見晴るかす展望地で、澄んだ空気のなかで摂る食事とお茶が美味しかった。帰りは登りとは別のコースをたどって山腹の登山口に戻った。佳き山に一日遊んでかなり気をよくしたまま宿へ向かって長い林道をかなり下っていくと、友人の運転する迎えの車が上がってきた。日がそろそろ傾きだし、夕飯を探すカシャ猫の足音も近づく頃合いだったので、遠慮することなく車に乗って山を下りた。
1996/10下旬

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