御釜湖の上に望む岩手山山頂部

岩手山は南部片富士とも呼ばれるとおり、端正ながら奥行きのある姿をしている。登路は多く、初めてこの山に登ろうと思ったときは網張温泉から楽して登ろうとしたのだが、宿までは行ったものの雨が降って断念した。年が経ち、山歩きは楽するより静かで変化に富んだものが好ましいと思うようになり、夏に七滝コースを選んで登った。山頂を踏んで八合目避難小屋に泊まり、網張温泉に下った。


朝7時前の始発バスで、盛岡駅から岩手北麓の"県民の森"まで出る。停留所近くの十字路を南へ行くと木々が切れて岩手山が仰げるが頭は残念ながら雲の中だった。登山道入口に続く樹間の車道を上がっていくと視界が開け、西には八幡平がゆったりと山屏風を広げて本日の主役の代わりに歓迎の意を表してくれる。
明るくさんざめく樹林のなかの道のりを淡々と行き、梢越しの名瀑を眺めた後には切り立った谷間の道筋をじっくりとたどる。沢音が続くなか、右手に黒倉山の岩壁がのしかかり始めると沢筋に硫黄が混じり出す。夏の光をはね散らかす涼しげな水面を間近に見るようになると道ばたにシャクナゲなども見られる。赤茶けた地盤を削って落ちる流れを横目に出るのは荒れ果てた火山地形のさなかで、その名も大地獄谷という。狭かった空もここに来て大きくなり、稜線の向こうには夏の雲が高く湧く。
七滝への道 七滝
大地獄谷付近のシャクナゲ
(左上)七滝への道

(上) 七滝

(左) 大地獄谷付近のシャクナゲ
大地獄谷で網張温泉や松川温泉から来る縦走路と合流し、とたんに賑やかになる。ふたたび樹林に覆われたなかを行くようになり、正面が開けてくると小さな八ツ目湿原に着く。ここはカルデラ壁である鬼ヶ城と中央火口丘である御苗代湖火山の合間にあたる。ベンチがあってハイカーが思い思いに休んでおり、腰掛けた隣のかたが「今年はこのあたりは花が少ないね」と話しかけてくる。確かに鮮やかな色合いの花は少ないが、白く群れなすコバイケイソウは涼しげで、髭を風になびかせるチングルマの赤みは暖かく、ハクサンチドリの赤紫のアクセントは目にやさしい。聞けば明日の帰路に歩く予定の鬼ヶ城稜線のほうが花が多いらしい。
七滝コースから仰ぐ黒倉山 大地獄谷
火口原の道を行く
(左上)七滝コースから仰ぐ黒倉山

(上) 大地獄谷

(左) 火口原の道を行く
湿原は三叉路にもなっており、御苗代湖や御釜湖への道筋が分岐している。これら火口湖へは寄り道となり、加えてやや下るので帰りは登らなくてはならない。そのせいか立ち寄る人は多くないようで、湖面の明るい御苗代湖も、木々に囲まれて神秘的な御釜湖も、いずれもひっそりとしたものだった。御釜湖の上には岩手山本峰が高く遠い。まだまだ先は長そうだ。しかし朝の雲が取れているのは朗報だ。山頂からの展望が期待できるかもしれない。
八ツ目湿原付近の(たぶん)シラネアオイ 八ツ目湿原から鬼ヶ城を仰ぎ見る
御苗代湖の畔にて
(左上) シラネアオイ(たぶん)

(上) 八ツ目湿原から鬼ヶ城を遠望する

(左) 御苗代湖の畔にて


湿原から不動平への登りにかかる。岩手山西側の火口壁を登るあいだは急登で、汗がかなり出る。右手に鬼ヶ城の鋸歯状の稜線を仰ぎ、あちこちに剥き出しになっている火山岩脈に目を惹かれながら行けば不動平避難小屋の屋根が見えてくる。不動平は山頂の肩のような地形で、眺めが開けた左手にはのっぺりとした、だが端正な山頂部の姿が仰げる。
ベンチの並ぶ平坦地にはヘルメットをかぶった男性が立っていて、近づいていくと挨拶の声をかけてくる。本日泊まる八合目避難小屋の夏期管理人のかたで、夕刻が近づいているためか不測の事態に備えてここまで出張ってこられてきたらしい。明るく気さくなかたで、本日の小屋の混み具合を尋ねると、「ほとんどがらがらですね。もう首を括らなければなりません」などと言う。山頂に登って泊まりに行きますと断りを入れ、三叉路になっている分岐でザレた道のりに入る。
不動平 山頂稜線から最高点の薬師岳を遠望する
薬師岳直下のコマクサ
(左上)不動平

(上) 山頂稜線から最高点の薬師岳を遠望

(左) 薬師岳直下のコマクサ
山頂稜線に出ると風がかなり強い。吹きすさぶ風の中に火山らしき荒涼とした眺めが広がる。最高点へは左へ、時計回りに進むのが速く着くのだが、裾野に広がる眺めや彼方の山並みを期待して逆時計回りに進む。広々とした麓の眺めはゆったりとした気分にさせてくれたが、昨日登った姫神山は残念ながらうっすらとしか見えなかった。それでもこれを正面にするところで腰を下ろし、強風でなかなか安定しないバーナーで長時間かけて湯を沸かし、コーヒーを飲んだ。
最高点の薬師岳に近づく頃になると、山腹斜面のそこここにピンクの斑点が目につくようになる。コマクサの群落だ。2,000メートルを超え、風雨の直接当たるガラガラの斜面によく生育しているものだと思う。最高点は誰もいなかった。壮絶な火口壁、彼方の雲海、周囲の低い山々を眺めながら、ようやく岩手山の山頂に立てたことを喜んだ。
山頂より鬼ヶ城から黒倉山・姥倉山に続く稜線、御苗代湖、八ツ目湿原を俯瞰する
山頂より鬼ヶ城から黒倉山・姥倉山(奥)に続く稜線、および御苗代湖、八ツ目湿原を俯瞰する。ドーナツのように見える御苗代中央火口丘の火口は二重になっている。


その日の小屋は管理人さんが首を括るまでもないほどに登山者が入った。明けた翌日は一面のガスで、昨日のうちに山頂に登らなかった人々は雨具を着込んで諦めたように黙々と出発していく。自分は自分で、鬼ヶ城の稜線歩きとそこで出会うはずの花々を諦め、昨日歩いた道を戻って網張温泉に下ることにする。小屋前の豊富に溢れる水場で水筒を満たし、ガスで隙間なく閉ざされた山頂部方面を仰いで出発した。
御苗代湖までの下りは静かな山だったが、リフトが動き出したのか、その先あたりから次々と人に出会うようになった。軽装のひともいる。「今日はお花畑まで」、「山頂まで行きたいと思います」等々、無理しない人、やや無理がありそうな人などさまざまだ。地元のかたたちらしきグループにも挨拶される。「上の避難小屋はよかったです。管理人さんもよいかたでしたし」と言うと、「いやぁ、岩手の小屋の管理人はみないい人だよ」と返されるのだった。
2005/07/17~18

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