ドゥルーズ
Gilles Deleuze(1925-1995)


ドゥルーズは、健全な「欲望」の姿と本当の「私」のあり方を、語っている。以下は、二十代の女性が酔って書く日記の一節。

「私の心と私の言葉の間には、決してうめられない溝がいくつもあって、それと同じくらい、私の文章と私の間にも距離があるはずだ。
 でも一般にみんな、日記に向かうとき素直になっているような気になっている感じがして、気持ち悪いから何となく日記は気取っていて、いやなのだ。
 本当に人を救う尊い仕事をしている男が、ある朝交差点で世にもHなお姉さんの後ろ姿に勃起し、さらにその日のうちに幼い娘に八つ当たりし、妻と話しあって高次の愛に接したら、それはみんなその人で、その混沌が最高なのにみんな物語が好きだから、本人もそうだから、統一されたいと願ったり、自分をいいと思ったり悪いと思ったり、大忙しだ。
 変なの。」(吉本ばなな『アムリタ』)

これは意図的に幼稚な感じの文章で書かれている(吉本自身の文章は名文だ)が、言っていることは誰でも判る。人間の経験は、多様で、「分裂病(=統合失調症)」的であるということだ。にもかかわらず、われわれはそれらを、例えば「立派な先生」といったような、一つの「物語」に統一することを異常に好む。そうであるがゆえに、自分を誤解してしまう。ドゥルーズが批判しているのは、「みんなが好き」な、こうした「物語」だ。そうした「物語」の親分(=元締め)が、フロイトの言う「オイディプス(エディプス)・コンプレックス」である。

『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズ/ガタリ)

第一章 欲望する機械
「<それ(注1)>は作動している。ときには流れるように、ときには時々止まりながら、いたる所で<それ>は作動している。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらを一まとめに総称して<それ>と呼んでしまったことは、なんたる誤りであることか。いたるところでこれらは種々の諸機械なのである。…乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、肛門機械であるのか、話す機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起る(注2))を決めかねているのだ。」(市倉宏裕訳)

(注1)<それ>というのは、ドイツ語の<エス(=三人称単数の代名詞「それ」)>、つまり時に「リビドー」とも言い換えられる、無意識の欲望(=生/性のエネルギー)を指す。本当に動いている(=我々を動かしている)ものは、そうした欲望だという前提で、話は進んでいる。
(注2)ドゥルーズ自身が喘息で苦しんでいたらしいから、これはよく解る比喩だ。

「欲望というものは機械であり、諸機械の総合であり、機械的<仕組み>である。―つまり欲望する諸機械である。欲望は生産の秩序に属しており、一切の生産は欲望する生産であるとともに社会的生産でもある。だからわれわれは精神分析がこの生産の秩序を押しつぶし、この秩序を表象の中へ押し戻したことを非難するのである。…〔精神分析のいう〕無意識はオイディプスを信じ、去勢を信じ、法律を信じている。」(同上)

『アンチ・オイディプス』は、「資本主義と分裂症」の第一巻に当たる。第二巻が、『千のプラトー』である。マルクス(資本主義の分析)とフロイト(精神分析)について多少は知らないと、この辺りは解りにくい。
ドゥルーズの世界観によれば、すべての欲望は根源において一つであり、不断に流れていく流動である。それが、フロイトにおいて「エス(リビドー)」と呼ばれたものである。
 「欲望」はふつう抑えるべき悪いものと考えられることが多いが、しかしそれは「欲望」が「欠如」として他者へ向かう場合であり、本当の「欲望」は、自分自身を生み出す創造的働きだ、とドゥルーズは言う。(そうした生産する欲望が動く歓喜の瞬間は、無数の高み(=千のプラトー)として持続する。)
欲望が本来、創造的なものであれば、それは当然、反社会的(=革命的)な要素を含む。欲望と社会が対立するとき、間違っているのは、実は社会の方である。しかし社会は、オイディプスの姿を借りて、この欲望を一つの姿に抑え込もうとするのである。
もし「欲望」という言葉がきついならば、「愛」という言葉に言い換えてみてもよいだろう。「愛」とは、基本的に善いものだ、と言ったら納得して貰えるだろうか。仏教では、それが「渇愛」つまり「他者のものを自分のものにしたいという邪な愛」であるときに、悪い、という。それが欠乏としての欲望だ。
われわれは自分の欲望を事後的にしか知りえない。知性は欲望を理解できないからだ。だから欲望は無意識だと言われ、理性に対立するものだと理解される。しかし、知性が主導権を取り欲望を充足させようとするとき、生産する欲望は、欠如としての欲望に転じている。

「欲望する機械」という概念は、自然と人間、個人と社会を、同レベルで捉え、統一的に説明しようとする概念装置である。「有機体」が機械であることは今や明らかであるが、それは無意識に関しても妥当する。欲望が繰り返され固定的なものと見なされるとき、それは「機械」でもある。その「機械」が他の「機械」と連結されてゆくプロセスは「受動的総合」として理解される。

第二章 精神分析と家族主義
「欲望が抑圧されるのは、それが母を望み、父の死を欲するからではない。逆である。欲望がそうしたことを欲するのは、それが抑圧されているからである。」
「オイディプス・コンプレックス、つまりオイディプス化は、二重の操作の成果なのである。…抑制的な社会的な生産が、抑圧する家庭によって代行されるということと共に、この抑圧する家庭が、欲望する生産について<置き換えられたイマージュ>を与え、この<置き換えられたイマージュ>が、抑圧されるものを家庭的な近親相姦の欲動として表象するということ。」
「精神分析の患者たちは、既に全くオイディプス化されてしまっている。彼らはオイディプスを要求し、さらにまた重ねて要求する。ストラヴィンスキーは死ぬ前にこう言い切っている。『私は確信しているが、私の不幸は、父が私を離れ、母が私に少ししか愛情を与えなかったことに由来しているのだ。そこで私は、いつか、このことを両親に知らせてやろうと決心をしたのだ。』」(同上)

資本主義という社会システムは、一方では、全てを流動化する働きをするが、他方で、われわれに、一箇所に根を下ろし、専門家として生きることを要求する。『巨人の星』の主人公、星飛雄馬は、父・星一徹の果たせなかった夢を実現するために、ただ一筋に野球だけに打ちこみ、巨人軍のエースを目指す。しかしここで星一徹という父親の姿で現われてくるのは、全てのものを犠牲にして、自分を一つの型に押し込むことを要求するオイディプスである。(少年マンガの多くのテーマが、オイディプス・コンプレックスであるのは、偶然ではない。母を奪った父の影と戦う『バガボンド』の宮本武蔵も、完全にオイディプス・コンプレックスである。)
「オイディプス」は、全てを「父―母―僕」という家族の三角形の中に閉じ込めようとする。それによって、現実の抑圧を子どもが望むように仕向ける。
去勢をちらつかせて子どもを服従させる「オイディプス」とは支配者の表象である。そこでは全てを支配しようとする将軍やファシズムや「神」が目覚める。

第四章 分裂分析への序章
「まともな人たちは言う、逃げてはいけない、それは良くないことだし有効ではない、現状を改革するために努力すべきだ、と。しかし革命家は知っている。逃走は革命的であり、引きこもりwithdrawalオタクfreaksでさえも、社会のテーブルクロスを引っ張って社会システムの一端を逃がすのなら、革命的である。」(同上―ただし訳は変更した)

ドゥルーズは快楽主義者である。でも魂の深いところで快楽主義者でない人間などいるのだろうか。
悦ばしい経験を、とりわけ魂を揺さぶる、深い充実感を伴った悦ばしい経験を、誰もが求めている。
例えば野球選手の場合、ホームランを打つのは本当に気持ちがいいことらしく、あのイチローでさえも、ホームランを打った後は、無意識にその気持ちよさを求めて、スイングが大きくなるという。(イチローは「パラノ」そのものなので、そうした時には、バッティングを狂わせないように、次から敢えて長打を狙わないようにするのだそうである。)
或いは、サッカー選手が見事なゴールを決めたとき、彼は湧き立つような悦び、頭がくらくらするような陶酔的快楽に満たされているのではないだろうか。
しかし、一方には、スポーツを商品化する社会のシステムがある。金のためにプレイする選手もおり、また、選手のプレイをテレビで見て熱狂するファンがいる。
どれかが本物で他は偽者だと考えることもできる。しかし、当の経験の中においては、本物と偽者の区別は存在しない。
経験の「強度」の差はあっても、ある高まりは自ずから別の高まりへと繋がっていく。
何であれ、そうした悦びに満ちた経験を裏切って、自分の生活を詰まらないものにするな、とドゥルーズは言うのである。
(これは、エピクロスの静的な快楽主義とも、近代の単に感覚的な快楽主義とも(もちろんアドレナリンやドーパミンといった快楽物質の働きを重視する生理的な快楽主義とも)違う、ニーチェの系譜に立つ、第三の快楽主義である。)

『リゾーム』(『千のプラトー』第一章)

「リゾームになり、根にはなるな、決して種を植えるな! 蒔くな、突き刺せ! 一にも多にもなるな、多様体であれ! 線を作れ、決して点を作るな! スピードは点を線に変容させる! 速くあれ、たとえ場を動かぬときでも! 幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな! 正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も素描も作るな! ピンクパンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように。」(宇野邦夫他訳)

「リゾーム」とは、「根茎」とも訳されるが、地中でジャガイモの根が相互に繋がりあうように、どこにも中心のない相互関連する組織を言う。これには、同じ一つの幹から順次に枝分かれしてゆく権威主義的な「樹木(ツリー)」が対置される。
『リゾーム』の翻訳は20年くらい前に出たので、その時に読んだ覚えはあるが、その意味がやっと分ったのは、インターネットの時代になってからのことである。

『意味の論理学』も、掲示板など、インターネットにおける言説の分析としても読める(と思う)。そういう意味でも、ドゥルーズはまさしく現代の哲学である。


参考文献
ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』(上/下)宇野邦一訳 (河出文庫)
この本を理解するためには、フロイトの精神分析に関する知識(とりわけ「エディプス・コンプレックス」関連の)は必須でしょう。
河出文庫からは、最近どうかしたのかと思うくらい、ドゥルーズの翻訳が出ています(手軽に持ち運べて、電車の中でも読めるので有難いですが)。
『意味の論理学』(上/下) 小泉義之訳 (河出文庫)
『記号と事件 1972-1900の対話』 宮林寛訳 (河出文庫)
『フーコー』 宇野邦一訳 (河出文庫)
『差異と反復』 財津理訳 (河出文庫)
この中では、『記号と事件』が一番読みやすくはあります。
もっと読みやすいものと言えば、概説書ですが、
船木亨『ドゥルーズ』(清水書院)
辺りでしょうか。


→ニーチェ(「超人」は「欲望」を肯定する)
→フロイト(オイディプス・コンプレックス)
→フーコー(「性」のオイディプス化)

→村の広場に帰る