小楢山付近から初冬の櫛形山。背後には雲に隠れる右から悪沢岳と明石岳、ひとり頭を出す聖岳。右手の中景は白根南嶺。 櫛形山
甲府盆地に入った中央本線車窓から南西を眺めると、ひときわ目立つ膨大な図体の山がある。その山、櫛形山は標高こそ2,000メートル程度だが、盆地側に一歩出ていきなり立ち上がりつつその高さを南北に連ねる。おかげで背後の白根南嶺は麓からすっかり隠され存在感をなくしている。山稜部には三つも三角点があり、最北の唐松岳三角点から最南の奥仙重三角点までの直線距離は3キロ、これは隣の北岳−間ノ岳各山頂間の直線距離とほぼ同等である(後者の方が300メートルほど長い)。その量感はもはや山塊と言ってよいと思える。
しかし余りに大きすぎてどう登ったらよいか迷うところでもあった。登山道も多方面から拓かれており、東側山腹を通る車道から2時間強で頂稜に乗れるが、バスがないので車で訪れれば起点に戻らざるを得ず、広い山上部を歩き回ればそれなりの山行時間を要する。大きな山の常で、最高点を踏むだけではない経験をしたければ、何度か足を運ばなければならない。
とすれば初回は入門編でもよいだろう。櫛形山の登山口で最も標高の高いのは池の茶屋林道終点からのもので、最高点までは1時間ほどで達する。最近では、ピークを踏まずに稜線の西側を辿ってアヤメ平に出るコースまで整備された。こちらを往路に取り、アヤメ平からは三角点峰の裸山や奥仙重などを踏みつつ戻ってくれば、5時間弱のほどよい山歩きになる。新設コース途中の北岳展望デッキなる場所からは白根三山の眺めがよいという。櫛形山へはまずこの計画で歩いてみよう。


韮崎で車を借りて長々と走った先に到着する林道終点には随分と大きめの小屋が立っている。入ってみると土間の中央にテーブル状のベンチがあり、バスの来ない駐車場脇に建てるにしては随分と広い。アヤメの季節は梅雨時なので、これから山に入ろうとするときに重宝するのかもしれない。小屋の脇から山頂稜線部に続く登山道が始まっているが、北岳展望デッキへのルートは駐車場から戻り気味に始まっていく。バリアフリーを意識して造られたかのような路面は平らで傾斜もほとんどなく、まどろっこしいと思えるほどの大回りで斜面を絡み高度を上げていく。
池の茶屋林道終点駐車場から北岳展望デッキに向かう、マルバダケブキがお見送り。
池の茶屋林道終点駐車場から北岳展望デッキに向かう、マルバダケブキがお見送り。
鮮烈な黄色い花のマルバダケブキを眺めつつ行くうち展望デッキに着く。白根三山を望んで休めるように整備されベンチも多く設置された休憩所で雰囲気はよいが、肝心の北岳が本日は頭が雲の中なのだった。それでも大きく張り出す山腹は眺められた。しかしそれ以上に嬉しいのは隣の鳳凰三山の稜線が眺められたことで、空の大部分が雲に覆われているにもかかわらず2,500メートル級の頂が望めるのは望外このうえない。
北岳展望デッキから雲の中の北岳(左)、鳳凰三山(中央)、千頭星山(右)
北岳展望デッキから雲の中の北岳(左)、鳳凰三山(中央)、千頭星山(右)
展望デッキを後にして林床の明るい山腹を進む。あいかわらず道のりは平坦でよく踏まれている。コースは途中からもみじ沢という場所に向かって下り出すが、これが獲得標高をあっというまに帳消しにしてしまう下り方で、階段道を多用して200メートル近く下がってしまう。まだ歩き出しの気分なのに展望のない森の中をただ下っていくのは何しに来たんだろうと思わせる。どうなんでしょうコース設定者のかた、とか勝手なことを思いつつさらに下っていく。
どこまで下るのかなと思っていると、突然、右手頭上で鹿の鳴き声が響く。振り返り仰げば白い尻が樹間を跳ね上がっていく。間を置いて、もう二度、三度と鳴き声が繰り返される。鹿との遭遇はそれきりで終わったが、なおも耳を澄ませていると、沢という名の地点を目指しているのに水音はないことに気づく。風が通らないせいか葉のそよぎも鳥の声も虫の羽音もしない。森の中で聞こえるのは、歩く先に立つ木の高みあたりから響く小さな鐘の鳴るような音だけだった。なぜかいくら歩いても前方の高みから聞こえてくる。あれはなんなのだろう。頭上の空から轟音が響いてくる。大気の音?いや飛行機だ。南アルプスを越えるのなら、行き先は北陸方面とかだろうか。
森閑としたもみじ沢
森閑としたもみじ沢
ようやく斜度が緩んで行き先が広がってくると、円形に並べられたベンチが見えてくる。誰もおらず、あいかわらず何の音もしない。森閑とした谷間で眺めると、ただの木製のベンチがまるで古代の祭祀跡のように見えてくる。ストーンヘンジならぬウッドヘンジだ。ただのベンチだけれども。そのベンチに座って休憩する。無音の世界で木々が自由に枝を伸ばし、身動きしない。落ち着くような、落ち着かないような。沢の水が流れてればなぁ、と思う。


もみじ沢休憩地点からの登り返しは急な勾配や階段道があまりなく、逆コースを行くよりは楽かもしれない。小さな支稜を乗り越えるところまで上がってみると目の前を煙霧が這い上がっていた。標高の割りに山体が大きく、複雑に谷が入り組んでいるのでどこで上がってくるガスに遭遇するかわからない。頻繁にガスが流れるからなのか、あちこちのカラマツの枝にサルオガセが下がっている。全身に根無し草を絡ませた木などは、さしずめトーガをまとう古代ローマ人のいでたちだ。じつに風格がある。
煙霧流れるカラマツ林
煙霧流れるカラマツ林
流れる霞をくぐり抜けると今度は日が差してくる。すると生きているものの音が聞こえてくる。虫が一匹羽音をたてて飛んでいく。かなたからミンミンゼミの声が聞こえてくる。鳥もどこかで鳴いたようだ。この適度な賑やかさは、日の光のせいだろうか、単に谷間を抜けたからだろうか。再び、頭上彼方から飛行機の音が響いてくる。これは天気にも地形にも関係がない。ひとりで聞くと、隔絶感だけが強調される。
周囲が広くなってきたな、と思うと、前方に獣除けの網柵が見えてきた。柵のこちらとあちらとで、草の生え方が全く違う。本来こうあるはず、という草原の繁茂に比べ、こちら側は老木大木を除けば事実上禿げ山状態だ。鹿がどれだけ食べ尽くしてしまうか、生態系の頂点がいないとどうなるかがよくわかる。禿げ山になっても誰も困らないのであれば、きっと禿げ山はもっと広がるだろう。木々がすべて倒れて土砂流出が頻繁にならなければ、きっと誰も手を打たないだろう。打つにしても、醜悪な眺めになる策が打たれる可能性もある・・・
柵の向こう側とこちら側
柵の向こう側とこちら側
憂鬱な気分は柵内に入って一時的に収まる。そこは文字通りお花畑だった。そうかここがアヤメ平なのだな。櫛形山がアヤメで名のあるのは知っていたが、9月に入ったばかりの時期には花などそれほどないだろうと思っていた。まったくちがう。マルバダケブキの黄色い花を筆頭に、アザミの仲間の赤紫、散り残りのシモツケソウの赤やピンク、クルマユリの濃いオレンジなど、見渡す限りの色彩の饗宴が広がっている。
アザミ平にて
アザミ平にて
アザミ平にて  
アザミ平にて
ゆっくりと差し渡された木道の上を歩く。徐々に傾き下がる歩道の両側に花々が咲き乱れては一人ゆくハイカーを見送る。数歩歩いてはカメラを構えるを繰り返し、なかなか歩みが捗らない。平日で、しかも到着が遅いからか他の人は誰もいなくて、落ち着いて写真を撮りつづけることができた。少し下ったアヤメ平避難小屋の前には板を差し渡した広めの休憩所があって、日の差すお花畑を眺めやりつつ湯を沸かし、コーヒーを淹れた。


長々と休憩して、眺望がよいという裸山へと出発する。アヤメ平に入ったときと同様に網柵を越えると、ふたたび林床が開けた。見た目は公園のようで見通しがよいが、実際には成長するものの数が貧しい事実に気が滅入る。左右にかすかな稜線が通るところに出ると、ふたたび網が張ってあって先はお花畑だった。ここがアヤメの大群落となるところらしい。かつては柵の範囲を超えて広がっていたとのことだが、いまでは柵でようやく守られているという。網柵はところどころ目の高さにハードカバーの本くらいの大きさで穴が開けられており、そこから夾雑物なしで花々を眺めることができる。きっとみなここから写真を撮るのだろう。自分もそうした。
裸山のアザミ群落
裸山のアザミ群落
稜線を右に少し上がると裸山のピークだった。北岳展望デッキでのように北岳から鳳凰三山がうかがえるのだが、すでに雲が下がってきてしまっていて鳳凰三山も北岳同様に山腹だけが見えるだけになっている。山頂の反対側に目をやれば富士山が見えるはずなのだが、本日は雲の中だった。足下のお花畑の谷を隔ててすぐそこに櫛形山の最高点ピークや奥仙重が連なる稜線が見渡せる。ゆるやかに上下する柔らかな曲線はあくまでも穏やかで、高所にあるというのにのどかな気分にさせてくれる。
網柵に戻り、裸山で眺めたとおりに緩く上下する踏み跡をたどっていく。標識が立っており、櫛形山原生林とあった。見渡せば、何の木か、とにかく根元の幹が太いものが多い。それらはみななぜか人の胸くらいの高さで複数の幹に分かれ、おのおのがまた立派な胴回りのまま天高く伸び上がっている。なかには二つに分かれた幹の片方は葉を茂らせているが、他方は立ち枯れしたかのようになっているのもある。そのどれもがまさに精霊でも宿しているような雰囲気をたたえていて、なかには海の底で眠りについているはずの古きものを思わせるような表情のものもあり、思わず立ち止まってしまう。昼日中でも神秘的に愉しい森なのだった。
櫛形山原生林の一コマ
眠りを乱すのは誰だとばかり怒りにのたうつ古きもの・・・のようにも、見えなくもない。 
山頂標識が立つゆるやかなピークを越え、これから下りかと思っていたらまた登り返す。あれ?と思いながら着くのは三角点のある奥仙重だった。山頂標識があった場所ではいくつもの標識があったが、ここはひっそりしている。木々に囲まれてどちらも眺めがなく、たとえ木々の合間から遠望が効くとしても本日の曇りがちな天候ではなにも見えない。とはいえ防火帯のように広い稜線通しは快適で、ときおりは遠くの山も見える。稜線を外して下り出すところでは、背を向ける先に優美な裾野をひく大きな山が頭を雲に隠していた。
下る途中でベンチがしつらえてあるところがあり、少し脇に出てみると、そこは白根三山の展望台だった。残念ながら雲はさらに低く、もはや北岳と間ノ岳の山腹の区別もつかないが、だからなのか、山々はいつも以上に泰然としているように思える。一瞥だけではもったいない、すぐに立ち去るには惜しい。一度は去りかけたのを引き返し、腰を落ち着けて本日二度目の湯を沸かすことに決めた。日は傾いているもののまだ高い。広い谷間のかなたに日本第二、第三の高さの山が雲をまとって静かに佇むのを眺めつつ、コーヒーを飲む。こんな贅沢を逃す手はないだろう。
雲の中に白根三山
雲の中に白根三山、ベンチの前からマルバダケブキの群落 
車を駐めた池の茶屋駐車場に続く樹林帯のなかを下りながら、稜線を外す前に眺めた長い裾野の山は何かと思ううちに、富士山だと思いいたった。本日は標高で国内上位三傑(富士山、北岳、間ノ岳)を眺めたが、どちらも裾野ないし山腹だけだった。しかし見上げる空は青く、平日のせいで人影は少ない一方で、柵の中でとはいえ予想外に色とりどりの花々を観ることができた。この日の櫛形山は歩いて愉しい山だった。次回は今回踏まなかった唐松岳を訪ねるか、もう少し下から登って櫛形山の高さを実感するかしてみようと思う。
2019/09/02

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