妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第九十八話:雪夜の下に危険な二人
 
 
 
 
 
「マリアもカンナもご苦労であったの。マリアよ、少しは気が晴れたかの?」
「は、はい…」
 この屋敷に来ると、いつも緊張する。とんでもない広さと豪華な造り、と言う事もあるのだが、実際にはそれはあまり関係ないような気もする。多分、その配置にあるのだろう。すなわち、中心点に碇フユノが座している、と言う配置が。
 人は城、人は石垣とは、別の意味でも真実だったのだ。
「あの、御前様…」
「何じゃ?」
「そ、その管理人の…」
「シンジがどうかしたか?」
「ど、どうって御前様のお孫さんとは私はまったく…」
「あえて告げなかったのだよ」
 フユノはこともなげに言った。
「あの時のマリアにそれを話せば、混乱こそすれ癒される事は無かった筈じゃ。どうじゃ、一年経っても心はそのままだったか?」
「そ、それは…」
 ぴん、とマリアの本能に響く物があった。
 それが告げたのだ−銃を向けたなどと、この屋敷では決して口にしてはならぬ、と。
 が、ジョーカーは別の所に潜んでいた。
「御前様、悪いけどあたいは納得できねえぜ」
 カンナが横から口を挟んだのである。
「たとえ御前様の孫だって、あたいは認めねえ。あいつを見たときのマリアの反応なんて、あたいは今までに見た事がねえんだ」
 この粗暴な口振りにも、フユノの表情は動かない。もとより女神館の小娘達は、手の掛かる孫娘だ位に思っているフユノなのだ。
 ただし、フユノだけだが。
 控えているメイド達は、いずれも厳しい表情に変わっているし、特にシンジをあいつ呼ばわりした件(くだり)になると、内に潜む殺気を精神力で抑えているのにフユノは気づいていた。
「お前達は下がっておいで。今日はもう、休んでいいよ」
 すっと手の上がったフユノの言葉は絶対であり、
「『失礼致します』」
 一礼して下がっていったが、精神状態が危険な物と化しているのは間違いあるまい。
 彼女たちが下がっていったのを確認してから、
「カンナよ、シンジを見たマリアはどうしたんだい?」
 何気なし、と言う口調に釣られたのか、
「いきなりあいつを撃ったんだ。さすがにあたいもびっくりしたけど、泣いてるマリアを見て何も言えなくなっちまった。御前様、なんでそんな奴を女神館に置いたんだよ」
「そうかい、銃でねえ」
 穏やかな言葉を聞いた途端、マリアは背を死神が撫でたのを知った。それも、研いだばかりの鎌でだ。
 迎えに来たぜ、そいつはそう囁いており、常人ならそれだけで頽れたかもしれない。
「メイド達を下げておいて正解だったよ。もし一人でも残していればマリア、お前は女神館には帰れなかった、いいや、五体満足で死ぬ事も出来なかっただろうからねえ」
「も、申しわけありません…」
 俯いてうなだれたマリアに、
「まあいいさ。偉そうな事を言っても、この儂もついこないだ、シンジに殺されかけたんだからね」
「『え!?』」
「レニの事が、シンジの耳に入っちまってね。俺の従妹を人形にした罪で死刑宣告さ。レニがいなかったら、儂はとっくに棺桶に入っているよ」
「あいつ…」
 ぎり、と歯がみしたカンナをフユノは聞き逃さなかった。
「カンナ、どうかしたのかい?」
「自分の祖母にまで手を上げるなんて、いいや殺そうとするなんて人間じゃねえ、それ以下だっ。あたいは…絶対あいつを許さねえっ」
 年を取ると丸くなる、と言う。
 カンナは、シンジとフユノの関係を正確に理解していなかったから、ある意味無理もないとは言えるが、レニの一件がなければ、口にした瞬間カンナの身体は壁に叩きつけられていたに違いない。
 事実、マリアの顔からは血の気が退いたのだ。この時点で、フユノがシンジをどう見ているか、そして屋敷の者達からどう扱われているのかも、マリアにはおおよそ掴めていたのである。
「許さねえ、か。カンナ、お前も相変わらず血の気が多いね。シンジはね、儂など及びもつかぬ力じゃ。それ故に儂もこの命を好きにさせた。この婆とて、碇シンジ以外の者に手など上げさせるつもりはないからの。とは言え、お前には言っても無駄じゃな、良かろう、好きにするがいいさ。お前の好きなように、シンジを試して見るといい。それとマリアよ」
「は、はい」
「向けた銃は、シンジから貰ったものか?」
「は、はい…も、申しわけありません御前様…」
「別に構わぬ」
「はっ?」
「他の者なら生かしてはおかぬ。いや、シンジが許してもこの儂が許さぬ。なれどお前だけは、シンジが手出しをさせぬであろうからの。して、撃たれたシンジはどうしたのじゃ」
「そ、それが、自分からガラスを割って窓の外に…」
「浮遊術があれば、その程度造作もない。それでマリア、お前はその後を追ったな」
「はい…」
「お前は凡人だからね、浮遊など出来るわけもない。それに飛び出したのなら五階の管理人室からの筈、お前などあっさりと成仏しているところだ。いいや、シンジに銃など向ける愚か者が、成仏など出来よう筈がないが。カンナよ、なぜマリアが健康でここにおるのじゃ」
「それは…あいつが受け止めたんだ…」
「やはりそうか。自らに銃を向けた者が助けられるなど、お前以外は誰一人としているまいよ。だから、儂はお前を殺せぬのじゃ」
 静かな言葉の何という鬼気、何という凄絶な殺気なのか。マリアも、そしてカンナもまたその場に凝固した程である。
 屋敷を後にした二人だが、マリアは自分がとんでもない青年と知り合いになっていた事にようやく気づいた。無論、シンジはその名前しか言わなかったし、その祖母に至っては何の情報も与えなかったのだから無理はない。ただマリアの心に引っかかっていたのはフユノが言った、シンジはお前に手出しをさせぬ、この言葉であった。
 フユノは大言壮語などせず、どんな言葉でも口にすれば必ず実現させる。そのフユノが殺すと言った以上、他の者が銃など向けていれば必ずその存在を抹殺しよう。
 だが、
「私は違うと…言われた…」
「ん、なんか言ったか?」
「いえ、何でもないわ」
 マリアは首を振り、
「カンナ、どうしてもシンジの事試す気なの」
「試すんじゃねえよ、追い出すんだ。完膚無きまでに叩きのめして、化けの皮をひん剥いてから追い出してやる。自分の父ちゃんや母ちゃん、それに爺ちゃんや婆ちゃんに手を出さないなんて当たり前だ。それを平気で破るなんて、人間の屑じゃねえか」
(そのシンジに私は救われた)
 マリアは呟いた。
 不意にある感情がわき上がり、それが怒りに近いと知ってマリアは驚いた。
(なぜ私は…?)
 無論、答えが出るはずもなかった。
 完膚無きまでに叩きのめす、聞こえはいいが大抵は粋がってるだけだ−それも身の程知らずに。
 独りよがりの正義を振りかざし、粋がる者とよく似ている−世間の相場すら知らず、知ったような口を利く者ともまた。
 マリアは勿論、そんな事など考えもしなかったが、既にカンナを止める気は無くなっていた。
 言っても聞かぬとあれば、自らの身で知るしかないと、至極当たり前の結論に行き着いたのである。
 
 
 
 
 
 庭で、五メートルほどの距離を隔てて二人は対峙した。
「で、俺の何処が気に入らないの?」
 おっぱい揉んだわけじゃあるまいし、と口にはしなかった。大体、マリアがどういう反応をしようと、シンジが脅迫してでもいなければ、カンナの出る幕ではない。
 二人とも、成人と認定される年の男と女なのだ。男女のそれは別にしても、カンナが出て来るというのはマリアに頼まれたか、或いはかなりの感情をマリアに持ってるかのどっちかだ。
 フユノの画策もあり、桐島カンナとマリアタチバナのデータを知らないシンジに取っては、そうなる。
「おめえはよ、会えて嬉しい相手に銃をぶっ放すのかよ。少なくともな、マリアはそうじゃね−」
 言いかけたところへ、
「祝砲ならあり得るな。ドーン、ドーンと」
「てめえ…」
「それともう一つ教えておいてあげる。桐島、自分が随分と失礼な事をしてると分かってる?」
「おめえに失礼だってか?何言ってや−」
「マリアにだ」
 静かな声に、一瞬カンナの殺気が緩む。
「マリアが話す事も筆談も出来ず、その上でお前に俺の尋問を依頼したのなら別だ。だがマリアは見ての通り五体満足、泣く事も笑う事も出来る状態だ。そのマリアに直接訊く事もせず、お前は俺に訊いた−事実を隠蔽する可能性のある俺に。マリアが淫乱で俺に迫り、しようがないから適当に相手をして捨てたと言えばお前は満足か。俺がマリアにストーカー行為を働き、一生消えぬ傷を付けたと言えばお前は信じるのか?お前とマリアの資料は手元に届いてないが、見ての通りただのでくの坊だったようだな。その頭脳で五精使いを相手にするなど自惚れもいいところだ。人間にすらなりきれていない類人猿には、到底似合わぬ姿だよ」
 既に雲は隠れ、設置された灯りだけが二人を照らすのみである。
 だが冷たく、そして甘ささえ帯びて囁かれた言葉がは、あっという間に残酷な刃と化してカンナに襲いかかった。
 神話にその名を確乎として残し、今なお凄まじい力を秘めながら、一人間の従魔と成り、妖艶な美女の姿を持つフェンリル。
 そして死人すら生き返らせる腕を持ちながら、シンジに寄せる想いを告げて憚らず、フェンリルと真っ向から競い合う唯一の存在であるシビウ。
 戸山町の吸血鬼一族を束ねる存在であり、トップクラスのモデルの美女ですら霞んでしまう程の美貌を持つ若き当主夜香。いずれも人間など足下にも及ばぬ存在でありながら、シンジとは親交が深く、その資質に多大な影響を与えてきた。
 単に長身で少しばかり顔と頭がいい、そんな青年が口にした言葉ならば、陳腐にも程があるだろう。いや、聞く者の耳を腐らせすらするかもしれない。
 だがシンジの囁くような言葉は、見る見るカンナの全身に憤怒の色をたぎらせ、その髪を逆立てるに十分であった。
「…っ!!」
 ぶうん、と風が唸り、地を蹴ってカンナが肉薄した。風を切る勢いで繰り出された後ろ回し蹴りはかつて、小熊とは言え手傷を負って凶暴になった熊を一撃で仕留めたものであり、それをいとも容易くかわしたシンジは、わずかに笑ったように見えた。
「それでいい。殺す気でなければ傷の一つも付けられないぞ、この俺には」
 怒りに身を任せ、触れるべからざる怒気を含んでカンナが突っかける。
 だが繰り出される正拳も、風を切って飛来する蹴りも、シンジに傷を負わせる事はおろか、かする事すら許されなかった−髪の一筋すら、その犠牲になる事はなかったのである。
 五分、十分…十五分が経ち、ついにカンナの息が上がってきた。実戦形式の試合時間を考えても、休む時間など皆無で来た事を考えれば、大したものと言える。
 だがシンジは。
「ん、もう終わりなの?」
 ひょひょひょいのひょい、と見事すぎる程の足裁きと体重移動で、その悉くをかわしたにもかかわらず、息の一つも上がっていない。
 あたかも、ポケットに手を突っ込んで歩いている通行人を見ているようなものだ。
「て、てめえだけはぜっ…く」
 絶句、と言おうとしたのではない。シンジの長身が滑るように動き、その拳が脇腹に吸い込まれたのだ。
 軽く当てた、だけにしか見えなかったが、次の瞬間カンナは前のめりにどっと倒れ込み、起きあがる気配すら見せなかった。
 自分より十センチ以上高い大女を見下ろしてから、
「出ておいでよ−マリア」
 視線を向けずに声を掛けた。
 わずかに音がして、拳銃を手にマリアが出てくると初めて顔を向け、
「なぜ、俺じゃなかったの?」
 と訊いた。
 無論、拳銃はなぜ自分を狙わなかったのか、と訊いたのである。
「別に…ただカンナを失いたくなかっただけよ。私が足首を打ち抜けば、銃創の痕が残ってもそれだけで済むわ。でもシンジを本気で怒らせたら…命と引き替えにすることにな−あっ」
 ぽかっ。
「俺は、マリアの前で怒った事なんてあったっけ?」
「…どうせそんなのは一度も無かったわよっ」
 ふんだ、とそっぽを向いたマリアに、
「その通りだ−そしてこれからも」
「…シンジ?」
「いくら俺が野蛮人とは言え、従魔に身をやつした神狼がこの身にいる事を忘れるほど脳天気じゃない。俺の暴発は、すなわちフェンリルの暴走を意味する。数十メートルの巨躯を持った神狼が制御するものを失えばこの帝都が、いや地上すら壊滅しかねない。ま、俺の力じゃその辺の木一本すら倒れないのが悔しいけどね」
 思わずマリアは笑った。自分の無力を嘆く台詞を吐くこの男が、どれだけの力量を持っているかを、マリアはその目で見ているのだ。
 自分の表情に気づき、慌てて引っ込めた。
 表情を作ってカンナへ近づこうとするのへ
「触らない方がいい。二、三本は折れてるから」
「!?」
 あんなに軽く当てただけに見えたのに、表情がそう言ってるマリアに、
「今迎え呼ぶから、ちょっと待っててね」
「迎え?」
「そ、迎え」
 携帯を手にして、
「けが人一人、サイレントモードでよろしく」
 訳の分からない台詞だが、ぴったり三分後に滑り込んできた救命車はサイレンを鳴らしておらず、エンジンの音さえ普段の車より静かに感じた。
 シンジに一礼し、文字通り仕事人のようにカンナを担架に乗せ、そのまま運び去っていく。この間、実に十秒とかかっていない。
「行っちゃった。ま、あれだけ暴れれば本望でしょ」
 額に手を翳して見送ってから、やっと気づいたようにマリアを見た。
「マリア、少し歩こうか」
「え?ちょ、ちょっとシンジっ」
 しかしシンジは振り返らず、すたすたと歩き出した。
「も、もう…」
 こんな男など放っておいて中に帰っても良かった筈だが、なぜか足はその後を追っていた−それも反射的に。
 門を出たところで追いつき、
「どうしたの?」
「見られるのは好きじゃないんだ−特に、おかしな言いがかりを付けられた後には」
「…」
 マリアの顔がすっと後ろを振り返りかけたから、
「止せ」
 シンジは短く止めた。
(いつの間に)
 自分たちが見られている事など、マリアは気づきもしなかったのである。
「いつから?」
「桐島が運ばれて行く辺りから。大方トイレにでも起きたんだろ。結界でも張っとくんだったな」
 それきり会話は途絶え、二人は黙って歩いた。
「シンジ…」
 先にマリアが口を開いた。
「何?」
「一年前私が戻ってきた時、御前様にすべてをご報告したわ。でもあの時、御前様はそうかいと言われただけで、あなたの事は何も言われなかったわ」
「あの妖怪の事だからな、根性もねじ曲がってるんだ」
「そんな…自分のお祖母様でしょ」
「レニが来なければ死んでいた、そう言わなかったか?」
「き、聞いていたのっ!?」
 ぴたりと言い当てられては、マリアが勘違いするのも無理はなかったろう。
「俺に盗聴の趣味はない。祖母の思考なら大抵分かるよ」
「あ…ごめん、そんなつもりじゃなかったのよ」
「うん」
 頷いただけのシンジに、なぜかマリアが気まずくなった時、
「あら…雪?」
 確かに見上げると、白く小さな粒がゆっくりと降り出していた。
「これは積もるな。明日は雪だるまでも作るかな、マリアの」
「な、何を馬鹿なことを−!」
 言った途端顔が赤くなってると知り、
「コ、コーヒーでも買ってくるわ。シンジは」
「いや、俺は」
「そう」
 十メートルほど先の自販機まで早足で歩き、ボタンを押して取り出す間にも雪は大粒に変化し始めていた。
 これなら、シンジの言うとおり積もるに違いない。
「…何してるの?」
 マリアが戻ってくると、シンジは何を思ったのか、手のひらに雪を受けている最中であった。
「きれいなものだ。不揃いの雪でも、よーく見ると揃った形をしてるんだ」
「知ってるわ」
「一粒一粒は微小でも、つもれば一国すらその下に埋めてしまう。だがその雪も、太陽には敵わない。春が来て太陽がその力を持てば、雪は消え、来年の勢力回復までじっと待つ」
「…シンジ?」
「雪が集まったって、スキーが出来る位で後はろくな事がない。人間みたいな物だ」
「……」
「人間が間抜けな頭を寄せ集め、その結果が真宮寺一馬の生け贄だ。俺は例え、この身と引き替えにしても、さくらを生け贄にはさせぬ。いいや、さくらを生け贄とする事はこの俺が許さない。娘一人をむざむざ殺して、帝都の繁栄などとは誰にも言わせん」
「それで…ここに?」
(やはり…変わってない)
 不意に、胸の中に何かが込み上げた。
 それが涙でないと知って、マリアはほっとした。
「最初は祖母の命令だ。名前書き忘れて、あの妖婆のせいで大学落とされたからな」
「落ちたのっ!?」
 思わず大きな声を出してから、マリアは慌てて口元をおさえた。
「落ちたの。でもそれで良かったかもしれない。受かっていれば、また授業などすっぽかして、海外を出歩いていたからな。どんな難関のテストでも、あの二人がいる限り俺にとっては児戯に等しい。もっとも、俺自身の出来とはまったく関係ないのが問題だけどね」
 シビウとフェンリルであろう。
 しかし、この二人が碇シンジ以外に進んで何かを教えるなど、一体誰が想像出来るだろうか。
 何か言おうとして、こつんとマリアの手がシンジの指に触れた。
 触れたそのことより、マリアはその冷たさに驚いた。
「冷えてるじゃない、これを−」
 シンジの手に押しつけようとしたが、
「体温変化など、さしたる事じゃない。それよりマリアこそ飲んでおいた方がいい、身体が冷えるよ」
「…」
 黙ってプルタブを開け、一口飲んだマリアだが、
「シンジ、本当に寒くないの?」
「少しだけ」
「だから言ったのに。もう一本買ってくるわ」
「それでいい」
「え?そ、そう」
 実際の所、無意識であった−シンジに手渡したのは。文字通り、ごく普通の動作で渡したマリアだったが、シンジがくっと飲んだ途端、自分の行為と事態に気づいた。
 三・二・一…着火。
 ぼんっとその顔が火を噴いた。
「…何をしている?」
「べ、別にっ、な、な、何でもないわっ」
「ならいいが−少し鬱陶しくなってきたな」
 降り続ける雪を見上げ、シンジは軽く手を上げた。それと同時に一陣の風が吹き、二人の身体を染める雪を吹き飛ばす。
 阻まれた雪を見ながら、
「口移し?」
 びゅん、と飛んできた手をひょいっとかわした。
「綺麗でもないが、別に唇に菌など付けてないよ」
「別にそんな事言ってるんじゃ…」
「じゃ、飲んでも大丈夫。はい」
「ーっ!」
 絶対顔が赤くなってるわ、缶を受け取ったマリアはそう気づいており、事実その顔から赤らみは殆ど消えていなかった。
(もう…知らないっ!)
 一気に缶を空けかけたが、シンジがじっと見てるのに気が付いた。
「な、何よ」
「実は、山岸の胸揉んだの」
 ぶーっ!
 吹き出して、それでも唇の端から一筋滴っただけで済んだのはさすがであり、
「ど、どういう事っ!」
 声が上擦っていたのは、幾分仕方あるまい。
「正確には、使い魔かホムンクルスだと思ってたんだ」
「え?」
「俺が祖母に言われてここに来たって言ったな」
「え、ええ」
「で、来てすぐ温泉を発見して、水質を見てた。そしたら全裸の娘が入ってきて、さくら服脱いでとか言って、俺の服を脱がそうとした。恥知らずな使い魔だと思って見たら妙にいい胸してる。で、むにゅっと揉んでみたら大声で叫ばれたとはい目出度し目出度し」
「ぜんっぜんおめでたくないわよ」
(マユミ…そこまで近眼だったとは…)
「ホムンクルスの乳が生乳だったのにも驚いたが、本当に驚いたのは別の事だ」
「別の…事?」
「マリアタチバナと言う娘が、ここまで変化しているとは思わなかった−俺に手を出せる程に」
「ご、ごめんなさい…」
「いや、咎めてるわけじゃないよ、マリア」
 事実、その口調のどこにもそんな単語は見あたらなかった。
「ただ、俺の決めつけも…あながち狂ってはいなかったかと、むしろほっとしたくらいだ。病院では、固まってたみたいだけど」
「シンジっ!!」
 手を振り上げた途端、その身体はぐらりとよろめき、シンジの腕に受け止められていた。
「あっ…」
「これ、アルコール入ってたかな」
「べ、別に…は、放して、放しなさいっ」
「−あ?」
 碇シンジ、危険モードへ移行。
「マリア、いつから俺に命令できるほど偉くなった」
「ち、ちがっ、あたしはそんなつもりじゃっ−」
「ふーん、あっそ」
 しかし言葉とは反対に、顔はゆっくりと近づいてくる。
「ちょ、ちょっとシンジ…だ、だめぇ…」
 甘えるような口調になっているのにも気づかない。
 そして…マリアの影があった場所に、ゆっくりともう一つの影が重なった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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