サイゴン布袋づくし
ベトナムで仕事をしていて何が大変かというと、とにかくベトナムでは何でも突然である、ということである。例えば調査の計画をしていても、直前になって予定変更したり延期になったりすることがしばしばある。7月半ばにサイゴン(ホーチミン市)で国際学会があり、報告者は3月末までにフルペーパーを提出することになっている。私も勿論提出した。ところが待てど暮らせど学会のプログラムが送られてこない。どうなってるんだ、と7月に入ってから事務局に電話すると、会場に行って登録すればその場でプログラムを渡すとのことであった。なめとんのか。それではサイゴンに行くまで自分が学会開催中の何日の何時に発表するのか、また発表の持ち時間がどのくらいか、全然わからんではないか。ちょうどその時
Power Point でプレゼン資料を作成していたのだが、発表時間が15分か30分かでは当然スライドの枚数が違う。それよりもなりよりも、初日の朝に登録しに行って、さぁ今すぐ発表しろと言われかねない。本当に大丈夫だろうか、と不安な心境のまま私はサイゴン行きの飛行機に乗り込んだ。
突然の参観の申し出に仏宝寺の僧は快諾してくれ、私のため鍵を持ってきて本堂を開けてくれた。
うぉ、何をイキナリ!!学会発表はどうなった!?って、そうそう、事ほど左様にベトナムでは何でも突然なのだ。
学会発表自体はつつがなく終了した。だが、どうも最近ハノイでの研究生活に澱みといおうか壁にぶち当たったといおうか、どうもこのままでは突破口を開けない状態に陥っていた。ここはすべての煩悩を捨て生まれたての赤子のような素直な気持ちで御仏の慈悲にすがるしかないと心に誓い、ハノイに戻るまでに空いた時間を使って四国八十八箇所巡りならぬサイゴン名刹巡りを敢行することにした。
さて仏宝寺のお堂の中には入滅する釈迦(仏陀)の像が陳列してあった。
入滅とはいうまでなく死ぬことである。だが死を前にした釈迦に苦悶や後悔の表情は全くない。さすがに悟りを開いたお方だけあって安らかなお顔をしていらっしゃる。安らか過ぎて入滅ではなくてただの昼寝に見えるのは私の信心が足りないからであろうか。それもあるが、やはり問題はおそらく後光がカラフルすぎて扇風機にしか見えないからではないか。どうもこのあたりの感覚が日本人とは違うようである。
まぁ何はともあれお釈迦様にも拝謁できたし、私の名刹巡りも徐々に本格化してきた。まだまだ煩悩の固まりのようなこの私であるが、いずれはこの釈迦像のように安らかに昼寝・・・じゃなかった死と向き合えるように精進したい。
さて、次に向かうは覚林寺である。門をくぐると七重の塔がそびえていた。
七重の塔のまず一階に入ると仏像が展示してある。まぁ仏寺なんだから当たり前の話である。だが、その中で一人だけ場違いな親父がいる。
何だ、こいつは・・・・。全然神々しくないぞ。腹丸出しだし。
心の片隅に一抹の不安が芽生えつつ、上階にすすむと、
あ、さらに増長していやがる!
嫌な予感がする。一歩一歩階段を上がるにつれて自分の鼓動の音が大きくなってきた。来るべき敵の襲来に備えながら、さらに階上に昇った。そこで手が無数にある化け物(千手観音ともいう)をなぎ倒し、さらにヌンチャックの使い手とか、体長2mを超す大男とか、そんなのいなかったけどなぎ倒し、ついに最上階に到着。私はハッと息を呑んだ。
m9(`Д´) うぬ〜!やはり貴様が影のボスか!!
あちょお〜〜!!
正義の鉄拳が炸裂し、こうして村人に平和な生活が戻った。
・・・だが、こころのなかに残るこのむなしさはなんだろうか・・・・・・・・
そう、奴もまさしく強敵(とも)だった!!
は〜い、ここでおともだち (*^ー^)人(*^-^*)人(^ー^*) を紹介しますね。布袋さんでぇ〜す。
念のために言っておくが、ここでいう布袋さんは七福神の布袋さんであって、保坂尚輝の女房を寝取った布袋さんではない。
あのおっさんが本当に布袋さんなのか、よくわからない。もしかすると全然違うかもしれない。でも他に呼びようがないので、とりあえずここは布袋さんで通す。
その後他の寺も回ってみて気付いたのであるが、ベトナムの寺には本当に布袋さんが多い。例えば上の写真の大覚寺では、お釈迦様より布袋さんの方がずっと偉そうだ。まるで大御所映画俳優(パンツに覚醒剤入り)とその付き人といった感じだ。
次に訪れたのは越南(ベトナム)国寺と、名前からしてベトナムを代表するお寺だ。はたして、どういう意味でベトナムを代表するのであろうか。百聞は一見に如かず、という。実際に行ってみると・・・・・
正面からイキナリ布袋さん!
この寺がなぜ越南国寺と呼ばれているかは、聡明な読者諸兄諸姉にはもう説明の必要はないだろう。こうして最後にベトナム一の名刹に参拝し、私の旅は終わった。短い間だったが瞑想にふけることができ、一歩涅槃に近づいたように思う。
こうして悟りに近づいた目で見ると、街の風景もこれまでの煩悩で曇った目で見ていたときとはまた違った様相を見せていた。
例えば上記の写真はサイゴンのとあるところの風景である。横断歩道を渡るとなぜか芝生、そのうえ目の前に木が植えてあって、どう見ても行き止まりとしかいいようのないポイントである。以前の私なら、「昔の横断歩道を消し忘れてそのままなんだろ、まったくベト人はどうしようもない」といったところだったが、今の私には、これはまっすぐ進んだからといって必ずしもゴールにたどり着けるとは限らない、という重要な人生訓を示しているように見える。