備前楯山登山口付近から春浅い備前楯山山頂部を望む

日光の南方に位置する足尾の山々では庚申山と皇海山を訪れたことがある。山が深いので、公共交通機関を利用するとすればわたらせ渓谷鐵道で通洞駅まで向かい、歩き始めの銀山平にタクシーで向かう。庚申川に沿う車道の右手には備前楯山が裾野を落としているのだが、どうしても視線は奥の山に向いてしまい、遠路はるばるこの山一つを登りに行くのも気が引けて、なかなか出かけないでいた。
忘れてはいないがあまり思い出すこともなくなった年の春、連休にどこか出かけようと連れと話しているうち、銀山平の国民宿舎「かじか山荘」が仕事で泊まって良かったのでもう一度行きたいという。露天の温泉があって悪くないし、まわりは山だし。連れと歩くときはそうそうキツい山歩きはしないことにしているので、宿から登り出せる備前楯山は歩行時間もそこそこでちょうどよい。二泊するものとして、初日にこの山に登り、中日に庚申山を往復しよう。こうして里が新緑に溢れる季節に渡良瀬川の渓谷を遡ることになった。


通洞駅を出たタクシーは初夏の日差しが回る町中を離れて山間の道に入っていく。足尾は言わずと知れた銅山で栄えた地域で、銀山平へ向かう間にも坑口跡や鉱夫用浴場跡などの遺構が目に止まる。しかしいまは春、新緑の木々こそ視線を奪う。近くでは川べりの斜面の黒さに映え、遠くでは濃淡の色合いを混じり合わせている。銀山平が近づくと季節がやや戻り、八重桜に枝垂れ桜が花を残している。地元で行く春を惜しんでいた連れは豪勢な桜の咲き振りを目にして歓声を上げた。
連休のさなかであり天気もよいので、日帰りで温泉に入れる国民宿舎かじか荘館内は観光客で盛況だった。まだチェックイン時刻には間があったので宿泊用装備はフロントに預かってもらい、備前楯山へと向かう。登山口となる舟石峠までは舗装道の登りで、湿度は低いが気温は高くすぐに汗が流れ出す。しかし足下はまだ春で、道ばたにはヤマブキや八重咲きのスイセンらしき花が見られ、側溝には交尾しているカエルの群れもいた。谷を回り込むようになると、南面を向いた斜面に畑地か住居の跡らしき平坦地が目につく。
新緑のカラマツ
新緑のカラマツ
八重のスイセン?
八重のスイセン?
車道の最高点は舟石峠といい、広い駐車場があって地名の元になった差し渡し2メートル弱の大岩が入口近くに横たわっている。やはりこのあたりはかつて炊煙が上がっていたらしい。駐車場脇に立つ案内板によると大正の頃には47戸も点在していたとある。往時の鉱山の盛況が偲ばれるというものだが、閉山に20年近く先だつ昭和29年に無人の地となったそうだ。広い峠を渡って端に出れば視界が開け、見下ろす足尾市街地の上に煙害から回復途上にある荒れた山肌が伸び上がっている。
峠からは山頂を左斜め奥に見ながらやや複雑な地形のなかを行く。真っ直ぐ行けば近いように見えるのだが、尾根筋を回り込むためすぐには着かない。それでもカラマツの新緑が楽しく、葉も出ていない木立のなかに目立つアカヤシオの花弁が光に透き通る。最近花の良さに目覚めた連れはしげしげと眺めてその都度歩みを止めるが、午後出発とはいえ行程の短い、危ないところのない山なので、慌てて登ることはない。
光に包まれた山頂に立つと、切れ落ちた足下の空間を遙かに越えて社山や半月山が連なる日光の山屏風を正面にする。だがその山並みの背後から高い頭を出している男体山がひときわ目を惹く。ここからではないが、勝道上人が遠望して開山したいと思ったのも頷ける荘厳さを湛えている。振り返れば袈裟丸山連峰のとりとめのない稜線が見上げる高みにある。
アカヤシオ
アカヤシオ
山頂から男体山(左奥)、半月山(中景)、赤倉山(手前)
山頂から男体山(左奥)、半月山(中景)、煙害から回復途上の赤倉山(手前)
この山の名は、近世にあって備前(現在の岡山県)出身の二人の農民が銅の露頭を発見したところから、金属鉱床(またはその鉱床のある山)を表す”タテ”に二人の郷里の名をつけたものという説明が一般的だ。いまでは”楯”の字が流通しているが、足尾銅山で長年勤務され、足尾の歴史にも詳しい村上安正氏の『銅山の町 足尾を歩く』によれば、”タテ”は木偏ではなく金偏が正しいらしい(ただしその字は第二水準漢字にもない)。備前楯山は銅山を中心とした職住一致の生活の場であったが、いまでは観光客とハイカーが日中に闊歩するくらいになってしまった。初夏の明るい日差しのなかでも微かな空虚感が漂うのは、この地に満ちていたはずの無数の喜怒哀楽 が今はない故だろう。


山頂で長いこと休憩したあと、帰りは往路を戻った。下り一辺倒のせいか、わりとあっけなくかじか荘に着いた。昼時の喧噪はおさまり、汗を流しに向かった浴場も比較的空いていた。
2006/4/30

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