牛妻坂下近くの曙橋から安倍川越しに仰ぐ竜爪山(文珠岳)  牛妻坂下から竜爪山
竜爪山は東海自然歩道が山頂を通るようになって耳目を集めるようになったと古いガイドにあるが、そうでなくても静岡駅近くで東海道新幹線の車窓から遠望する双耳峰の姿は印象的で、いわゆる低山の標高であっても気にとめる人は多かったのではと思う。
人気の山で、登山ルートは10くらいあるという。初訪なので安全と思える東海自然歩道のコースを辿ることにした。山頂北東の高いところにある穂積神社まで車で上がって往復というのが一般的な模様だが、神社から最高点の薬師岳を越え、展望のよい文珠岳へ辿っても1時間で到着してしまうようで、歩きでがない。しかもバスで行こうとすると移動時間が長く、乗り継ぎも面倒だ。コースの反対側、安倍川畔の牛妻坂下から出発すれば登り甲斐があり、静岡駅から乗ったバスを降りてすぐ歩き出せもする。という次第なので、牛妻坂下からの往復とした。


前泊した静岡市内の宿を出て、新静岡のバスターミナルに出る。一時間に3本程度の安倍線を待ち、日曜朝の下り線とはいえ乗客が少ないバスに乗り込んで(自分含めて2名)市内を北に向かう。
繁華街を抜け、住宅街となるころ、左右彼方に低いものの山並みが続いていることに気づく。畑地が目立つようになると遮蔽物がないので山稜がよく見える。すでに安倍川の脇を走るようになってきており、高速道路をくぐると、安倍川の谷間はあいかわらず広いものの、もはや平野部の趣はすっかり消えている。
牛妻坂下は曙橋という長い橋の手前の停留所で、人の住む家はたくさん並んでいるものの目につく店といったら理髪店のみ、自動販売機もないという場所だった。山側に上がる道筋を探し、集落内に延びる狭い舗装道をたどって、東海自然歩道の案内板に遭遇し、あとはこれに従って歩いて行く。曹洞宗のお寺を右に見るところで、古い(1991年)ガイドでは山道になるとされていたルートに入る。いまでは立派な舗装道で、農道として整備されたことが後でわかる。
竜爪山福寿院
元は穂積神社の地にあって神仏習合していたが、明治の廃仏毀釈でこちらに下りてきたという。
 
 
陰鬱な車道をしばしで眼前に広がり出すのは山の斜面に広がる茶畑だ。かつてここに至るのに未舗装の作業道を辿っていたとすれば、いかに茶葉が軽いとはいえ収穫期は苦労があったことだろう。舗装路途中には石碑があり、小峰農道なるものが平成元年に竣工したとある。見上げれば斜面遙か上まで茶の木の畝が広がっている。その左手には山頂部に反射板のようなものを掲げたピークが浮かんでいる。このときはわからなかったが、これが竜爪山の二つあるピークの一つ、文珠岳そのものなのだった。
安倍川に面する山の斜面は傾斜が急で、舗装道は斜面をからむようにいったり来たりを繰り返しながら高度を上げていく。予想外に高いところまで畑があることに驚きながら、そこここにある作業小屋をやり過ごし、登るにつれてせり上がる安倍川対岸の山並みを見やる。こちら同様の低山だが手の入った跡が目立たずよい感じだ。見下ろすようになった安倍川は白く広がる河床が大きいものの、流れ自体は季節柄かだいぶ細い。
茶畑上辺の山道分岐前から見渡す安倍川周辺
茶畑上辺の山道分岐前から見渡す安倍川周辺
右奥は大山?
辿ってきた舗装道の途中、山道となる分岐には東海自然歩道の案内板が立っていた。出だしの山道は掘り割りのように抉れていたが、早々に歩きやすいものになる。周囲は杉の植林で、間伐が適切に行われているのか陰鬱な趣はない。茶畑の舗装道と同じくジグザグを切って高度を稼ぎ、稜線に出る。ベンチが用意されていて休憩にはありがたい。


ここから尾根沿いに登るのだが、まず出てくるのが階段道である。急な登りをこなしてきた身には階段は辛い。だが長くは続かず、細い踏み跡を登りだす。木の杭が立っていて、『仮登山道』とマジックで書きこまれている。仮とは何ぞや。見上げてみればガードレールが目に入る。出た先は舗装林道だった。しかも二車線はありそうな立派なものだ。いつ造成したのか不明だが、これのおかげでできた仮登山道がそのまま本登山道になったらしい。
林道を渡ってとりつく先も傾斜が急でなかなか楽をさせてくれない。右手には雑木林が広がり、いままでの植林一辺倒の眺めから解放され多少は気が晴れる。振り返れば林道の上の空間を越えて駿河平野西部が彼方下方に広がる。まるで慣れていない山域なので周囲の山の名はほとんどわからないが、魅力的なのがそこここにあって愉しい。いつか腰を据えて登って回りたいものだ。
右に小無間山、左に風イラズを従える大無間山
右に小無間山、左に風イラズを従える大無間山
眺望は快適なのだが、左手足下には興ざめなことに山腹を切り裂いて付けられた未舗装林道が繰り返し接近してくる。削り出された土壌が安定していないのか、そこここに補強の跡が残り、山道自体も杭とトラロープで寄り道できないようにされて、まるで工事現場の雰囲気である。三度目だったかに近づいてきた林道を眼下に見ながら山腹を横切り、急傾斜を登り出すとようやく荒れた景色は視界から消えた。
いくらか明るかった山道が植林に暗く覆われると、送電線鉄塔の立つ小平地に出る。通常なら鉄塔の立つところは眺めがよいものだが、植林が育って見晴らしはよくない。反射板を山頂に見せる山(つまり文珠岳そのもの)が木々の一角に姿を見せるだけだ。ここにもベンチがあるので一息つくにはよい。この先はややなだらかな山道となって安心するのもつかの間、再び急な登りが待っている。若山というピークへの最後の登りで、あいかわらずの植林の中、風通しがよく北風が唸りを上げるのを聞きながら高度を稼ぐ。登り着いた先は残念ながら山頂標識周囲までもが杉木立で、歩みを止める気にならない場所だった。


若山からはいったん、100mほど下る。行く手に富士が顔を出し、ときに右手遙か彼方に駿河湾を眺め下ろし、美保の松原を俯瞰する。若山と文珠岳のあいだにはゆったりとした大きなコブがあり、1/25000図では稜線を辿るようにされているが、実際には西側山腹を巻いていく。多少は楽できたかなと思うが、それからの文珠岳への登り返しはなかなか大変だった。さすがにここまで来れば反射板の見える山頂が文珠岳とわかり、すぐそこに見えるのだが、高度差300mもあるので簡単には着かない。東海自然歩道の案内標識にはあと××分と表示があり、いやに多めに書かれているなと見たときは思うのだが、実際にはその通りの時間がかかるのだった。
若山の下りから望む富士山
若山の下りから望む富士山
文珠岳の標高は1,040.8m、竜爪山最高点は薬師岳の1、051m。登り出しのバス停の標高が約100mだが、若山からいったん下るので最終的に獲得標高差は1,000m超となる。低山に見えて、牛妻坂下からはなかなか労苦の多い登高なのだった。だからかとにかく誰もいない。追い越していく人がいないのは自分の出発が遅いからかもしれないし、まだ下りてきていないのは昼前だからまだ休憩しているからかもしれないが、それにしても人一人の姿さえ見ないというのは予想外に静かなルートだ。きっと反対側の穂積神社から往復登山する人がほとんどなのだろう。
木々の合間から辺りを窺うと、高度が上がっているのでさらに遠望が効くようになっていた。行く手の左には安倍川の広い谷間を越えて彼方の大無限山あたりの山稜が望める。さすがにあちらは大きく、白い筋を稜線からいくつも落としている。行く手の右には再び駿河平野が瞥見され、その手前には現在辿っている安倍川左岸の主稜から派生したと思える稜線が伸び、駿河平野に消える前に顕著なコブを立ち上げている。文珠岳の東に高まる高山という山のようだ。
若山との鞍部近くから仰ぐ文珠岳
若山との鞍部近くから仰ぐ文珠岳
振り返れば若山がすっきりとした三角錐で逆光に黒く立っている。この日は稜線で風が強く、頭上の杉の木々が揺れてはごとごとと乾いた音を響かせる。彼方の山はびくともしない。彼我の差が余計に木々の揺れを大きく感じさせる。その風が弱まり、登山道の左右が冬枯れ色の灌木一色になると、山頂はすぐだった。


いままで人の姿を見ていなかったので、草付きの斜面に20人はいたのには驚いた。みな穂積神社から上がってきたのだろう。明るく開けた山頂から振り返れば、駿河湾と静岡市街地が遙か下だ。三保の松原を乗せる半島も海に伸び、その根本には日本平の丘陵地帯が黒っぽい森を広げている。しかしなにより空間が広い。この山が駿河平野から急激に立ち上がっていることがよくわかる。
あちこちにベンチがあり、日陰のものや眺望がいまひとつのものは不人気だったが、最高点近くのものは眺望はなくとも日も当たっていて喧噪から離れもしていた。これは好都合と荷を下ろして湯を沸かし、コーヒーを淹れた。すぐそばに登路途中で何度か仰いだ反射板がある。その先は行き止まり、と看板があり、実際にそうらしいが、少し離れたところにには文珠岳から直接に西の山麓に下るルートが始まっているらしく、軽装の山慣れた二人連れが気負うことのない足取りで入っていった。
休憩後、広い山頂部を見て回る。海の眺めは悪くない文珠岳だが、それ以外の眺望は芳しくなかった。富士山が切り開きから眺められるのはよいとして、南アルプスは梢越しで、かつこの日は高峰の稜線はガスが漂い、どれがどれだかわからない状態だった。
文珠岳山頂から俯瞰する駿河湾、静岡市街地、三保の松原。彼方に伊豆半島が浮かぶ。
文珠岳山頂から俯瞰する駿河湾、静岡市街地、三保の松原。彼方に伊豆半島が浮かぶ。
双耳峰である竜爪山の最高点は隣の薬師岳なので往復してみた。多少下って登り返すと植林の中の暗い山頂で、ベンチも一基しかなく、文珠岳と異なり不人気なのは明瞭だった。とはいえ最高点は最高点、山頂標識の前は小広く踏み固められ、登ってきた人が一息ついて休む場所らしい雰囲気が漂っている。立木から温度計が下げられており、見てみると氷点下3度だった。
下りは往路途中から分岐するルートのどれかを下ってもよいかもと思い始めていたが、慣れない山でもあるし、稜線を吹き超す風も強まっていて落ち着かないので、やはり予定通り往路を忠実に戻ることにした。あいかわらず誰も通らない静かな山道かと思っていると、背後から一人、足早に近づいて追い越して行く人があった。若山を下ってしばらくした2時半ごろには、登ってくる単独行者にも出会った。下る人はともかく、登る人はどこを下るつもりなのだろう。日の短い1月、日没までに下れるのだろうか。


牛妻坂下のバス停に戻ったのは3時過ぎだった。次の便まで1時間以上ある。あらためて見渡してみても、朝同様に自動販売機さえ見あたらなかったので、暇つぶしを兼ねて目の前の曙橋を延々と歩いて渡り、対岸の湯山温泉へと続く細い車道に入ってみた。ようやく自販機をみつけ温かい飲料を口にして、橋を渡り返さず河畔近くの湯山のバス停まで歩き、川向こうに若山と文珠岳を仰ぎながらバスを待った。
休日夕方の上りバスは空いていた。静岡市街中心部に出たときは空に赤みが広がりだしていた。
安倍川右岸の湯山温泉バス停近くから仰ぐ若山(右)から文珠岳(左)への稜線
安倍川右岸の湯山温泉バス停近くから仰ぐ若山(右)から文珠岳(左)への稜線
2015/01/11

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