御前山(奥多摩)御前山遠望

 御前山という名の山は多いが、ここでいうのは奥多摩にある山である。姿が端正な山で、ただ眺めるだけでも嬉しい。このあたりの山を歩き回っていたころ、単に車で奥多摩を周遊しに行ったこともあったが、『奥多摩周遊道路』の駐車場から間近に御前山を見て、その量感に安心感を覚えつつ家路を辿ったものだった。
 そういう御前山だが山歩きそのものはまだ一回しか行ったことがない。再訪を考えているうちにあれこれと人が集まるような事柄が続いて、やや足が遠のくようなことになっている。たとえばカタクリの花が多いことから「花の百名山」とかに選定されて有名になり、最近では観光客のような人たちが多いとも聞く。春先は行かない方がよいように思える。観光施設もできているようなので、コースを選んで出かけないと人混みにまみれることにもなりそうだ。


 奥多摩で初めて登ったのは棒ノ折山、それから大岳山だった。これらは登り二時間で、御前山はコースタイムだと山頂まで三時間かかる。じつはこのころ山歩きを始めたばかりだったので、「登り三時間」には自信がなく当初は敬遠していた。それでも周囲の山から望む気品のある姿に抗しきれず、棒ノ折山に登ってから一月半後の二月に奥多摩駅からバスに乗って北面の境橋バス停に降り立ち、ここから雪に覆われた山道を辿ることにしたのだった。(いまはこの道は山頂直下の『体験の森』まで続く林道となっているようで、春から秋まではおおぜいの観光客が歩くことだろう。ひょっとしたらバスまで走っているかもしれない。)
 日のあたらない暗い感じの登路は初心者には長かった。当時はまだペース配分がよくわかっていなかったし荷物も重く感じられたので、途中で疲れて道の真ん中に座り込み、拾って杖代わりにしていた木の枝で足元の雪をかき回してひとりでふてくされもした。前後に誰もいなかったからしていたことで、しばらくして立ち上がってまた登りだした。こんな調子で登り着いた山頂だが、どういうものだったかじつはあまり記憶にない。覚えているのは灌木が多く腰を下ろすと眺望が遮られ、風が冷たかったこと、奥多摩湖側に少し下った斜面で湯を沸かし昼食を摂ったことくらいだ。登っている最中の記憶も曖昧なので、まさに「登っただけ」だった。
 だが帰路はちがった。南面に延びる長くゆったりとした湯久保尾根を下ったが、こちら側は風もなく穏やかで、人も来ない。右手には三頭山や笹尾根、その彼方に見える山並みが西日の逆光に沈んで明るい幽玄さを醸し出している。徐々にそれまでの重苦しい気分が晴れていった。
 尾根の途中にはこういった眺めが広く得られる場所があった。快晴の空の下、再びザックからバーナーを取りだしお茶休憩としつつ静かな空間の広がりに浸った。それから毎年、冬が来るたびにもう一度湯久保尾根を下ってみたいと思うのだったが、すでに十六年以上経つのにまだ果たしていない。再訪して「こんなはずではなかった」と落胆するのを恐れているのかもしれない。
1986/2/16

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