ニーチェ
Friedrich Nietzsche(1844-1900)
夢は、全く見ないか、面白い夢を見るか、どちらかだ。起きている時も同じだ、全く起きていないか、面白く起きているか。
( Die fr
öhliche Wissenschaft 232)


1 神の死とニヒリズム 『悦ばしき知慧』(125)

狂気の人君たちはあの狂気の人のことを聞かなかったか。─真昼間、提灯をつけて、広場に出てきて、ひっきりなしに「俺は神を探している!俺は神を探している!」と叫んだ人のことを。
─広場にはちょうど神を信じない人たちが大勢集まっていたので、彼はたちまちひどい物笑いの種になった。神様が行方不明になったのか、と或る者は言った。神様が子どものように迷子になったのか、と他の者は言った。それとも隠れん坊をしているのか?我々が怖いのか?船に乗ったのか?移民というわけか?─彼等は口々に叫び笑った。
狂気の人は彼等の中に飛びこみ、鋭い目つきで睨みつけた。「神が何処へ行ったかって?」と彼は叫んだ、「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が!我々はみんな神の殺害者だ。
だが、どうしてそんなことができたのだ?地球を太陽から切り離すようなことをどうしてやってしまったのか?我々はどっちへ動いているのか?我々は無限の虚無の中をさ迷って行くのではないか?寒くなってきたのではないか?絶えず夜が、ますます暗い夜がやって来るのではないか?真昼間から提灯をつけなければならないのではないか?神を埋葬する墓掘り人たちの騒ぎは未だ聞こえてこないか?神の腐る匂いが未だしてこないか?
─神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?」
─ここで狂気の人は口をつぐみ、改めて聴衆の顔を見た。聴衆もまた押し黙って、訝しげに彼を見つめた。ついに彼は、提灯を地面に投げつけた。提灯は壊れて消えた。「俺は早く来すぎた」と彼は言った。「まだその時ではなかった。この恐るべき出来事は目下進行中なのだ。まだ人間たちの耳には達していないのだ。電光と雷鳴は時を要する。実際に起こった後でやっと、人の目に入り耳に入る。この所業は、人間たちには最も遠い星よりもまだ遠いのだ。─にもかかわらず彼等はこの所業をやってのけたのだ。」
─なお人々の話では、この狂気の人は、その日あちこちの教会に押し入り、そこで、《神のレクイエム》を歌った、という。外に引きずり出され詰問されると、彼はいつもこう答えたということだ。「教会とはいったい何だろう、─神の墓穴、その墓碑でなければ?」

2 キリスト教の批判 『道徳の系譜学』(Zur Genealogie der Moral)

a)貴族的評価と僧侶的評価;「善い」と「悪い」、「良い」と「わるい」

善悪の評価の基準
騎士的
貴族的
評価様式
他人の判断ではなく
「良い(=優れた)」人間自身の
自己規定から出てくる。
<力を持つ、常に創造的、生を楽しむ>という
自己肯定的な感情が、「良い」の本来の意味。
具体的には、
戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技など
強く快活で自由な活動を含む全てのもの。
その逆。
力なく、生を創り出せないものが、
「わるい(=劣っている)」
僧侶的
評価様式
転倒した評価方法
奴隷の道徳=否定;自己に確信が無い
力を持ったものは「悪い」
そうでないものが「善い」
キリスト教では、
惨めな者、貧しき者、力なき者を
「善い」とする。
「無私、自己否定、自己犠牲」といった
<非利己的な行為>が理想とされる。
半端な現状で満足している、
それゆえ神から遠ざかっている、
この世の権力者

b)ルサンチマン(Ressentiment)
生の基本構造;現実を超えてより多くのものを求める(mehr Leben, mehr als Leben)
現実の生に対する不満=世界が今のようでなく、別のようにあってほしいという不満
生肯定的なもの(→強者)への反感(恨み)の感情=Ressentiment
絶対的な価値(=神)を立てることによって、強者の現実肯定的な態度を、中途半端なものとして斥ける。そこには強者への復讐の感情がある。

c) ニヒリズム
「ニヒリズム(Nihilismus)」とは、「無(nihil)である」、という立場をいう。世界が存在する意味、自分が生きている意味、それは無だ、とニヒリズムは言う。
いまニヒリズムが現われざるを得ないのは、我々が世界の内に、そこにはない「意味」を探し求めたからである。
「キリスト教の道徳という仮説は、どんな利益をもたらしたか?
1)それは、人間に絶対的価値を与えた。生成と消滅の流れのうちにある人間の卑小さや偶然性に反対して。
2)それは、神の弁護者の役割を果たした。…禍害は十分に意味があると思われたのである。
3)それは、絶対的価値についての知を人間に与えた。…
4)それは、人間が人間である自分を軽蔑しないように、生に敵対しないように、認識することに絶望しないように、取り計らった。つまりそれは、自己保存の手段であった。」
(『力への意志』第一巻「ヨーロッパのニヒリズム」4=Schlechta版全集852頁)

3 超人と永劫回帰 『ツァラトゥストラかく語りき』(Also Sprach Zarathustra)

ニーチェは、「ツァラトゥストラ」(<ゾロアスター)という架空の人物に託して、新しい価値と世界観を語る。
簡単に言えば、「超人」とは、自らのうちで新しい価値(例えば、自分の生きる意味)を創造できる人間であり、その試金石が「永劫回帰」である。(「超人」の反対が、「末人」。)
『ツァラトゥストラ』の第一主題は「超人」、第二主題は「永劫回帰」である。

a)末人;最後の人間たち
「畜群」―家畜化された現代人の生態;人間の矮小化、創造力の喪失
「最も軽蔑すべき者達について私は語ろう。それは末人(最後の人間)だ。
人間の土地はまだ十分に豊かである。しかしこの土地はいつか不毛になり活力を失くすだろう。高い木がそこから生えてくることは出来なくなるだろう。…
私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。
災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る
災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る。
見よ! 私は君達に末人を示そう。
『愛って何? 創造って何? 憧憬(あこがれ)って何? 星って何?』―こう末人は問い、まばたきをする。
そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はのみのように根絶できない。末人は一番長く生きる。
『われわれは幸福を発明した』―こう末人たちは言い、まばたきをする。
彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。…
ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。…
人はもはや貧しくも豊かにもならない。どちらも面倒くさすぎる。支配する者もいないし、従う者もいない。どちらも面倒くさすぎる。
飼い主のいない、ひとつの畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かう。」(「ツァラトゥストラの序説」5)

b)超人;自己肯定と自己超越

「聞け、私は君達に超人を教える。
超人は大地の意義である。君達の意志は、こう言うべきである、超人が大地の意義であれ、と。
兄弟たちよ、私は君達に切望する、大地に忠実であれと。君達は地上を超えた希望を説く人々を信じてはならない。彼等こそ毒の調合者である。
かつては、神を冒涜することが最大の冒涜だった。しかし神は死んだ。そして神とともに、それら冒涜者達も死んだのだ。今日では大地を冒涜することが、最も恐るべきことである。知り得ないものの内臓を、大地の意義以上に崇める事が。

まことに、人間は不潔な河流である。我々は大海にならねばならない。汚れることなしに不潔な河流を呑みこむことができるために。
聞け、私は君達に超人を教える。超人はそういう大海である。その中に君達の大いなる軽蔑は流れこむことができるのだ。

私は愛する、人間たちの上を蔽う暗黒の雲から一滴一滴と落下する、重い雨粒のような者たちを。彼等は稲妻の到来を告知する、そして告知者として滅びるのだ。
見よ、私は稲妻の告知者だ、雲から落ちる重い雨粒だ。この稲妻こそ、すなわち超人である。」
(「ツァラトゥストラの序説」3/4)

c)永劫回帰;ニヒリズムの克服―運命愛

「最大の重し―或る日、デーモンが君の最も淋しい孤独の中まで忍び寄り、こう言うとしたらどうだろう。『お前が今生きている、これまで生きてきた、この生を、お前はもう一度、さらには無限にわたり、繰り返し生きなければならない。何も新しいものはない。あらゆる苦痛とあらゆる歓び、あらゆる思念とあらゆる溜息、お前の生の言うに言われぬありとあらゆるものが些大もらさず、戻ってくるのだ、しかも全てが同じ順序で。―この蜘蛛も、木の間をもれる月の光も、今のこの瞬間も、私自身も。存在の永遠の砂時計は、そしてその中の砂粒にすぎないお前も、何度も繰り返しひっくり返されるのだ。』―君は地に身を投げ出し、歯軋りをして、こう語ったデーモンを呪わないだろうか?それともデーモンに、『お前は神だ。これより神々しいことは聞いたことがない!』と答える程の、とてつもない瞬間をこれまでに体験したことがあるだろうか?」
『悦ばしき智慧』341)


付録1―『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)より
精神の三段の変化
わたしは君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。
畏敬を宿している、強力で、重荷に堪える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。
何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に堪える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。
最も重いものは何か、英雄たちよ、と、この重荷に堪える精神はたずねる。わたしはそれを自分の身に担って、わたしの強さを喜びたいのだ。
最も重いのは、こういうことではないか。おのれの驕慢に痛みを与えるために、自分を低くすることではないか? 自分の智慧をあざけるために、自分の愚かさを外にあらわすことではないか?
(中略)
すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へ急ぐ駱駝のように、おのれの身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。
しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。このとき精神は獅子となる。精神は自由をわがものにしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。
その砂漠でかれはかれを最後に支配した者を呼び出す。かれはその最後の支配者、かれの神の敵になろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な竜と角逐する。
精神がもはや主と認めず神と呼ぼうとしない巨大な竜とは何であろうか。「汝なすべし」それがその巨大な竜の名である。しかし獅子の精神は言う、「われは欲す」と。
「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有鱗動物であって、その一枚一枚の鱗に、「汝なすべし」が金色に輝いている。(中略)
わたしの兄弟たちよ、何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念に満ちた駱駝では不十分なのか。
新しい諸価値を創造すること――それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目指して自由をわがものにすること――これは獅子の力でなければできないのだ。
自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ。(中略)
しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろうか。
小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。
そうだ、わたしの兄弟たちよ、創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
精神の三様の変化をわたしは君たちに述べた。どのようにして精神が駱駝になり、駱駝が獅子になり、獅子が小児になったかを述べた。――

ツァラトゥストラはこう語った。そのときかれは「まだら牛」と呼ばれる都市に滞在していた。

純潔
わたしは森を愛する。都市は住むに堪えない。そこには淫蕩な者が多すぎる。
淫蕩な女の夢のなかに落ちこむよりは、殺人者の手に落ちこむほうが、ましではないか。
またあの男たちを見るがいい。彼等の目が語っている。―彼等はこの地上で、女と寝るよりましなことは何も知らないのだ。
彼等の魂の底には泥がたまっている。しかもその魂に精神があるとなると、災いである。
彼等が、せめて動物として完全であるならいいのだが。だが動物であるためには、無邪気さが必要なのだ。
わたしは君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。わたしが勧めるのは、官能の無邪気さだ。
わたしは君たちに貞潔を勧めるのではない。貞潔は、ある人々においては徳であるが、多くの者においては、ほとんど悪徳である。
そういう多くの者も、なるほどおのれの欲望をおさえはする。しかし、彼等の行う一切のことから、肉欲の雌犬の妬みの目がのぞいている。
彼等の達する徳の高みへも、彼等の持ちつづけている冷ややかな精神の底にも、この雌犬とその不満とは、ついていく。
そしてこの雌犬は、一片の肉が拒まれると、なんと殊勝げに一片の精神をねだることだろう。
君たちは悲劇を愛するのか。すべての悲痛なものを愛するのか。しかし、わたしは君たちの内部に住む雌犬に心を許すことはできない。
わたしの見るところでは、君たちはあまりにも残忍なまなざしをしている。そして悩んでいる者たちを淫らな目でながめるのだ。それはただ、淫欲が変装して、同情と自称しているだけではないのか。
さらに、こういう比喩を君たちに与えたい。世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚の群れの中へ走りこんだという人間が少なくないのだ。
純潔を守ることが困難な者には、純潔を思い切るように勧めるのがいい。純潔が、地獄―すなわち魂の泥と淫蕩―への道とならぬために。
わたしが汚らわしいことについて語っているというのか。だが、これはわたしの語る最悪のことではない。
認識をこころざす者が、真理の水にはいることをいとうのは、その水が浅いときだけであって、真理が汚らわしいからといって、彼はその中に入ることをいといはしない。
まことに、根本的に純潔な人々がいるものだ。彼等は心から柔和に、君たちよりも、好んで笑い、ゆたかに笑う。
彼等は純潔そのものをも笑う、そして言う。「純潔とは何であるか。
純潔とは愚かしさではないのか。しかしこの愚かしさは、愚かしさのほうからわたしたちのところへ来たのであって、わたしたちがわざわざその愚かしさに近づきになろうとしたのではない。
わたしたちはこの客に、わたしたちの心を宿として提供した。そこで今彼はわたしたちのところに泊まっている。―泊まっていたいあいだは、そこに泊まっているがいい」

ツァラトゥストラはこう語った。

青白い犯罪者
 法官たちよ、犠牲の獣を供える祭司らよ。君たちは犠牲の獣がうなずかないうちは、それを殺そうとしないのだな。それならば、見よ。あの青白い犯罪者はすでにうなずいた。かれの目は大いなる侮蔑(ぶべつ)を語っている。
「わたしの我は乗り越えられるべきものである。わたしの我はわたしから見て人間にたいする大いなる侮蔑である」そうかれの目は語っている。
 かれが自分自身を裁いたことは、かれの最高の瞬間であった。この崇高な人間を、もとの低劣さへ押し戻すな。
 このように自分自身の存在に苦しんでいる者には、すみやかな死以外には、救済はない。
 君たち、法官よ。君たちが犯罪者を殺すのは、同情からであるべきで、復讐からであるべきではない。(中略)
 赤色の法服を着けた法官よ。もし君が、すでに思念のなかで犯している一切を声高に告白したら、万人は叫ぶであろう。「この不潔物、この毒虫をかたづけよ」と。
 しかし、思念と行為は別ものである。それと行為の表象とはなおさら別ものである。それらのあいだに因果関係の車輪は回っていない。
 表象がこの青白い犯罪者を青白くしたのだ。かれが犯罪の行為をしたとき、かれはその行為と等身だった。しかしその行為を犯したのちに、かれはその行為の表象に堪えることができなかった。
 そのとき、かれは絶えず自分をその犯罪行為の行為者として見るようになった。わたしはこれを狂気と呼ぶ。かれはおのれの例外行為をおのれの本質と誤認するにいたったのだ。
 雌鶏(めんどり)のまわりに白墨で線を描けば、雌鶏は呪縛(じゅばく)されて動くことができない。それと同様に、犯罪者が行なった所業が、かれのあわれな理性を呪縛したのだ。――わたしはこれを行為ののちの狂気と呼ぶ。
 さらに聞け、法官たちよ。そのほかにも狂気がある。それは行為のまえの狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ。
 したがって赤色の法服を着けた法官はこう言う。「いったい何ゆえにこの犯罪者は殺人を行なったのか。かれは強奪を目的としたのだ」と。しかし、わたしは君たちに言う。かれの魂が血を欲したのだ。強奪を欲したのではない。かれは匕首(あいくち)の幸福に渇していたのだ。
 しかし、かれの哀れな理性はおのれのこの狂気を理解しなかった。そしてかれを説得しようとした。「血が問題なのではない」と言った。「この機会におまえは少なくとも強奪しようと思わないのか。復讐しようと思わないのか」
 そしてかれはかれのあわれな理性の声に従ったのだ。鉛のように重く、その理性のことばは、かれを圧(お)しつけて離れなかった。――それでかれは殺人をするとともに強奪した。かれはおのれの狂気を羞恥(しゅうち)とともに自認することを欲しなかったのだ。(中略)
 かれの貧しい肉体を見よ。それの悩み、それの欲求を、かれの貧しい魂は自己流に解釈したのだ――それをかれの魂は殺人の快楽と匕首(あいくち)の幸福として解釈したのだ。(中略)
 しかし、これらのことばは君たちの耳にははいるまい。君たちは言うだろう、それはわれわれの善(よ)い人々の害になると。しかし、君らの善い人々がわたしにとって何であろう。
 君らの善い人々のもつ多くの点が、わたしに嘔気(はきけ)をもよおさせるのだ。かれらの悪が嘔気をもよおさせるのではない。むしろわたしは思う――かれらが、あの青白い犯罪者のようにおのれの破滅のもととなりうるような狂気をもっていたならばよかろうにと。

「誰でもいいから人を殺したかった」というような不可解な理由で行われる、無差別の大量殺人事件がこの数年、後を絶たない。
(今年(2008)秋葉原で起こった事件もその一つだ。家族、学校、仕事、恋愛ー彼は自分の居場所をどこにも見つけることが出来ず、不条理な犯行に走ったように見える。)
「青白い犯罪者」というこの章でニーチェは、そうした事件の裏側にある真相を語っている。
(かなり難解)

1)一般に行為の「動機」をわれわれは知らない。特に犯罪のような例外的な行為について、その「動機」は必ずと言っていいほど誤解される。
2)この情報化された社会では、劇場型の犯罪が行われる。世間の耳目を集め自己の存在を主張する。その動機は表面的には社会へのルサンチマンである。
3)しかし自己の破滅を掛けて行われたほどの行為であれば、そこに何らかの真摯なものの表現を見るべきだろう。
4)その真相は、自己の生を自己の許に取り戻したいという、抑圧された生の爆発的表現である。(=血を欲したのだ)
5)犯罪の本質は愚かさである。犯罪者は自分が何を望んでいるかを知らず、間違った手段を選んでしまう。(=貧しい魂は自己流に解釈した)
6)行為の後に、自分の為した行為に呪縛されて、犯罪者はさらに自分を誤解してしまう。(=行為の後の狂気)
7)彼の最高の瞬間は、自分の過去及び現在の下らなさを自ら悟った瞬間である。その時に彼を死なしめよ。
(『ツァラトゥストラ』では、(溢れるほどの芸術的な才能のために単なる古典研究者にとどまることのできなかった)ニーチェの文学的才能が横溢している。
ツァラトゥストラの語る言葉の半ばは詩である。ニーチェは『ツァラトゥストラ』を<滅亡の美学>に基づく悲劇として描いた。
そのため人間の最高の瞬間は滅びであるという美学が色濃く出ている(というか、出過ぎている)。だからその点は割り引いて読む必要があるだろう。
ついでに言うと、「超人」と「人間」を対比させて(進化論風に)描いたことも、話を錯綜させる一因となっている。
ものすごく単純化すると、「超人」とは優れた人間のことであり、「人間」とはダメな人間のことである。
ダメな人間の到達する最高点は、自分のこれまでの生活が全然ダメだったと悟り、死んだほうがましだと思う瞬間である。
それを「人間」一般の運命として悲劇的に描いたのが、上(3b)に引用したツァラトゥストラの言葉だ、―ということである。)


付録2―『アンチ・キリスト』
適菜収訳『キリスト教は邪教です!』(講談社+α新書)より

「これから私がお話しすることは、もしかしたら少数の人たちにしか受け入れらないかもしれません。それに正直に言って、皆さんがこの本の内容を完全に理解されることは難しいのではないかと私は思っています。
私はこの本を熱い気持ちを持ち続けながら書き下ろしました。それを受け止めていただくためには、皆さんには、まず「精神的」なことがらに対して、きびしく、正直であってほしいのです。
私が皆さんに一番言いたいことは、人間は高貴に生きるべきであるということです。
それでは、「高貴に生きる」とはいったいどういうことなのか。
たとえば、現在の政治的状況に対して、うんざりしている人は多いのではないでしょうか。「政治なんてどうでもいいや」と思っている人は結構いるはずです。でも、私に言わせればそれは非常に正しいことなのです。
そんなものに正面からかかわっていてはいけません。上から見下ろしてバカにしていればいいのです。もっともらしい難しい顔をして、「真理は役に立つのだろうか」とか「真理は災いになるのではないか」などと考えていてはダメなのです。それは本当の問題ではありません。
考えることをためらってしまうような問題を愛すること。
「そんなことを考えてはいけないよ」と言われるようなことをしっかりと考えること。
そっちの方がよっぽど大切です。
一人ぼっちになって迷路の中を進んでいくこと。
新しい音楽を聞き分けることのできる耳を持つこと。
身の回りだけでなく遠くまで見渡すことのできる眼を持つこと。
そして、これまで隠されてきた本当の問題に対して、すなおな気持ちで向かい合うこと。
そういったことが一番大切だと私は思っています。
このようなすべての力のことを、私は「意志の力」と呼んでいます。皆さんには、この「意志の力」をいつも持っていてほしいのです。そして「意志の力」を持つ自分をうやまい、愛し、誇りに思ってほしい。
私はこのような人たちのために本書を書き上げました。そうでない人は、残念ながら私とは関係のない、単なる人類にすぎません。私は単なる人類と人とは違うものだと考えています。力によって魂の高さによって、人は単なる人類であることを超えなければならないのです。
そのためには皆さんは、くだらないものはくだらないと、はっきりと軽蔑するべきなのです。」

「はじめに自己紹介をいたします
私は言ってみれば、北極に住んでいるのです。つまり、世間に対して非常に大きな距離をとっている。本当の幸せは実はこちらの方にあるということに私は気づいてしまったからです。
われわれは「近代」という病気にかかっています。先行きが見えなくなって、皆、ただため息ばかりついている。
たとえば、今、いくら世の中が平和だといっても、それはやっぱり姑息(こそく)な平和だと言わざるを得ない。そのほとんどが、憶病な妥協の産物なのです。
やたらとものわかりがよくなって、なんでも許してしまうような風潮がありますよね。
それも、心が広いことの証(あかし)なのかもしれませんが、やはり、私たちはそういうぬるま湯的なものを拒絶して、生きていかなければならないと思うのです。
でも、世間のことなんかどうでもいいというスタンスをとっていると、次第に暗くなっていったり、「あいつは運命論者だ」などと陰でコソコソと悪口を言われたりする。まあ、そういうつらいこともありますが、あえてそうしているわけです。
なぜなら、私にはいくつかの基本的な考えがあるからです。そこをまず大まかにお話しておきましょう。
まず、最初に「善」とは何かということから考えたいと思います。
「善」とは私に言わせれば、権力の感情を、権力への意志を、権力自身を、人間において高めるすべてのものです。
それでは「悪」とは何かと言いますと、弱さから出てくるすべてのものです
では「幸福」とは何でしょう。それは、力がみなぎっていくこと、勝ち抜いたということ、頂点をきわめたということ、なのです。
弱い人間やできそこないの人たちは、落ちぶれていくべきだと私は考えています。こういうことを言うと、皆さんは驚かれるかもしれません。
しかし、本当に人間というもの愛するのなら、落ちこぼれたちがダメになっていくのを、むしろ背中から後押しするべきです。人間という存在が本当に素晴らしいものになっていくためには、それが必要なのです。それこそが、本当の人類愛というものです。だからダメな人間に同情することは、非常にいけないことなのですね。
キリスト教という宗教がありますが、あれはその典型です。」

以上は、『アンチ・キリスト(反キリスト)』の「はじめに」と、本文の冒頭個所です。この訳は、非常に特色のある「超訳」ですから、興味のある人は、他の翻訳と較べて読んでみて下さい。
ニーチェの翻訳は、個々の翻訳は別として、今のところ、白水社『ニーチェ全集』が、平均的に一番優れているように思います。


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