子ノ権現奥の院から大高山(左)と天覚山(中央奥)を望む。これらの山の手前、左から延びる稜線が正面に向き直るところの高みは六ツ石ノ頭。その右奥は堂平山 前坂から子ノ権現
奥武蔵に再び目を向け、天覧山から子ノ権現までの稜線を歩くべく、二回に分けて多峯主山、天覚山、大高山から前坂へと稜線を追ってみた。前坂から子の権現までは一般ガイドには案内されることがなく、あまり惹きつけるものがないのかと思えたが、実際のところは行ってみないとわからない。ではと、2月の上旬、降雪のあった翌日に歩いてみた。歩行時間のわりには長く感じるコースだったが、静かなうえに興味の惹かれる場所も(この季節だからか)展望地もあり、悪くはない山だった。


青空の高い吾野駅の周囲には昨夜の積雪がそこここに残っていた。まだ閉まっている駅前売店を横目に秩父方面へ向かい、背をかがめて通るトンネルで線路下を抜ける。右手に墓苑を見渡しつつ上がっていく車道は一部凍っていて滑りやすく、山道に入ってようやく安心する。登るにつれて林の中は足下が白さを増し、好天だというのにときおり粉雪が舞う。もう10時過ぎ、北面とはいえ日差しは木々の頭に届き、葉の上に積もった融けかけの雪片を滑り落としているのだった。
前坂への径
前坂への径
先日、天覚山から大高山へと縦走した折りに下山点とした前坂という名の峠に着く。子ノ権現方面に続く稜線を登って行くと、まっすぐ高度を稼ぐと思っていた道のりは右へと曲がる。そこには先日に見上げた黄色い標識が立ち、読んでみると、右に行けという主旨だった。気になっていたものが素っ気ない内容で、やや拍子抜けである。
初めこそなだらかな道のりで快適だが、稜線の途中で枝を渡した進入禁止サインに出くわし、無理矢理付けたように思える巻道を下っていく羽目になる。稜線の先は地図では採石場になっていて崖マークが付いており、進めるものではないらしい。おかげで辿ることになった山腹道は崩れやすそうで気が抜けない。左手に谷間が開け民家が見えてきて、この先歩くことになる栃尾谷林道は近い、これで足下の不安定さから逃れられると喜んでいると、雪がびっしりと着いた常緑樹の枝やら竹藪やらが径を塞ぎ、これと格闘して全身が雪まみれになってしまった。
陽気がよいので降りかかった雪が端から融けていく。頭から水びだしになって降り立った林道は日がよく回り、融雪水が覆う表面ではあちこちで湯気が揺らめいていた。坂道を上がっていくと右手が開け、関八州見晴台を中心とした彼方の稜線が左右に長い。見晴台より関東平野側の低めな稜線が白く、丸山方面に続く高い稜線の方が雪がない。南から雪雲がやってきて、少し積もらせただけで満足して消えたのかもしれない。
栃尾谷林道に出て、関八州見晴台方面を見やる
栃尾谷林道に出て、関八州見晴台方面展望
林道は積雪が10センチほどあって、先行する5人ほどの足跡が判別できた。その足跡が林道から離れて右手の木々の中に吸い込まれていく。追ってみると、小さな祠の上を通る細い稜線に乗る。昼近くなって気温が上がり、あちこちで雪が落ちる音が響く。風はさほどないが、ときおり軽く吹き付けてくる。それがさらに葉の上の雪を落とす。写真を撮っていたらたまたま頭上の雪が吹き払われ、期せずして降雪模様の写真が撮れた。


正面に伊豆ヶ岳が見えた。奥に見えるのは武川岳、左手に離れて大持山も姿を現している。空は高く、日は回って暖かい。冬枯れの梢越しとはいえ、懐かしい山々が望見できるのは嬉しい。
穏やかな道のりの途中、山道のすぐ下に墓石がいくつも並んでいるのが目に入る。いったんは通り過ぎたが、こんな高みにと不思議に思って戻り、正面に出てみる。表面に多数刻まれていたのは薩摩十字。島津家にゆかりのある家系なのかもしれない。明治から昭和初期の年が刻まれ、「童」の字が彫られたものもある。成人のかたも享年は若めだ。昨今の「長生きリスク」などという言葉を知ったら、昔の人たちはなにを、どう思うことだろう。
伊豆ヶ岳(右端)を望む
伊豆ヶ岳(右端)を望む
墓所を過ぎた先あたりからアップダウンが激しくなった記憶がある。登りはよいのだが着雪した下りは気を遣う。岩場の坂を手も使って登っていると、トレランの人たちが追いついてきた。この雪の地面を、それも下りを走る。なかには短パンでタイツなしという剛の人もいる。寒くないのかというのはともかく、滑って転んだらかなり悲惨だ。根拠はわからないが絶対に転ばない自信があるに違いない。
10時過ぎに吾野駅を出て午も過ぎ、そろそろ腰を下ろすかと思いつつ、雪の径が続いていた。右手に関八州見晴台を眺め、行き先に子ノ権現の奥の院のピークを見やってしばらくで、”六ツ石ノ頭”という標識の下がるコブに着く。ここでようやく乾いた地面に立てたので敷物を敷いて湯を湧かす。座って南西方面を眺めると、川苔山らしきが大きく霞んでいた。
小さなピークながら立派な名の由来は、枕よりは少々大きめの岩が出ているからだろう。似たようなのですぐ思い出すのは奥多摩の石尾根にあるものだが、ここのは小振りで、しかも顕著なのは5個まで、6個目相当は同じような大きさが二つ三つあるのでどれがどれとも言い難い。五つ石の頭では言い辛かったのだろう。コーヒーを飲んでいると、行く手から鐘の音が聞こえてきた。割と近い。子ノ権現のものだろう。山の上で聞く鐘はよい。車のエンジン音は興ざめだが、鐘が知らせる里の近さは山をも身近に感じさせてくれる。
前坂から子ノ権現までの道のりを考えると、六ツ石ノ頭で半分強というところなのだが、何を難儀したのか一時間半ほどのコースタイムに2時間強かかっていた。久しぶりの雪道に足を取られることが多かったからかもしれない。”スルギ”と呼ばれる場所で「博打岩」という岩塊を眺め、なんの由来で名付けられたのかしばらく考えに耽っていたのも、そのだいぶ先、もうそろそろ子ノ権現手前の車道に出るというところで地図に「大根畑」とあるなだらかな雪面を眺めて今でも春になれば誰かが来て苗を植えるのだろうかと想像していたのも、要するに休憩していたのだった。
博打岩
博打岩
子ノ権現直下の車道に出たときは前坂を出発してから3時間以上過ぎていた。ここは眺めのよいところで、本日すっかり馴染みの関八州見晴台の稜線、加えて本日辿ってきた稜線が、その先、大高山、天覚山へと続き、彼方の関東平野まで一望できる。三回に分けて飯能駅から歩いてきたが、低く地味な稜線歩きとはいえ、こうして振り返ってみるとなかなか長い。とくに今日は長かった。


車道を上がった先の、一軒しか開いていない土産物屋の奥で、子ノ権現は雪化粧していた。降雪後のため境内には数えるほどしか人がいない。本堂軒先からさかんに落ちる雪解け水がたてる音ばかりが賑やかだ。おかげでゆっくり拝観でき、前回の初訪時に気づかなかった奥の院に登って周囲の山を眺めもした。大持山が本坊の上に高い。反対側は再び関東平野の眺めで、スカイツリーが見えると案内がある。目を凝らすと真正面に細い塔が見えた。
奥の院前には鐘楼もあり、鐘を撞いてもよいようだったので生涯初めて撞いてみた。脳震盪が起こるのではないかというような大音が響いた。年末に百八回も撞くときは耳栓が必要なのではと思えるほどだった。
奥の院から本坊の上に大持山を望む
奥の院から本坊の上に大持山を望む
帰り際に寺務所に立ち寄ってみると、ハイキングお守りというザック型のお守りがあった。前回に訪れた時は家族分の足腰守りを土産にしたが、今回はこのハイキングお守りを自分用の土産とした。子ノ権現は檀家がなく、寄付金主体で経営が成り立っているらしいので、賽銭を含め、お土産入手ででも維持に役立てばと思うのである。なにせ足腰守護のお寺なので、ハイカーも進んで盛り立てなければ。


子ノ権現からは車道を下り、関東ふれあいの道を経て吾野駅に向かう道筋を辿った。途中の山道を経て再び車道に出た先には浅見茶屋という名の古民家茶屋がある。佇まいに引かれてなかに入り、味噌田楽と米麹甘酒をいただいた。どちらもとても美味しい。田楽は味噌まですすって飲んだ。味噌汁茶碗で出された甘酒は柔らかな味もさることながら飲み応えある量に大満足だった。
2016/01/17

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