なにも見えない展望舞台
山の日、曲岳に登った。
甲府で迎えた朝、昨夜までは御坂の黒岳に登ろうと思っていたが、宿から出て甲府盆地を覆う空を見渡してみると御坂側がひときわ雲が黒かった。振り返れば八ヶ岳方面がやや明るい。午後の降水確率は高いので、短時間で往復でき、登山口に車が駐められそうなのは・・・いくつかあるなかから、曲岳にしたのだった。


市街地を後にして山に向かう。右手に羅漢寺山を見る辺りから路面が湿りだし、清川の集落を越す頃には雲がかなり低くなっていた。すぐそこに聳えているはずの太刀岡山は山頂はもとより山腹さえ見えない。これならどこに向かっても同じだったかもしれない。前後にあった車はとうに昇仙峡に逸れて姿を消し、左右から迫っていた山はいまやその傾斜を上がっていくものとなり、道幅は車の幅しかない時間が長くなっている。
茅ヶ岳への林道が分岐するところで看板が目に入る。観音峠の先は路肩崩壊の危険性ありとして通行止めという。道ばたの空き地に駐めて外に出てみると、日差しを遮る陰鬱な霧が漂うものの、夏草の香りが鼻腔を打ち、さて歩こうかという気になってくる。葉末から落ちる滴が森の中に響くなか、雨具を着込んで車道を歩き出す。
曲岳への登り口はすぐだった。付近には車が2台あるきりで、やはり天気が天気だからか人の訪れも少ないらしい。さっそく入り込む山道はよく踏まれ、草が被っていることもなく、不人気というわけではなさそうだった。しかし傾斜がある。しかもこの天候なので湿って滑りやすい。道ばたにピンクに煙るシモツケソウや白いカラマツソウに、初めこそ「おや久しぶり」で立ち止まっていたのが、そのうち息を整える言い訳を頼むようになった。
ところによっては木の根を階段代わりに、木の幹を手摺り代わりにして登って行く。そのうち岩まで出てくる。細い岩稜らしきは”めまい岩”という展望点に続くものだったが、本来なら正面に見えるはずの金ヶ岳、茅ヶ岳はすぐそこに広がる白い幕の奥で、深い谷間を覗き下ろすこともなくめまいのしようもない。濡れた岩で足を滑らせたら事なので基部で休憩する。気温は低いものの雨具のなかは蒸し暑さで全身汗まみれ、着ている意味があるのかと思えるほどだった。
ところどころにロープも下がっている。バランスを取るだけではなく、腕力登りまで強いられる。本日はザックの中にバーナーなどなくほとんど空身に近いのに文字通りの全身運動で汗が止まらない。身体をすり抜けるのがやっとという岩のあいだの先だったか、ロープはあるものの下りの足がかりが不十分な岩場もあって、緊張感も抜けない。体力筋力双方弱っている身にはなかなか怖い登高で、山頂までのコースタイムが1時間しかないことを理由に選んだものの、やはり御坂の黒岳にしとけばよかったと思うこと一度ならずだった。
だが目にする草木の佇まいはやはり山ならではだった。差しのばす枝の先に花を添えているものがある。葉の端に大きな水滴を下げているものがある。ブナの幼木なのか、樹肌が灰白色の文様になっているものがある。先月、先々月と湿原の遊歩道を歩いただけなので、久しぶりに眺め掴む樹木のありようが嬉しい。なにより足下が不安定なところでは安心感をくれる。登らせてもらっている感が湧いてくる。
傾斜が緩むことは何度かあったが、平坦な部分が長くなった。短い頂稜の一角で、先には木々を背景に山頂標識が見える。8年ぶりの再訪となった曲岳山頂はひそやかな趣きで、正直言って記憶になかった。初訪時はせいぜい足を止めただけだったからかもしれない。今回はここが目的なのでゆっくりできる。腰を下ろすにちょうどよい低い岩の一つを借り、持参の扇子で顔やら胸やら扇ぎながら、冷たい日本茶を口にする。短いとはいえ登りは登り、達成感やら安心感やら満足感やら、加えてやや多めの疲労感に身を任せ、しばらく惚けていた。
山頂
山頂
帰路は元来たのを戻ろうと予定していたが、あの滑りやすい傾斜にあの岩場を下るのは気が進まない。八丁峠まで比較的緩やかなルートを進み、いつからかできあがったショートカットで林道に出て、観音峠まで車道歩きで戻ることにした。さっそく歩き出してみると、”展望舞台”と標識のある切り拓きが目に入る。本来であれば太刀岡山を形佳く見下ろせる場所なのだが、眺めるのは代わり映えしない白いわだかまりのみだった。立ち止まることなく先へ行く。
初めこそ傾斜がきつかったが、すぐに穏やかなものとなり、ときおりコブを越えるものの大したものではなく、登りに比べれば広くなった稜線のそここに立つ木々を眺めて霧の中を歩いて行く。人間に対して穏やかになったからではないだろうが、鳥の声まで聞こえてきた(単に、登っている最中は耳にする余裕がなかったからかもしれないが)。
暗い森のなかになったところで標識にでくわす。十字路となっている八丁峠だった。正面やや登った先に枡形山と黒富士との分岐があるはずだが、行ってみてもおそらくどちらも山頂は見えないだろう。とくに未練なく、左手、林道へと続く踏み跡に入る。
かつてはガイドマップに案内のなかったルートだが、踏み跡は明瞭で、危ない場所もなかった。浅く広がった尾根と尾根の底を行くようなもので、途中から水音が聞こえ出す。とうとう降雨かと訝しんだのは早計で、沢が流れているのだった。このあたりで水流を目にするとは予想していなかったので驚いた。あたりを見渡せば稜線では見かけなかった大木がそこここに立っている。見上げる高さで、折から差し込み始めた日の光に幹を光らせているのもある。荘厳といってもよい眺めだった。
「山梨百名山 黒富士登山口」なる標識が立つところで車道に出た。エンジン音の気配はない。観音峠に向かう路面にはところどころ草が生え、頭上から枝がひとかたまり垂れていたり、小規模な土砂崩れが起きていたりしている。こんなところを走るのは願い下げだなと思いつつ山腹沿いに歩くと、30分ほどで閉鎖されたゲートにでくわした。なるほど車が来なかったわけである。
朝の予報に反して車道歩きのあいまに青空が広がってきていた。これはと思って見上げる稜線は、しかしあいかわらずガスの中だった。登山口にはゲートからほんの僅かで着いた。峠に2台あった車は1台だけになっている。自分の車に戻り、雨具を脱ぐと、着ていた長袖Tシャツは雑巾のようになっていた。


乾いたのに着替え、温泉を目指すことにした。途中で傍らを過ぎた茅ヶ岳の登山口は同じ天候状態なのに大賑わいで、ひっそりした観音峠とは大違いだった。韮崎市街を抜けて白山温泉に着き、ようやく汗を流した。露天風呂から眺める茅ヶ岳や曲岳火山群は山頂部がすべて雲の中で、唯一太刀岡山だけが丸く小さな全身を見せていた。
韮崎の武田八幡神社から太刀岡山を遠望する
韮崎の武田八幡神社から太刀岡山を遠望。
雲がなければ奥に曲岳が見える。
2017/08/11

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