『贋The schizophrenic princessの闘病日誌(3)』

 時代の初頭と末期と比較すると、昭和は文化、思想、あらゆる面での發達、發展の差異や度合が明治の激變よりも壮大で、『大昭和』なんだなアと思ひます。平成は、大正の如く過渡期に過ぎない時代になってしまふのかしら。昭和初期の冊子を讀むと、頑なで偉さうで、戀愛も大變さうで、氣の毒で滑稽で面白いけど、でも、其の頃の方が、あなたはかうしてゐなさい、ああしてゐなさい、と規範の中で生きてゐられれば良かつたのだから、鬱病に罹る人は少なかつたでせう。

 昭和がとてつもなく巨大な毒性植物に思へてきます。普通の植物だつたのが、一度燒かれたのをきつかけに突然變異を齎して、とぐろを巻き、地底に根を張り巡らせ、猥雑なものまで榮養にして、ホルモンのバランスと腦に欠陥を生じた巨大人のやうに歪曲しながら触手を伸ばし、限度を超えて成長してしまつた。

 あと10年も經てば、平成初期生まれの高校生に「昭和生まれの昔の人達」と揶揄されてしまふのでせう。昭和生まれのわたしたちは。


『戀する資格と、戀される資格』

男を見る眼

 此頃社會的に稍解放されて来たとは云へ、男女交際の機會の少ない今の日本の若い女性には男子を見る眼は全くないと云つていい位であります。人間の性情は仲々に看破し難く、まして男子のそれは女子に比して深くもまた複雑でありますし、各特異性を持つてゐますから、只表面のみを見て物の理非曲直もまだ正當に判斷し得ぬ未熟な頭の娘に判別のし得よう筈がありません。一時の親切を永久に續く愛と單純に想ひ込んで、終生の悔をのこす悲しい婦人の例も多く見るのでありますから、その徹を踏まぬ様、心得ねばなりません。男を性格的に識別し得る力のないものは戀する資格のないものと云はねばなりません。少くも婦人は二十三四を越え、相當世間を知つたものでない限り、戀する事も戀される事も共に資格のないものと云はねばなりません。

實際的の資格

 戀するものは、また結婚生活に入るだけの資格と用意を持てゐなければなりません。即ち男子にあつては、妻と少くとも一人位の子供は十分に養へるだけの經濟力を、女子にあつては妻として母として、十分その使命を果し得るだけの精神的實際的の能力を具へ得てゐなければなりません。

無斷轉載:昭和三年一月一日發行
婦人倶樂部付録『昭和婦人新文庫』
大日本雄辯會講談社
大古本市で300圓位で購入

          

鬱病は、自由による弊害、所謂、解放精神贅澤病なのだ、と今ごろ氣付いた。


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