妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第九十九話:素直になりすぎるのも考え物?
 
 
 
 
 
「遥佳、頼むから落ち着いて。ね、お願いだから」
 部屋に戻るなり装備を−軍隊でも相手にするような重装備を、軽々と身につけた北条遥佳をミサトは必死に止めた。
 カンナの態度に、彼女が切れてしまったのだ。
「ゴミはゴミらしくしていればいいものを−身の程を教えてくれる」
 そう言って抜き出したサバイバルナイフは重さ二キロもあり、しかも薫子に目を掛けられて色々教えられている遥佳がこんな物を振り回した日には、文字通り一個師団が壊滅してしまう。
 歳は二十八、まだここに仕えて数年ではあるが、シンジがこの十歳以上も年上のメイドを可愛がってる原因は無論そこにある。遥佳に体術を教え込んだのは、他でもないシンジであり、薫子の教えと相まって、
「留守はお前に任せる。御前様をしっかりお守りするのよ」
 と、薫子が任せて行くだけの人材になっており、それはそれでいいのだが、お手つきでないとは言え、シンジが気に入ってるだけに頭ごなしに命じる訳にもいかず、ミサトも相当苦労していたのだ。
 実を言えば、ミサトとて決して心穏やかだったわけではなく、今夜は町に出て極道事務所の二つ三つも壊滅させてやろうかと思っていたところだが、その前にメイドさん達の危険すぎる気に、急遽なだめ役になってしまったのである。
 他の事なら従順でも、シンジの事になれば表情が変わる者が多く、ミサトの立場としてはやはり止め側に回らざるを得ない。
「シンちゃんがにっこり笑って許しはしないわよ。あんたがしたら余計なお世話だって怒られるんだから止めなさいっ」
 と、どうにか遥佳を押さえ込んだ途端、箸以外持った事がなさそうな位に細い遥佳の手から、唸りを立てて飛んだナイフが柱に深々と突き刺さった。
「今回だけは、ミサト様の言われる通りにしておきます。でも、二度目はありません。例え私が動かなくとも、薫子さんが八つ裂きにされる事でしょう」
「あー分かった、分かったから」
 何とか装備を解かせて部屋を出た後、
「あたしだって…袋だたきにしたいとこよ。でも婆様が行かせたって事は…やっぱりシンちゃんに任せるって事よね。何処の病院から入院通知が来るか、夏美と賭けでもしてみようかな」
 物騒な事を口にすると、携帯している小型のビンを取り出し、中のバーボンをぐいっと空けて、ぷはーっと息を吐き出した。
「お呼びですか?」
 ひょいと顔を出した夏美に、
「ううん、何でもないわ」
 とミサトは首を振った。さすがに、そんな事案を持ち出さないだけのものは持っており、その代わり、
「ご主人様がメイドをおさえるのに苦労するなんてウチくらいのもんよ」
「どうしても…シンジ様に一命を賭している者が多いですから。あの、でも他の事でしたら決してミサト様や御前様の意に反するようなことは…」
「分かってるわよ、そんな事は。ただ、あそこの住人には、それが分かってない娘が多いってことよ。まったくマリアもシンちゃんと何か有ったみたいだし…夏美、あんた今日はあたしに付き合いなさい、いいわね」
「ミサト様がそう言われるのでしたら」
 夏美は一礼した。彼女もまた自分を抑えてはいたものの、ミサトの心中を理解できぬような娘でもなかったのだ。
 
 
 
 
 
「そ、それどう言う事…」
 起き出してきた住人達を待っていたのは、十センチ以上も積もった雪と−それは自然現象だからいいのだが、桐島カンナの入院、それに足を痛めてマリアが寝込んでいると言う話であった。
 彼女たちの脳裏を真っ先に過ぎったのは、無論返り討ちであった。シンジに絡んで返り討ちにされたと思ったのであり、自分たちもそうだったから想像にも説得力がある。
 ただし当のシンジはと言うと、
「レイ、あまり夜の光景など見下ろすものではないよ」
 謎めいた言葉をレイに向けた。
「だってトイレに起きたんだもん、別に覗きしてたわけじゃ…分かった」
 シンジの表情に、素直に肯定した方がいいと判断したらしい。
「それで碇さん、二人ともやっぱり…」
「マリアは巻き込まれただけ。桐島は俺に絡んできたから、一発かましただけ」
「い、一発かましたって…ボコボコにしちゃったの?」
「アスカと一緒にしないでちょうだい。一撃って言ったでしょ」
「い、一撃で入院したんですの?あのカンナさんが?」
「うん…織姫何?」
「やっぱり碇さんは私のナイトさんですね、これからもずうっと守ってもらうのです」
 そう言えば、織姫はカンナやマリアと一面識しかなく、ましてシンジに絡んだ結果とあれば同情も心配もすまい。他の住人達と違って、織姫はシンジに絡んではいないのだから。
 ただし、純粋にそう言えるかというと幾分疑問は残るが。シンジを襲ったのは、一応織姫の身体を持った者だったのである。
 しかし、さすがに住人達も腕を絡めた織姫を引き離す余裕はなく、
「そ、それでカンナさんの容態はっ?」
「肋が二、三本いった位だ。むしろ問題は」
「『も、問題はっ?』」
「シビウ病院が、生かして帰すかと言う事にある。俺の手による傷だってばれたら、白布を掛けられた状態で俺達が呼ばれかねないから」
「そ、そんな…」
「ま、さすがにそこまではしないと思うけど、ちょっと痛い治療くらいはされる可能性大だね。多少は懲りてもらわないと」
「あ、あのシンジ…」
 おそるおそる口を挟んだアスカに、
「どしたの?」
 向けた視線はいつものものである。
「あ、あのあたし達の時ってさ…そ、そこまではしなかったっていうか、全然怪我もしなかったじゃない。何でカンナは?」
 何故カンナにはそこまで、と言う意味で訊いたのだが、シンジの答えはあっさりしていた。
「桐島の前でマリアのおっぱい揉んだわけじゃないし、まして桐島の身体に触ったんでもないからね」
「『…・?』」
 住人達が?マークを顔に貼り付ける中で、マユミだけは分かったような表情をしているのを見て、
「山岸、教えてあげて」
「マユミ意味分かったの?」
「…多分だけど。だからみんなの時は勘違いがあったとはいえ、一応碇さんがその…わ、私の胸を触ったでしょう。だからその、みんなの反応も仕方ない部分があった、そう言う事…ですよね?」
 胸を揉まれた時の事を思い出したのか、マユミの顔は幾分赤く見える。
「うん、そういうこ…いでで!?」
「碇さん…あの人のおっぱい揉んだですか?」
「え、えーとその…別に山岸と思って揉んだ訳じゃないよ」
「嘘ばっかり!あの人はどう見たって山岸マユミでーす。狐でも狸でもないでーす」
「いや、そっちだったんだ」
 真顔のシンジに、何かあると思ったのか今度はマユミを見た。ただし、その手はシンジをつねったままである。
「あのね、織姫さん、碇さんが初めてここに来られた時、温泉におられたの。そこへ私が入ったんだけど、私がその、さくらと勘違いして服を脱がそうとしたから…」
「それで、何で胸を揉むですか?」
 当然の問いだが、その視線は妙にきつくなっている。
「山岸が近眼なんて、と言うより山岸なんて知らなかったから」
「え?」
「だから、普通知らない人の服をいきなり脱がそうなんてしないから、誰かの出来損ないの式神かと思ったんだよ。でも見たら妙にいい胸してたから、大した使い手だと思って触ってみたの」
「…じゃ、じゃあ女の子と思わなかったですね?」
「勿論」
 完全に納得した表情ではなかったが、
「碇さんの知り合いは色んな人がいっぱいいるですから、許してあげます。でーも」
「でも?」
「触るなら、もっと柔らかい方がいいでーす、ほら」
 言うが早いか、持っていた手をむにゅっと自分の胸に押しつけた織姫。
「な、何やってるのよあんたはっ」
「朝っぱらから破廉恥な事をっ」
 たちまち手が伸びて引き離されたが、ふとシンジの表情に気が付いた。
「碇さん、どうされたんですの」
「シンジ?どうしたのよ」
「…織姫」
「なんですか?」
「ブラジャー…してる?」
「してないでーす。寝る前から出かける前までは外してるです。その方が大きくなるって聞きました」
「…と言うことは」「碇さんが今触ったのは」「な、生の胸…ですの?」
 こくん。
「『碇さんっ!!』」
「シンジっ、あんた何顔赤くしてるのよっ!!」
「朝から不潔ですわよっ」
 別に不潔でもないと思うが、
「ちょ、ちょっと待って別にこれはそのっ」
 打開策を見いだそうとしたところだったが、
「お、おにいちゃんのえっち、やっぱりおっぱいの大きい人がいいんだっ」
 アイリスの一言に、
「あ、それは大丈夫、そんなに大きくなか…はっ!?」
「い〜か〜り〜さ〜ん〜」
 シンジが揉んだんじゃなくて、勝手に押しつけたのだが、プライドの傷つけられた乙女にそんな理屈は通用しないわけであり。
「ウギャーッ!!」
 物好きにも、朝っぱらから天井に貼り付いたシンジが、べしゃっと落ちてくるのには十秒ほどかかった。
 
 
 
 
 
「さっさと食事行くぞ、小娘共」
 別に怒りもせず、首を回しながら告げたシンジに、全員が着替えて出てきたが、レイだけは、
「ちょっと先行っててくれる?ボク用事があるから」
 と館内に残り、その向かった先はマリアの部屋であった。
「誰」
 返ってきた声は、もうかつてのマリアの物であった。
「ボク、レイだけど」
「空いてるわ、入りなさい」
 そこにはもう、どっかから帰ってきた時の、弱々しさが同居、と言うよりそれが大半を占めていた事など少しも思い出せない。
 扉を開けると、奥の寝室でマリアがベッドの上に半身を起こしていた。
「怪我したって聞いたけど、足の具合は大丈夫?」
「ええ、折れたまではいってないから、シンジは一日安静にしてれば治ると言っていたわ」
「ふうん」
「何?」
「碇君に銃向ける位嫌ってたのに、そんなに信用してるんだ」
「あ、あれはその…つい…」
「ま、別にいいけどね。それとマリアちゃん、ここの中で碇君に恋愛感情持ってないのはボクとマユちゃんだけなんだ。レニなんか、碇君の許嫁だったってこの間発覚したんだから」
「い、許嫁っ!?」
 思わず身を乗り出しかけ、レイの表情に気づいたがもう遅かった。
「気になるんだ、そう言うの。しかもそれ、レニを毒牙に掛けたくないって言うそれじゃないよね」
 不意にレイの表情が厳しいものに変わった。いや、普段は緩んでるそれから表情が消えたと言った方が正しいが、普段との差が激しいからいっそう厳しく見えるのだ。
「マリアちゃんが、一年前どこかから帰ってきた時、すっごく女の子になってたのはボクも知ってるしみんなも知ってる。でもその時は勿論、碇シンジなんて名前は知らなかった。ボクだって、わずかに聞いた事がある位だったからね。でもあの時の原因って碇君に会った事だったんでしょ?」
 訊いた割にはマリアの反応は待たず、
「あの時何があって別れたのか、ボクは知らない。それに、会ったらまた好きになっちゃうのもしようがないと思う。でも、他のみんなだって最初は確かに反対もしたけど、頼りになる所とか優しい所とか知って惹かれていって、あんなに好きになってるんだ。さくらちゃんなんか、あやめさんとかえでさんが余計な事言ったせいで、最初の降魔戦の時、碇君が帝都を出そうになって完全にキレたんだから」
「−レイ、今なんて言ったの」
「碇君が、後は全部任せるって言って、帝都を出ていきそうになったんだよ。もっともレニの事で、御前様がもう少しで殺される所だったから、あやめさんたちが言うのも無理はなかったけどね」
「じゃあ…ここの皆が降魔を撃退したんじゃなかったの?」
「違うよ、ボク達は殆ど何も出来なかった。簡単に片づけたのは碇君とシビウ先生、それに碇君の従魔なんだから」
「……」
 人形娘からは、あやめとかえでの指揮の元、花組のメンバーが撃退したと聞かされている。
「とにかくマリアちゃんが碇君を好きなら好きでいい、付き合ったっていいと思うよ。でも、その気があるならちゃんとみんなにも言っておいて。そうでないと、みんなマリアちゃんの言う事信じて取り合いしてるんだから−本人にもまだ言えないけど。言わない事は優しさなんかじゃないし…そんなのみんなを傷つけるだけだよっ」
「レイ…」
 たたっと身を翻したその頬に、光る物があったような気がして、マリアはそれ以上の言葉が掛けられなかった。
 だがレイが出ていった後、
「シンジは…その能力は分かっているからそれは信頼できるわ。でもそれは恋愛感情とは別。なにより…私なんかが合うレベルじゃないのよシンジは…」
 どこか哀しげに呟いたマリアがすっと起きあがり、足に巻かれた包帯を取ると、中から現れたのは傷一つ無い肌であった。
 
 
「ごっめん、おまたせ〜」
 レイが一行に追いつくと、すでにアスカと織姫が雪合戦を始めており、すみれが無言で雪玉を作っているところであった。
「ど、どしたの?」
「アスカの馬鹿がさっきの事を蒸し返したんだ。シツコイから下半身生き埋めにしてやったんだけど、そしたらアスカが怒って雪玉を俺に投げたの。もちろんそんなへっぽこなモンに当たる俺じゃないからひょいっと避けたら織姫に見事命中して織姫と投げ合いになってすみれに当たって参戦決定、と。あ、さくらと山岸まで」
 ちょうど二人の目の前でさくらとマユミの顔に雪玉が当たり、ゆっくりと顔の上がった二人がぎゅっぎゅと雪玉を作り始める所であった。
「よーし、じゃボクも」
 と、べつに当たってもいないレイが参戦しようとしたところを、すっとシンジの手が捕まえた。
「ふきゅっ?」
「レイ、一つ言っておく」
「何?」
「無意識の人間から、聞き出すのはさほど難じゃない。アスカでもすみれでも、そしてマリアでもだ。そのことは忘れるな」
「ふんっだ、じゃあさっさと付き合えばいいじゃない。なによ、二人して本音隠しちゃってさ」
「そうかい」
 にっこりとシンジが笑った次の瞬間、勢いよく吹き上げた雪にレイは十メートル近くも天に近づき、決戦中の乙女達の手が揃って止まった。
 
 
 
 
 
「なぜ、シンジさんを?」
 怒りを押し殺している筈だが、つい表情が緩んでしまう。
 知り合って結構になる五精使いの青年だが、さん付けで呼ぶなど初めての事だ。
 そう、例え本人がその場にいなかったとしても。
 運ばれてきたカンナだが、その傷を見た人形娘は一目でシンジの手によるものだと断定した。
 ただし、それを言っては点滴の中に手足をゆっくりと麻痺させていく薬液が注入されかねないので、彼女は言わなかった。
 若き五精使いとこの病院の院長の間柄について、知らない職員などいないのである。
「シンジさんがあなたを冷たく出迎えたり、或いはあしらったりされたわけではないのでしょう?それなのに、何故シンジさんに絡んだりなどされたのですか」
「あたいは…あたいは…」
「嫉妬ですか?マリアさんの事で、あるいはシンジさんの御祖母様のことで」
 すぐに答えはなく、返って来るには一分ほど待たねばならなかった。
「…かも、知れねえ…」
「でもそれは、あなたには関係のない事でしょう?それとも、マリアさんが問い詰めてくれと言われたのですか?」
「ち、違うっ、マリアは…マリアには関係ねえ」
 弱々しく首を振る格闘娘を、冷たい双眸が見つめた。彼女はまだ、他の住人達が茹でられたりくすぐられたりした事は知らない。
 そして無論、それが胸に関係ある事などは。
 だからシンジの基準を知らない人形娘に取って、これがどの程度に位置するのかは分からない。
 が、とりあえず死骸で返せ、と言う事はなさそうだと踏んだ。
「あなたに手傷を負わせた名前を告げれば、間違いなくここから死骸で出る事になります。いえ、出ることすら許されません。ですが、それがたとえわずかな可能性であっても、碇さまからおしかりを受ける可能性を秘めている以上、今回は治してお帰りになっていただきます。しばらく、ここで人生のバイオリズムでも考えていらして下さい」
 身を翻した人形娘を、カンナの細い声が呼び止めた。
「あの、よ…」
「なんでしょう」
「御前様がよ…自分の命はシンジにだけ好きにさせるとか言われたとき、あたいはカーッとなっちまった。それは…間違っていたのかなあ」
「間違いである、と断定はしません。無論、その反対もまた同様です。ですが、お姉さまが碇さまの手に掛かられた時、それを非とする者が一人でもいた場合、私は決してその方を許さないでしょう」
 墓碑はシンジに任せるわ、そう言っているシビウの言葉を、彼女は無論知っている。
 人形娘が出ていった後、カンナは両手で顔を覆った。
 
 
 
 
 
「入るよ、入ったよ」
 いつもの台詞と共に、シンジはマリアの部屋の扉を開けた。ここの住人は皆、ベッドが一つ奧の寝室に置かれているから、起きて着替えてでもいない限り物が飛んでくる事はない。
 と言うより、シンジがそうやって入るのはアイリスかレニの部屋くらいのものだ。
「マリアは寝てるかな?」
 住人達を学校へ送りだし、シンジは買ってきたパンの袋を手に奧まで入った。一応女の部屋、というのは分かるが、質素が基本をなしているような部屋であり、文字通り最低限の生活の為の部屋になっている。
 ベッドに横たわっているマリアを発見したシンジは、
「マリア、パン買ってきたから食べよ」
 声を掛けたが、わずかな寝息を立てるその顔に、覚醒の色は見られなかった。
 ところが。
「起きないと胸揉むよ」
 至極小さな声でシンジが破廉恥な事を囁いた途端、その身体はがばと跳ね起きたのである。
「や、止めてシンジっ…あら?」
「おはよ」
「…い、今私の身体に触った?」
「ううん」
「そ、そう」
「俺って、マリアの夢の中でもそんな感じで出てくるの?」
「え、こ、これは違うの…まだ…時差のずれが残っているみたいで。ごめんなさい」
「いや、気にする事はない。正常だからね」
「正常?」
「胸揉むよって囁いたの−OUCH!」
 飛んできた手を避けた途端、自分の腕まで回してしまい、手に持っていた袋が後頭部を襲撃し、その際開いてない缶の一撃でダメージを受けたのだ。
 自業自得である。
「シ、シンジ大丈夫?」
「うん、なんとか。それよりマリアこれ、買ってきたよ」
「パン?」
 訊かずとも、袋からはいい匂いが漂ってくる。
 袋を開けたマリアが、
「パンが五つにコーヒー…私そんなの大食じゃないわ、忘れたの?」
「合わせた方がいい」
「合わせる?」
「みんな、それくらいは平気で食べるから」
「嘘」
「いやマジ。太らせて食べるってのは、こういうやり方を言うんだな」
「あなたが言うと冗談に聞こえないわよ」
「なんか言ったか?」
 それにはあえてマリアは返さなかった。
 迂闊に返すと、押し倒されそうな気がしたのだ。
「そう言えばレイも、体つきが変わってきたわ。シンジの影響?」
「乳と尻が膨らんできたようだ−ついでにお喋りの虫もな。これ以上虫の増殖を許すなら、除去してもらわないとならないね」
「シンジ、御前様はシンジが全員を殺したとしても何も言われないと思うの−無論この私も。でもレイは、決して悪い子ではないわ…」
「全員の履歴は、既に目を通してある」
「…そうだったわね」
 室内に刹那沈黙が訪れ、ふとシンジがマリアの足下を見た。布団の中に埋もれている足だが、
「包帯外したの?」
「ええ…え!?」
 包帯はベッドの脇に丸めて置いてある。シンジからは見えない位置の筈だ。
 だがふくらみのほんの少しのずれも、シンジには隠せなかったらしい。
「シン−」「マリア」
 無論意識したわけではないが、二人の互いを呼ぶ声が重なった。それだけなら大して珍しくもないだろうが、他の住人には決して見せぬ顔−マリアの頬が染まったのに一瞬遅れてから、シンジの顔がほんの少しながら赤くなったのだ。
 しかしそれも一瞬の事で、
「俺はちょっと結婚式に行って来る」
「け、結婚式?」
「俺がするわけじゃないよ?」
「え、ええ、それは分かってるけど」
「どうしてもと、見合い代わりに呼ばれた式だから、ちょっと顔出してくる」
 見合いの意味を聞かなかったのは、マリアだからである。シンジのプライバシーの中で、土足厳禁の変わり目は分かっているのだ。そうでなければこのシンジが、既知とは言えこんな接し方はすまい。
「もう起きてもいい?」
「いいよ。起きたらシビウ病院へ。二メートルが入院してるが、もしかしたら死体になってるかもしれない。死体になってたら灰だけもらってきて」
「し、死体ってシンジっ?」
 どう見ても、死体置き場へ直行するようなダメージではなかった筈だ。それとも、倒れたカンナに、自分の知らない所で更なる一撃が加えられたのだろうか。
「あの病院はそう言うところだよ。特に院長が危険だ」
 シンジの手に依る場合、シンジから一報が無ければ治療は為されない。いや、それ以前に回される事すら拒否されるのだ。桐島カンナの一件は、特例である。
「じゃ、行ってくるね」
 シンジが部屋を出ていった後、ゆっくりとマリアはパンの入った袋に手を伸ばし、
「まだ…温かい?」
 わずかに首を傾げた。
 
 
 
 
 
「お前、あの日でついで卵管日か?」
「申しわけありません。で、ですがあの…ら、卵管ではなく排卵日と普通は−」
「踵!」
 言いかけた途端踵の一撃が直撃し、避ける事も出来ず遥佳は肩をおさえた。
 シンジが言った式とは無論林原悠里の結婚式であり、黒木を呼び出そうとしたらいないと来た。仕方なしにシンジが呼んだのは、遥佳であった。
 しかし呼ばれたのはいいが、シンジの目に殺気が誤魔化せる筈もなく、ミサトに止められた事まで、一部始終白状する羽目になったのだ。
「お前と薫子、まとめて今度一リットルくらい血を抜いといてやる。これで多い日も夜もまとめて安心だ」
「わ、若様薫子さんには関係ない事で…」
「うるさい却下だ」
「は、はい」
「そんな事はいいから、代わりにこれ持ってって記帳してこい」
 ずっしりと重い紙包みを渡され、
「若様、これはまずいと思いますが」
「なんで?」
「中身は全部お金でしょう。上に文字は書いておきませんと」
「しようがない、じゃ、これでいいや」
 妙な達筆でさらさらと書かれたそこには、
「ご成婚記念」
 と書いてあり、危険な気もしたがこれ以上言うと怒られそうなので、そのまま受付まで持っていくとやっぱり怪訝な顔をされた。
 大体、ただの知り合いに一千万も包んで置いてくる方が珍しく、ほらやっぱりと言おうとしたが、もうシンジの姿はそこには無かった。
「若様?若様?」
「さて、下着姿の花嫁でも見物に行って来るかな」
 天をも恐れぬ台詞を吐いた途端、その腕がぐっと引っ張られ、そのままずるずると引っ張って行かれた。遥佳が戻ってきたのは、既にシンジが拉致された後だったのだ。
 四人がかりで拉致されたシンジは、とある一室に押し込まれた。
 シンジが抵抗しなかったのは、全員が女だったのと、メイク係みたいな格好をしていたからだ。
 そしてやはり、そこに待っていたのは悠里であった。
「碇さん、やはり来て下さったのですね」
「ずっとカメラで見てたくせに」
「やっぱりばれてました?」
 小さく舌を出した悠里に、
「うん、見えてた。それはそうと、何でランジェリーなの?」
 不意に悠里が真顔になった。
「私は…現実主義ですから…」
「うん」
「それに自分のレベルも分かってますし、雲上の人を追ったりはしません。でも…でも一度くらい、不相応な事考えたっていいですよね」
「いいんじゃない」
 至極あっさりと頷いたシンジだが、意味を分かっているのかどうか。
「だから…い、一度でいいですから…私に思い出下さい」
「うん…え、俺?」
「はい…」
 当然の事ではあるが、肩が空いてるウェディングドレスに、肩紐などついたブラは着けられないし、下はと見るとフリルの付いたショーツにガーターベルトだ。一礼の角度が過ぎると、文字通り谷間まで見えてしまったりするのは良くある事で、おまけにパッドまで見えてしまったシンジが、
「あれって偽物?」
 とミサトに聞いたら、
「貧乳のくせに巨乳の真似するからよ。やっぱり胸はこうじゃないとね」
 ぼん、と胸を叩いたが、大抵は調整用に入れるものだと知ったのは、それからしばらく後の事だ。
「碇さん…」
 か細い声に、シンジの意識は回想から引き戻された。
 無論、応じる義務などはなかったが、きゅっと手を握りしめている悠里に、シンジは無碍に却下する気にはなれなかった。ここまでした以上、覚悟はしていよう。シンジがもし一言告げれば、この縁談自体が壊れるし、それが何を意味するか位は、本人も分かっている筈だ。
「わかった」
 一言告げて近づいたシンジが、その頬に顔を寄せる。
 きゅ、と目を閉じて待つ悠里の頬で、小さな音がした。
「……」
「…あ、あの…これだけですか?」
「…え?」
 嫁入り前の花嫁から、まさかそんな台詞を聞くとは思わず、一瞬シンジが呆気にとられたような表情を見せたが、すぐにその口元に危険な笑みが浮かんだ。
 すうっと、まったく動作を感じさせぬ動きで悠里を抱き寄せ、そのまま口づけする。
 舌を滑り込ませると、わずかに硬さを残しながらも受け入れ、絡め取って嬲るとそれはそのまま素直に、くぐもった声へと変わった。
 呼吸する余裕だけは残したまま、シンジの指はブラに収まりきらぬ乳房を狙った。外見ではここまで分からないから、着やせするタイプらしい。
 乳肉を五本指が覆った次の瞬間、シンジは離れていた。
 その手は口元をおさえている。
「ご、ごめんなさい碇さん、す、すぐ医者をっ」
 慌てて電話機に伸ばした手を、シンジはそっとおさえた。
 シンジの手が乳房に触れた途端、あまりの快感に声を抑えようともせずに喘いだ悠里だったが、問題は発声を司る舌がまたシンジになぶられていた事であり、シンジの舌が悠里の咥内に残っていた事であった。
 つう、と一条の鮮血がシンジの唇から滴り落ちた。
「キスをして、噛まれたのはこれが初めてだ−そして最後になる」
 ゆっくりとそれを拭うと、もう血は流れなかった。無論、自己治癒で治したのだ。
「胸の感度は悪くなさそうだ。だがここは、もう少し感度を上げることにしよう」
 奇妙な台詞と共に再度悠里の胸に手を伸ばす。
 包み込むような動きが乳房に触れた瞬間、そこはさっき以上の快感に覆われ、悠里は激しく喘いだ。
 念のため、防音にしておいて正解だったと彼女は思った。もし普通仕様なら、間違いなく聞かれただろう。
 左手に右手が加わった時に喘ぎ、乳房が大きな掌に包まれた感覚に打ち震え、凄まじい快楽をもたらす指が、それも十本の指全部が乳房に食い込んだ時には、悠里は泣き叫んでいた−最初で最後の絶大な快感に、そして自分のはしたない願いが予想以上に叶ったことに。
 指に弾かれ硬くしこった乳首は震え、弾む乳首のみならず、乳房全体までもが真っ赤に充血し、危険な快楽を一層高めていく。
 シンジの唇がそこに近づいて来るのを見ただけで、悠里の身体は小刻みに震え、そして唇からふうっと吐息を吹きかけられた瞬間、悠里は奇妙な声を上げて全身をがくがくと突っ張らせた。
 乳への愛撫だけで、軽くいってしまったらしい。
 荒い息を吐いてシンジに寄りかかりながら、虚ろな目で見上げてくる悠里の頬を、シンジは軽く弾いた。
「処女には少し強すぎたか。悠里、これでいい?」
「は、はいれすぅ…」
 普段の聡明な彼女からは想像すらつかぬ舌足らずな声に、
「放っておいたら、式の間中イきっぱなしだな。とはいえ、成田にすら行かぬ内に離婚されては困る。とりあえず治しておくか」
 乳房だけでいくのは、そう滅多にあるものではない。少なくとも、普通の男相手だったら悠里とて快感の疼きで済んだだろうが、何せ相手はシンジである。
 ある意味恥ずべき流行語−成田離婚などされては、張本人の面目が立ちすぎる。頬をもう一度軽く撫でると、その顔から欲情の色がすうっと消えていった。
「悠里、これでいい?」
「あっ、い、い、碇さん…あっ、ありがとうございますっ」
 素っ頓狂な調子で礼を言って、ぺこっと頭を下げた拍子にブラから乳肉が全部こぼれてしまった。
 ぷるるっと揺れるそれを慌てて手で覆った悠里に、
「悠里、幸せにね」
 軽く頭を撫で、シンジはそのまま出ていった。
「…シンジさん…」
 最初で最後となるであろう呼称を口にした時、その双眸から一筋の涙が流れ落ちた。
 これでいい、これで良かったのだ。
 自分にとっては決して届かぬ花であり、また望んではならぬ存在なのだから。
「お嬢様…」
 乳だけの快感なのに、器具を使ったセックスよりも感じているように見え、疼く身体をおさえきれずに、お互いまさぐり合っていた彼女たちだが、悠里の様子に声を掛ける事も出来ず、その場に立ちつくした。
 要するに覗きだが、シンジの事を良く知らない彼女たちにとって、その願いを叶える事に自分たちの監視はどうしても必須条件だったのだ。
 
 
「若様、随分と落ち着いた花嫁さんでしたね。あの子、若様とそんなに変わらないんでしょう?」
「変わらないよ」
「きっと、落ち着いたいい奥さんになるんじゃないかしら。しっかりしてるみたいでしたし」
「ふうん。で、お前はなんでそんなにご機嫌なの?」
 捕まえた時は勝手にうろちょろして、とお説教を始めた遥佳だが、式の帰路、妙にご機嫌なのに気が付いた。
「んふふ〜」
「ん?」
「ほらっ」
 妙に嬉しそうに見せたそれは、花嫁が投げるブーケであった。この付き添いのメイドは、しっかりゲットしていたらしい。
 この娘を止めるのに、ミサトが必死になったなどと誰も信じまい。
「ブーケ?それで、相手の願望は?」
「そう言えば…別に決まってないです」
 一応意中の相手がいておまけにしたくてたまらない娘もいるというのに、そう言おうかと思ったが、なんとなくおっさん臭い気がして止めた。
「あ、でもいいんです、ミサト様に結婚の手配されたんでしょう」
「ああ、あれね。とりあえず薫子がとっ捕まえに行ってる」
「じゃ、ミサト様に差し上げます。きっと、花嫁花婿が揃ってもなかなか進展しないような気もしますから」
「それは名案だ」
 シンジは頷いた。
 落ち着いた花嫁、と遥佳は言ったものの、一度も客席を見ようとしなかったのが少し気にはなったが、
(悠里、幸せにね)
 ドライフラワーをあちこち点検している遥佳を見ながら、シンジは声に出さずもう一度呟いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT