野坂峠から大沼越しに地蔵岳、長七郎山(奥)、小地蔵岳(左)
まだまだ山は遠いのに、バスの走る道は延々と上向きだった。ここはすでに赤城の裾野、中天には個性的なピークが居並び、遠路からの訪問客を出迎える。丸く盛り上がった鈴ヶ岳が正面に霞み、やや右手に荒山がせり上がる。しかし本日の曇天で秋の盛りだというのに季節の色は窺えない。ほぼ輪郭だけの稜線を見上げつつバスは坦々と登って行く。


北海道の農地を思わせる畜産試験場を左手に眺め、視線を来し方に投げれば世界は低い。前橋駅から乗ったのを富士見温泉で乗り換えて、赤城の山懐へと入っていく。麓からでは薄墨色だった山々に色づきが増えるに従い、右手に高々と荒山と鍋割山の山腹が聳え立つ。この二山を背後にすると、周囲の木々がいよいよ彩色豊かになり、ことにツタウルシの赤が目立つようになる。
左手の眺めが開け、放牧された牛の姿が見えると白樺牧場だった。ここでバスを降り、車で来た観光客の人波に入っていく。山に向かう前に牧場脇の赤城山総合観光案内所に立ち寄ってみると、赤城に関するとりどりの話題がパネル表示されている。意外と文人墨客の逸話が面白い。たとえば志賀直哉は赤城山の山奥に住んでいたことがあるらしく、訪れる友人たちと大いに呑んでいたそうだ。そのときの交友関係のなかから着想されたらしい短編「焚火」は赤城を舞台とした幻想味のある作品とのこと、いつか読みたいものだと思う。
観光案内所から白樺牧場越しに荒山を望む
観光案内所から白樺牧場越しに荒山を望む
案内所とは車道を挟んで反対側にある駐車場に入り、奥から始まる地蔵岳登山道に入る。牧場周辺も紅葉が見事だったが、歩いて行く登山道のまわりも彩りがすばらしい。十歩くらい歩いては立ち止まって写真を撮り、さらに十歩くらい歩いては写真を撮りを繰り返し、なかなか歩みが捗らない。
右手の頭上間近にアンテナ群の林立が仰げるようになった。傾斜が強まり、写真撮影の余裕がなくなる。バスに乗った前橋駅でコインロッカーをみつけられなかったため、二泊三日の旅程の荷物すべてが入ったザックを背負っているので、通常の日帰り登山に比べれば足取りが重い。疲れないよう、一歩先の足の置き場所を探しながら歩く。
観光案内所付近の駐車場から地蔵岳を仰ぐ
観光案内所付近の駐車場から地蔵岳を仰ぐ
地蔵岳への径
地蔵岳への径
ときおり下ってくる人とすれ違うものの、曇天とはいえ観光地赤城においては静かなる時間が続く。目の前に砂礫地が広がり、途中にある広場なのかなと思っていたら、すでに山頂部だった。歩き出して1時間も経っていない。やや拍子抜けの感があった。


見上げたとおりの広く、かつ細長い山頂で、威圧的なアンテナ群の前は開けているものの人影がない。ハイカーは大沼を見下ろし黒檜山を正面にする場所に集まっている。眺めは言うことなしだが風通しが良くてとにかく寒い。大汗をかいて登ってきたTシャツ姿のままでは耐えられるものではなく、上着を着込んだものの脚が寒い。膝掛けがほしいくらいだ。この寒さに耐えつつ先行者たちに倣って見事な眼前の光景を見渡せる場所に腰を下ろす。湯を湧かして熱いものを淹れ、持参のおにぎりを食べると、少しは暖まった。
地蔵岳山頂から大沼越しに黒檜岳
地蔵岳山頂から大沼越しに黒檜岳
眼下の大沼は転げ落ちて吸い込まれそうな迫力で、その脇に立つ赤城最高峰黒檜岳の黒々とした姿と合わせて畏怖感を抱かせる。視線を遠くにさまよわせると、大沼の上方、赤城山塊を超えた彼方には目立つ双耳峰が浮かんでいる。尾瀬の燧ヶ岳のようだ。その右手には顕著な不等辺三角形の山が見えるが、名前の見当もつかない(帰宅後、群馬県の丸沼高原北方に立つ四郎岳という名の山だとわかった)。雲が下がってきているおかげで遠くの山は模糊としているが、来慣れない赤城での山座同定はたとえ晴れていたとしても苦労することだろう。
十分に景色と寒さを堪能したので荷をまとめて立ち上がり、小沼(この)へと向かうことにする。こちらの登山道はしっかりとした木の板の階段道が多い。下るにつれて小沼とその背後の長七郎山が見えてくる。久しぶりに眺める小振りの火口湖は変わらず神秘的だった。「緑の瞳で天を見上げて何思う」、などと、詩句めいた言葉が浮かびもする。
地蔵岳山頂南方より小沼、血の池(右)。
地蔵岳山頂南方より小沼、血の池(右)。
小沼の背後に長七郎山、続く稜線の左端に小地蔵岳。小沼の左は駐車場。
血の池の背後は朝香嶺というピークらしいが、山頂に達する一般向けの登路はない模様。
 
車道に出ると湖畔はすぐで、水面に映る対岸の彩りが華やかだった。周囲を巡る遊歩道には観光客が三々五々歩いていた。小沼を半周すると小さな水門があり、ここで湖畔の道と分かれて長七郎山登山口およびオトギの森へと続くものに入る。湖を離れる観光客は少なく、山中に静寂が戻ってくる。
小沼の畔
小沼の畔
オトギの森へ
オトギの森へ
長七郎山とオトギの森との分岐には、オトギの森へを示す標識が二つあった。片や「この先500m」、片や「この先1,000m」。初見時はこの差の意味がわからず、長い方が楽しめるだろうと、1,000mのほうに入る。
山腹に付けられた歩きやすい道のりの右手がオトギの森なのだろうが、その範囲がどこまでなのかはわからない。徐々に下っていく途中で分岐があり、目的地までは400mとある。足下は礫岩のようなものが出てきていた。よくみると簡易舗装道の名残のようにも見えた。こんなところでいったい何をしようとしていたのだろうと訝しむうち、足下は土の道に戻り、あたりは笹原のなかに木々の立つ森、その一角にオトギの森の標識を目にする。
オトギの森(標識は少し先)
オトギの森(標識は少し先)
オトギの森は、メルヘン的な名前から白樺が林立するところかと勝手に思っていたが、笹原の広がる中に枝を伸ばしているのは幹の白いものばかりではなく、いろいろな樹種があった。窮屈になることなくゆったりと、それぞれが思い思いに立っている。静かな明るい森は心落ち着く。しばし佇んで、穏やかな空気に浸る。


来た道を戻らず、先に続くものに踏み入ってみると、幅広だったものは山道の趣きとなり、足首程度とは言え笹もかぶり出す。とはいえ歩きにくいことはない。左手にのしかかる地蔵岳を仰ぎ、紅葉の鮮やかな崩壊地を覗き込み、笹と土砂に埋もれて木まで生え、もはや機能していない林道の跡を横切ってしばしで、長七郎山との分岐に戻ってきた。いま歩いてきたのが「オトギの森 500m」だった。
長七郎山は標高差100mという標識が立っている。それはカンタンそうだ。じっさい15分ほどで、色づいた木々のなかを抜け、黒土の出た山頂部に着いた。振り返れば真っ赤に染まった低木の上に地蔵岳が大きい。そろそろ4時なので表情は沈みがちだった。長七郎山からは小沼を左手にする稜線を巡っていく。開けた湖面の眺望を期待したが、梢越しに窺える程度で全貌を眺めることはできなかった。むしろ赤城外輪山の裾野側に好展望があった。根本山だろうか、ごつごつした稜線を彼方に霞ませている。関東平野はやや厚めの靄がかかっていて、雲海になろうとしているのかと思えるほどだった。
長七郎山から地蔵岳を仰ぐ
長七郎山から地蔵岳を仰ぐ
小沼を巡る稜線から外れた小地蔵岳に立ち寄ってみた。小さな笹原に木々が好きに生えていて眺めはなく、腰を下ろせる広い場所もないが、それだけ慎ましやかな、落ち着ける場所ではあった。この日最後のピークに佇み、夕暮れに向かう山中の冷え始めた空気を胸一杯吸った。(疲れて深呼吸したということ。)
小地蔵岳から稜線の径に戻って覚満淵方面に下った。山道から遊歩道に出て、標識に従い鳥居峠に出る。ここは外輪山の撓みで、駐車場が広がり、赤城山頂駅を謳う看板を押し出した板張りのレストランが建っている。
建物は正面から見ると改装されているようだが、裏に回ってみると、かつてのケーブルカー山頂駅の遺構がそのまま残っていた。コンクリ造りの施設の下には、レールこそないものの、急角度に長々と設えられた軌道跡まである。傍らにある保守用の階段が登山道の一部として使用されており、見下ろしてみると散策に出た観光客が疲れた足取りで登り返してきているところだった。
レストハウス裏に残るケーブルカー駅施設跡
レストハウス裏に残るケーブルカー駅施設跡。背後は小地蔵岳。
ケーブルカー軌条跡越しに裾野方面を俯瞰する
ケーブルカー軌条跡越しに裾野方面を俯瞰する
近ごろ産業遺跡という概念が一般化してきているが、赤城の観光産業の歴史を伝えるという意味で、このケーブルカー跡地も産業遺跡と呼んでよいと思える。山の歴史というと人文系では登山史や宗教史が念頭に浮かぶが、峠道の開削やら林業の展開やら、この赤城でのように観光開発など、いわば開発史というものもあるわけで、適切な観光資源としても、山を総体として理解するためにも、ガイドブックなりで案内してもらえるとよいと思うのだった(歩くコースだけでもなく、食べるところ、おみやげどころばかりの紹介でもなく。いまはない地蔵岳のロープウェイや国民宿舎赤城緑風荘について触れるのも赤城観光の変遷を知るのによいかもしれない)。


覚満淵を見下ろす縁に出てみると、湿原は好ましい狐色に染まっていた。すぐ真下にあるので立ち寄るに苦労はないのだが、本数の少ないバスの時刻が迫っていたためまた次の機会にとして、停留所へ続く舗装道を下っていった。
2015/10/10

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