冠着山一本松峠への分岐から冠着山

連れと長野の戸隠を訪れる際は車を使う。中央道から長野自動車道に入り、長野で下りる。帰りは逆を行くのだが、高速道に乗って南下を始め、更埴ジャンクションで上信越自動車道と分かれると、前方に山が迫ってくる。そのjなかにドーム状の山頂部を持ったものがあり、まわりより少し高いせいもあって目を惹く。ちょうど姨捨SAを過ぎるところで、なるほどこれが冠着山(かむりきやま)、別名「姨捨山(うばすてやま)」かと気づく。その名が思わせるのか、それほど高度はないのにこちらにのしかかるように急峻にそびえ立っているせいか、海坊主のようにのっぺりとした相貌が感じさせるのか(ここは山なので山坊主というのが正しいかも)、近づけば近づくほど不気味さが増していく。緊張が高まったところで自動車道はトンネルに入ってしまい、冠着山の眺めとはお別れとなる。


これですっかり気になるようになってしまい、晩秋の日に訪れてみた。登路はいくつかあるようだが、電車と徒歩なら篠ノ井線冠着駅から長い車道歩きをするのがいちばん迷わないらしいので、まずは長野に出て、本数の多くない篠ノ井線に乗り込む。
姨捨駅付近から冠着山
善光寺平の彼方に冠着山
これは初めて乗る路線だったがよい意味で驚かされた。冠着駅手前の姨捨駅はスイッチバックで列車が入るほどの急斜面の途中で、駅の前後あたりで見渡す善光寺平(長野盆地)の眺めは背後の山々とともに雄大そのものなのだった。聞けば日本三大車窓風景の一つだという。朝の下りの車内は静かで、古き日本の面影というべき田園風景を心ゆくまで愉しんだ。進行方向左手にはこれから登ろうとする冠着山が曇天の下に憂鬱そうなおもむきで鎮まっている。
山の下をトンネルで抜けると目的の駅で、駅舎があるだけで店はもとより自動販売機さえなく寂しげな雰囲気だ。待合室を抜け、左右に走る車道を左手へ、山に向かって歩き出す。そこここにある紅黄葉を見渡しながら集落を過ぎ、カラマツの落葉が雨のように降り注ぐ林の下をくぐり行く。思った以上に傾斜のある舗装路を駅から小一時間で主稜線に乗る。眺めのよい場所で、トンネルで後にしてきた善光寺平の別な大観が得られる。右手を仰げば冠着山頂がかなり近くなっている。自動車道をほぼ真下に見下ろすが、恐れていたエンジン音はほとんど響いてこない。風だけが騒がしく吹き越していく。
冠着駅から秋色の車道を上がる
冠着駅から秋色の車道を上がる
一本松峠から善光寺平を見渡す
冠着駅から登ってきて主稜線に出たところから
善光寺平を見渡す
山腹をからむように続く舗装路をさらに半時ほどで山頂直下の登山口に着き、ようやく土の道を20分ほど登る。北アルプスの山嶺を眺め渡すところでしばし足を止め、そこから一息で小広い山頂だ。多少木々があるが、独立峰のような山なので眺めは素晴らしい。気圧の谷が近づいているせいで遠望はきかなかったが、眼下に広がる紅葉に彩られた山肌を見るだけでも登った甲斐はあった。
山頂より(おそらく)大林山(後)と八頭山(中)
山頂より(おそらく)大林山(後)と八頭山(中)
この日の山上は風が強く気温も低かった。手袋をしていない両手はかじかむほどで、吐く息も白い。山頂には避難小屋風に造られた社殿があり、そのなかに籠もって暖かい飲み物をつくり、食事をして下山した。冠着山は車で上がれるところまで上がれば往復30分強、これでは山登りとも山歩きとも言えない。自分の今日の山はほとんど舗装路の上下だったが、むしろこちらのほうが山登りであり、こういうものもあるのだと納得しながら駅へと下っていった。路面では風にあおられた枯れ葉たちがさかんに追いかけっこをしていた。


冠着山は別名「姨捨山」と呼ばれ、括弧書きでだが国土地理院の地図にもそのように記載されている。だが昔から冠着山が姨捨山であったとは言い切れないらしい。明治27年に野崎左文『日本名勝地誌 第四編(東山道之部上)』という本が出ており、当時の旅行ガイドブックに当たるもので、ここに「姨捨山」の項があって次のように書かれている。「著名なる觀月の勝區にして前記武水別神社を距る一里餘、更級村字若宮の北に在り、山は冠着山の一小支峯にして半圓形を爲し東麓に佛刹あり芳光院長楽寺と號す」。つまりこれだけ読むと姨捨山と冠着山は別な山だということになる。
ついでに先の方まで見ておこう。「寺門を入りたる處に姥石(をばいし)と稱する巨岩屹立す高さ五丈餘、横十間餘、傍らに桂の樹及び宗祗の句碑あり寺門の右の方に芭蕉の句碑あり(宗祗の句は「あひにあひぬ姨捨山に秋の月」はせを(ママ)の句は「俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友」なり)」、続けて、この寺にて眺める中秋の名月が棚田に映る景色の優れていること、いわゆる「田毎の月」の説明があり、最後に『大和物語』にある「姨捨伝説」が紹介されている。
この間というもの、冠着山の名前は出てこない。つまり姨捨山にあわせて語られることの多い観月も伝説も、冠着山とは関係がない、ということだ。(だが棄老伝説を産む土壌はおそらくこのあたりにもあったことだろう。このテーマは深沢七朗の小説となり、映画となってカンヌでグランプリを得た。「楢山節考」 は一度観たら忘れられるものではない。山に捨てた老親に「雪が降ったなぁ!」と嬉しそうに駆け寄ろうとする息子の思い…)
冠着駅への帰り道
冠着駅への帰り道にて
ここで清水栄一氏の『わが遍歴の信州百名山』のハードカバー版を本棚から取り出してみる。これは山ごとに参考資料が載っていて役に立つ。「冠着山」の項を開くと、明治12年頃作成されたと思われる『長野県町村誌』、高頭式『日本山岳誌』(明治39年)、吉田東伍『大日本地名辞書』(明治28年起稿、明治40年完成)、および『姨捨山考』(”花月文庫”所蔵の同名書籍の出版年から、明治28年のものと思われる)、それぞれから冠着山に関する記述が引かれている。なお『日本名勝地誌』は引用されていない。
清水氏が引かれた『長野県町村誌』、『日本山岳誌』、『大日本地名辞書』各書には、冠着山が姨捨山であるという記述はない。ただ『姨捨山考』のみが例外で、冠着山が姨捨山に「違いない」と力説している。長いが以下に孫引きすると;
「…然るに今の人の姨捨山と称する処(『日本名勝地誌』で「姨捨山」とするもの、本ページ作成者注)は、八幡山の半腹に在り、地瘻にして前の方より見れば、後の山と一所となりて、格別景色もなく、殊に月を賞するには、雲際に聳えたる山ならでは、古人が歌などに詠み合する筈なし、思ふに是も昔爰(ここ)に居たる山寺の非法師ども、偽りて有り合はせたる石に縁起を附けて、姨石などといふ怪説を附会したるものなるべし、田毎の月も近頃の俳諧師共が彼此と云ひ騒げども、余り古歌には見えず、然れば実の姨捨山は、今俗に冠着山と云ふ辺にてもあるべし、此の山は峰高く、聳え立て形も奇なれば、月の形も定めで宣しかるべし」。
率直に言って、附会しているのはこの著者自身ではないかと思える。ほぼ同時期に出版された志賀重昂『日本風景論』に触発されたか、または同じナショナリズム精神をもって、いわば郷土の誇りをかき立てる必要に感じた文士が勢いのままに結論づけてしまったのではないだろうか。こういう類の議論が根拠になって「冠着山=姨捨山」となり、今日まで至っているのであれば、どんなものかと思う。(なお念のために付言しておくと、ここでは清水栄一氏を批判しようとしているわけではない。単に引用文献を再引用する本の著者名として名前を出させていただいているだけである。)
姨捨駅の名所案内板
 篠ノ井線姨捨駅のホームに立つ案内板は、姨捨山について『日本名勝地誌』に沿った内容にしている。冠着山は当駅から0.5キロメートルの位置にはなく、徒歩5分で登れるはずもない。


最近では2005年に飯島勇三氏の『信州 姨捨山考』が出ており、冠着山は姨捨山ではないという論が展開されている。言うなればこの主題は決着がついていない問題のようだ。初めこそ自分も冠着山は別名「姨捨山」と信じていたが、今となっては冠着山は冠着山としてのみ扱い姨捨山とは呼ばない。何が姨捨山なのかは考える楽しみの一つとして取っておけばよいし、冠着山は冠着山で、姨捨山と呼ばせたくなるほどの妖しい雰囲気を湛えた山だということで十分ではないかと思う。
2005/11/06

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