妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第九十七話:とりあえずFA中止
 
 
 
 
 
「どう?」
「…はい?」
 聞き返してから顔を見合わせるまでに、数秒掛かった。
「藤宮の事だよ」
「あ、ああ藤宮さんですね。大丈夫、それなりに上手くやってますから」
「そっか。それならいいんだけど、なにせ性格とかよく掴んでないうちにここに預けちゃったから。ごめんね」
「い、いえっ、そんな事は無いです」
 こういう場合は、先に反応した者の勝ちであり、顔を赤くして首を振ったかすみを見て、
「あの、私達がちゃんと見てますからっ」
「そうですっ、だからあの、碇さんは全然心配されなくて大丈夫ですからっ」
 ちょっと変わった日本語だが、シンジはうんと頷いて、
「君らに任せといて正解だったわ。慣れない性格もあるだろうけど、お願いね」
 ちらりと向けた流し目もどきに、純粋な三人は中ってしまい、顔を赤くしてこくこくと頷いた。
 こんな時に出る仕草だが、シンジの場合には天然の物ではない。かといって、無論自ら修行とやらをして身につけたものでもない。
 俗に言えばいい女、その結晶みたいな連中と付き合ってるうちに、自然に身に付いてしまったのだ。
 朱に交われば赤くなる、その言葉に嘘偽りはなかったらしい。
 玉石混淆と言う単語もあるが、人の場合には玉が石になってしまう事だってあるし、石からいつの間にか玉にまで進化する事もある。
 これでもし、シンジがごく普通の人間として生まれ、何の能力も持っていなかったとしたら、身長と容姿はそのままだろうが−そこまでだ。
 もし仮に、女神館の管理人になどなった日には、居並ぶ少女達にごく普通の興味を示し、猛烈な反感を喰らっていたに違いない。いや、それよりも住人達が決して認めはするまい。
 碇シンジの根幹を成しているのは、その財力ではないのだ。家がとてつもない大富豪だろうと、シンジにとってはまったく関係ない話であり、故にそれは姉と祖母の物だと公言して憚らない。
 欲しい物があれば自分で手に入れる、それがシンジのモットーであり、対象が何であろうと変わらない。
 そう、それが女であってもまた。
 そして、今の時代は降魔大戦の影響により、人外の者がその存在をたやすく認められる時となっている。その意味ではまさに、シンジにとって適した時と言えるだろう。
「ところで、藤宮は作業の時以外は何してるの?」
 ふと気になってシンジは訊いてみたが、返ってきた答えはわかりません、であった。
「おやつの時とか、声を掛けると一応来てくれるんですけど反応は、そう、とか知らないわ、とか良かったわね、とかだから続かないんです」
「ふうん…って君ら、それでいいの?」
「それは個性ですし、別に悪い事じゃありませんから、私達もそれでいいかなって。ただよく分からないんですけど−」
 言っていいのかな、と言う風に椿がかすみを見たが、
「どうした?」
 シンジの声に誘われたかのように口を開いた。
「あたし達と藤宮さんが四人でお茶を飲んでいて、あたし達だけがお喋りしていてもその、違和感が無いんです。普通だったら、一人だけ蚊帳の外みたいでそこの雰囲気が暗くなったりするんですけど」
 確かにその通りだ。女三人寄れば何とかと言うが、そこに一人が加わり、しかもその一人が殆ど会話に加わらなければ、自ずと場の雰囲気は妙なものになる。
 だが、紅葉の場合にはそれがないと言うのだ。
 シンジにも、理解不能な話ではなかった。人の輪に加わっていた場合、別段会話に加わらない事はシンジもある。たいていは黙って人間ウォッチングをしているが、這い寄ってくる視線から身を守っているかのどちらかなのだが。
「そう、良かったわね−か」
 シンジは呟いてから、
「引っ越しは君らも手伝ったんだよね」
「ええ、色々整理とかもありますから」
「その時荷物の中に、羊皮紙の巻物とか無かった?」
「よ、羊皮紙の巻物?」
「そう。それとか、表紙の中央に黒山羊の紋章が彫り込まれた本とか」
「碇さん、それ何なんですか?」
「黒魔術の本」
「『く、黒魔術〜?』」
「いや、藤宮だったらそう言うのやってそうかなって…どうしたの?」
 乗りを期待したわけではないが、こんな反応は想定してなかった。
 あははは、と揃って引きつったような笑みを見せるとは。
「ん?」
 不意に風が囁いた−お前は見られている、と。
 ぎしぎしと、油の切れた歯車の噛み合わせみたいな音を立てて、シンジの首が後ろを向いた。
「ふ、藤宮いつからそこにっ」
「今来たばかり。それより面白そうなお話ね、碇さん。黒と白がどうかしましたか」
「う、ううん、なんでもないの」
「なんでもない?そう、良かったわね。じゃあ、今度碇シンジの名前が書かれた紙の紙片を、住人達の部屋にばらまいてあげるから。とても人気が上がると思うわ。じゃ、ごゆっくり」
 すたすたと紅葉が去っていった後、室内に妙な沈黙が訪れた。
「い、碇さん」
「ん?」
「藤宮さんが言ってた紙って、何ですか?」
「黒魔術の一種。例えば好きな男がいて、でもそいつが他の女と付き合ってるから仲を引き裂きたい場合、さっきみたいな事するんだ。無論、適当な紙に名前書いてはいできあがりじゃないし、他にも色々あるんだけどね」
「『な、なんでそんな事知ってるんですか…』」
「え、えーとほら、一般教養として」
 とある知り合いから、白黒問わず、すでに基礎は一通り聞き及んでいる事は口にしない。と言うより出来ない。
「でも藤宮さんってやっぱり…」
「黒を少しはかじってたようだな。でも、そんなに大したものは使えなさそうだし、所詮は−いったー!!」
 何故か次の瞬間、シンジは背中に激痛を感じて思わず背を逸らした。手にしようとしていたカップへ、まだ手が伸びていなかったのは幸いだったろう。
「な、何だ今のは…」
 シビウから強引に受けさせられる定期健康診断で、身体に異常がないのは分かっている。
 一体何事かと首を捻ったそこへ、ぽすっと何かが飛んできた。
「言い忘れていたわ。邪悪な私は藁人形に興味があるの。でも今まで実験台がいなかったから、一度だけ実験台になってもらったわ。碇さんありがとう」
 一方的に告げてさっさと踵を返した紅葉を見て、三人娘は決して怒らせまいと頷き合い、実験台にされた五精使いは、
「復讐するは我にあり」
 仕返しの計画を練り始めていたが、ふと由里が藁人形を手に取り、
「これ…よく似てますねえ」
 
 
 
 
 
「シンジ、あなた私に恨みでもあるの」
「浦見?人のなま−いででで」
「怨恨の話をしているのよ」
 ぐりぐりとダーツを両頬に押しつけるマリアに、
「恨みなど無い。私怨・私情を一切含まない冷静な判断だ」
「どこがよ」
「痛いから放してってば」
 手首をひょいと持って引き離すと、両頬にダーツの跡が残った。シンジの扱われ方を知っている住人達は、それだけで顔色が変わったが、本人は別に気にした様子もなく、
「辞職、というのは俺の事情だ。別にマリアが出てけとか言ったわけじゃない」
「当たり前でしょう、あなたがどうしようと、私にはなんっっにも関係ないわ」
「うんその通り。と言っても、そのまま放り出しちゃうとちょっと困るから、後始末はしておかなきゃならない。差し当たっては、やってた事を大体出来る位の人間を選ばなきゃいけない。と言うわけで、シンジ・ザ・スーパーに諮った結果、マリアタチバナの名前が出てきた。以上だ」
「碇さん、そのシンジ・ザ・スーパーってなんですか?」
「スーパーシンジ−じゃなくて俺のMC」
 よく分からないが、はあと頷いてから、
「もう一つ訊きますけど」
「うん?」
「いつまで手を握ってるんですか」
 さくらの声にトゲがちくちくと生え、
「あら?」
 シンジが今気づいたように手を放した。意識外だったらしいが、住人達を煽動するには十分であり、
「シンジ…分かったわ」
「何がだ?」
「あんたがそこまで言うならもう止めない」
「ア、アスカっ」
「しようがないでしょ、あんたの時だって、人の進路は自分のモンだとかシンジは言ってたんだから。止めたって聞かないじゃないのよ」
「分かってもらえて光栄だ」
 その台詞は無視して、
「その代わり、二つだけ教えて」
「ん?」
「あたし達はその場にいなかったからカンナに聞いただけだけど、マリアがあんたに会っていきなり銃を撃ったじゃない」
「交番にポスターが貼ってある指名手配中の犯人と間違えたんだろ。最近はロン毛の指名手配犯も多いからな。それで?」
「…それであんたがいきなり出ていくって言えば、どう考えてもマリアが追い出したとしか思えないじゃない。シンジ、どうして出ていくって言い出したの」
(良かった)
 マリアが幾分無責任気味にほっとしたのは、これを自分に訊かれたらどうしようかと思っていたのだ。
 シンジが訊かれる分には、自分には関係ない。
「ま、俺が悪いんだけどね。二機の事を秘密にされた時、桐島はともかく、マリアの事だと直感で知るべきだった。そんな簡単な事も分からぬほど、鈍っていたから修行のやり直しが一つと、妖怪婆さんの口止めごときで、俺に隠し事されてた事へのショックから。これで理由は十分だ」
「『……』」
 確かにそう言われてしまうと、織姫はともかく、他の娘達は返しようがない。事情はどうあれ、フユノの箝口令を優先したのは事実なのだ−それも、ミサトの言葉だと言う事にしてまで。
 とは言っても、それはやはり、二人の事を知ればシンジは出ていくと言われ、そんな事は断固阻止だと衆議一決した結果だし、シンジに出ていってなどもらいたくないからに他ならない。
「碇さん」
 静かな声でマユミが呼んだ。
「どしたの?」
「今だから言いますが、確かに私達に残った機体の事を話すなと言われたのは御前様です。でも、御前様はこう言われたんです−シンジの辞任を求めるのでなければ、機体の操縦者二人の事は決して話してはならない、と。私達は事情を知らない、でも御前様は知っておられて、その上でのお言葉にさくら達が逆らうと本気で思ってるんですか」
「ガンの末期患者に似ているな」
「…は?」
「親が友人に、うちの子供はもう末期ガンです。知ったら自殺しかねないからだまっていて下さいと言われ、子供の事は親が一番知ってるからと黙っていて、子供が友人達に裏切られたとぐれた日には、どの面下げて連れ戻しに行く気だ?おまけに、見つけたら親に心配かけてとひっぱたくタイプだ」
「碇さんもぐれたんですか?」
「ぐれてる」
 偉そうにシンジは頷いた。
「何度も言ってるけど、俺は白馬の王子様じゃないし聖人君子でもな−ぐえ」
「ちょっと来なさい」
 この中で身長が180を越えているのはシンジとマリア、それにカンナしかいない。
 中でもシンジとマリアは殆ど身長が変わらないが、そのマリアがシンジを引っ張って廊下に連れだし、
「首絞まるってば」
「…これ以上あたしに迷惑掛けないで。言っておくけど、好戦的なシンジと違ってあたしは、みんなとギクシャクしながらやっていきたくないの、分かる?」
「ラ、ラジャー」
「出ていくなら他の理由を見つけてからにして。金輪際、私のせいにして出ていくのは止めてもらうわよ」
「ほう」
「な、何よ」
「お前は…それでいいの?マリア」
「別に構わないわ。今の私には、何の関係も無い事だから」
「そ、分かった」
 シンジの反応に一瞬マリアの表情が動いたが、何も言わずに背を向けた。
 その背中に、
「あ、そうだマリア」
「何よ」
 こちらは振り向かない。
 何を思ったかこの男、
「いや、ちゃんと挨拶してなかったなって。お帰り、マリア」
 肩に手を掛けて囁かれ、むこうを向いたままその肩がぴくっと揺れた。
「マリア−顔赤いよ」
「だっ、誰がっ!!」
 振り向いた顔は…確かに赤くなっていた。
「いや、気のせいだったみたい。それとマリア」
「な、何」
「病院へ運んでいったのは俺だが、その間番をしていたのは桐島だ、お礼を言っておくといい」
「番?どういう事」
「マリアは知らないだろうが、いない間ここは結界が完全に張られていた。桐島の傷は緩んだ結界で入り込んだ低級霊の類を相手にして出来たものだ。それから首のロケットだが身体が倒れた時に−え?」
「見たのっ!?」
 音も立てず、まったく気配も感じさせず接近してきたマリアが、何故か赤い顔のままシンジを睨んだ。
「い、いやチェーンが切れちゃったから直し−おぶっ」
「やっぱり見たのねっ!」
「み、見てな−」
 最後の方の声は、床へ静かに吸い込まれていった。
 
 
 
 
 
「ご苦労であったの」
 フユノはシビウ病院に米田を訪れていた。無論黒服は連れておらず、瞳が側にいるだけだが、これでもボディガード数十人より遙かに役に立つ。
「なーに、大した事はありませんや。私も、少しばかり弛んだってことですわ」
 安静にしていれば治ります、そう言って人形娘が部屋を出ていった後、室内には医療器具の一つも残されなかった。点滴すら打たれていないのだ。
 しかしなぜか米田は、即座に治ってしまったような気がした。
 気のせいだったろう−起きあがると、わずかに身体はふらついたのだから。
「で、シンジ君が帰ってきたと聞きましたが、いいんですかい?」
「シンジは儂の物ではない。それに、後はあの二人が考える事じゃ。どうせシンジのこと、また管理人を辞めるなどと言い出すやもしれぬ。が、それをさせるほどマリアも愚かではあるまいよ。もっとも、本当にシンジの事を分かっていれば、の話さね」
「私の知る限り、マリアの持っていた傷を癒せる人はいません。多分、直径は数ミリでしょう−でも胸の中にあるそれは、つねにあいつを縛っていた筈だった。向こうには数ヶ月も行っていない、それなのに、マリアをあそこまで変えてしまったのは−」
「碇シンジ、儂の孫だよ」
 フユノは静かな声で言った。
「所詮女なんてそんな生き物−マリアが八つ当たりしても、儂は放っておく。他の者なら、泣き叫んで死を望む責めを与えるさ。だが、シンジの気が変わらぬ間は−儂もそのままにしておくよ」
 
 
 
 
 
 五分、十分経ってもシンジは戻ってこなかった。無論、マリアも。
 室内を徐々に焦燥が包んでいき、乙女達の表情も段々と強ばり始めていた。
「もう、碇さんは一体何をなさっておられますの!わたくし達をこんなに待たせるなんてっ」
 耐えきれなくなったのか、最初に沈黙を破ったのはすみれであった。
 とは言え、他の娘達も内心は似たようなものであり、いずれそれは時間の問題であった。単に、すみれのそれが強かっただけである。
「おにいちゃん…ちゃんと戻ってくるよね…」
 ぎゅっと裾を握りしめたままアイリスが、誰にともなく呟いた。
(マリアさんやっぱり…)
 珍しい事だが、事態を冷静に分析しているのはさくらかもしれなかった。
 連れ出して袋だたき、にするなら連れ出しもするまい。おそらくは辞めぬように告げる気だろうが、単にそれだけなら室内でも済む筈だ。
 何より…自分たちが言っても変わらぬシンジを、マリアは一人で変えようと言うのに違いなく、それだけの自信もあるのだろう。
 きゅ、と胸のどこかが締め付けられるような思いのさくらが顔を上げた時、ふっとアスカと視線が会った。
 刹那絡まった視線に、二人の娘はお互いが同じ事を考えていたのを知った。
(さくら、あんたも?)
(じゃ、アスカもそう思うの)
(悔しいけど…でも、あたしは絶対諦めないからねっ)
(あ、あたしだって…絶対、絶対このまま諦めないもんっ)
「それにしても遅いな〜、ボクが見て来ようかな」
 一番脳天気なレイが呟いて、ひょいと立ち上がろうとした時、
「しっ!」
 マユミが鋭い声で制した。
「え?」
「何か近づいて来るわ」
 マユミの言葉に皆の間に緊張が走る。
「あたしには別に…」
「いえ、確かに何か聞こえるわ」
 す、とさくらが霊刀を引き寄せた途端、何かを引きずるような音が聞こえた。
 ずる…ずる…。
 まるで大蛇でも這っているような音に、全員の顔が強ばり、
「どきな」
 カンナが扉の横に立ち、すうっと手から力を抜いた。
 いつでも必殺の一撃を繰り出せる姿勢で、近づいてくる何かを待ち受ける。既にさくらとマユミは鯉口を切っており、アスカの手からは炎が、レイの手からは水がそれぞれ刃の形を作っている。
「まったく、この女神館に侵入しようとは、いい度胸ですわね」
 と、石突きで床を突いたのは無論すみれだが、携帯用の薙刀なのが少し惜しまれる。
 住人が全員臨戦態勢で待ち受ける中、奇妙な音はゆっくりと接近を続け、不意にそれは止まった−部屋の前で。
 皆の顔に浮かんだ緊張が頂点に達し、そして次の瞬間扉が開いた。
「い、碇さん何やってるんですかっ?」
 さくらの声が無かったら、いや百分の一秒でも遅かったら、ずるずると這ってきたシンジに総攻撃の手が加えられたろう。無論、シンジの従魔がそれを許すはずもなく、館内は一瞬にして惨劇の渦と変わったに違いない。
「な、なんせ…ファーストアタックだったもんで…」
 ずるずると、更に部屋の中央まで這っていったシンジはやっと起きあがった。
 ぶるぶるぶるっ。
 首を数回左右に振ってから、
「よし、ダメージ回復」
 どうやら自己修復が済んだらしい。
 ゆっくりと左右を見回してから、
「刀に炎に水…たのしそーだなオイ」
 スパン!
「OUCH!」
「碇さんが、蛇の物真似なんかしてくるから悪いんでしょっ!一体何やってたんですかっ」
「なにって…あ、そうだ思い出した。もう少しで忘れる所だった。えーと、とりあえずFA宣言はしない事になりました。以上」
「『え…』」
 一瞬ぽかんと口を開けたが、
「じゃ、じゃあおにいちゃん、管理人辞めないのっ?」
「うん…って、辞めて欲しいの?」
 確かに勘違いされそうな勢いだったが、
「や、やだ、おにいちゃんどこにも行っちゃやだっ」
 ぎゅっとシンジに飛びついた姿は、少女にのみ許された特権であり、ぷうっと口を尖らせた者もいたことはいたのだが、相手が相手だけにクレームも付けられない。
「ところで碇さん」
「何?」
「それ…マリアさんに言われたんですの?」
 妙に冷たいすみれの声だったが、
「お前達に言っておく。確かに以前、マリアタチバナと言う娘に会った事がある。だがそれだけの事だ。二度と、下らぬ事を口にするな」
 安堵したせいか、ぽろぽろ出てくる涙を拭っていたアイリスが、その身を硬直させた程冷ややかな気であり、そのアイリスをそっと降ろしてから、
「俺が全員の経歴を知っているのは、冷やかすためでも余計な詮索をする為でもない。ただ、管理の上で必要だからだ。それとも俺を管理してみるか?」
 誰一人、口を利く事すら出来ぬほどの気だったが、ご飯だよ〜と呼びに来た晩にはもう、いつものシンジに戻っており、皆がほっと胸を撫で下ろした。
 ただマリアとカンナだけは、
「夕食はいいわ。御前様に呼ばれてるのよ」
 と断った。
「何でお婆に?」
「え?」
「いや、あれ俺のばーさんだから」
「ばーさんて…御前様が!?」
「…知らなかったの」
「き、聞いてないわそんな事っ」
「あの妖怪め、言わなかったな」
「じゃ、じゃあミサトさんの弟なの?」
「同じ人から出てるし、一応そうだよね」
 この分だと、やはりフユノはマリアに、シンジについての一切の情報を与えていなかったらしい。
「じゃ…レニもシンジの従妹、なの?」
「うん」
 レニがいたら、僕はシンジの許嫁なんだからと、ぎゅっと腕を絡めたに違いない。
 マリアが何か言いかけたが、カンナがそれを遮るように、
「マリア、さっさと行かねえと遅れちまうぜ。こんなところで、油売ってる場合じゃねえよ」
「あ、ああそうね。ちょっと行って来るわ」
 一応声を掛けたのは、カンナが反感を持っているのを知ったからだ。これでもし、シンジと二人きりの状況であれば、お互いすぐ離れる事になったかもしれない。だが一人や二人ならまだしも、ここまで住人達がシンジを想っていると−本人には知らされていなくてもだ−マリアには突き放す事は出来なかった。自分で出ていくと言って、あっそうと送るシンジでない事ぐらい、マリアには分かっている。自分が出ていくと言えば、間違いなくシンジは姿を消すだろう。それが一番分かっているのは、マリアなのだ。
 そしてもう一つ、シンジの本当の力もまた。
 カンナがシンジを気に入らないのは、おそらく自分の変貌の原因がシンジにあると見ているからだとマリアは踏んだ。
 事実、その通りなのだが。
 しかし、確かにいきなり発砲してしまいはしたが、絶望と憎悪に駆られてシンジを憎んでいるわけではない。
 シンジがこれだけ想いを寄せられているのと、なにより…時間が大分冷却してくれた。
 ただ、冷却の結果がこれかと言われるとそこまでだが。
 彼女にとって、今一番恐れているのはカンナがシンジに絡む事だ。好きの裏返しとか言うオチならともかく、ストレートに嫌っているとなると結果は見えている。
 マリアはまだ−桐島カンナという娘を失いたくは無かったのだ。
 出ていく二人の後ろ姿を見送って、
「桐島カンナか。筋肉馬鹿だな」
 本人が聞いたら激怒しそうな台詞だが、
「さてと…今夜だな」
 呟いたシンジの顔はなぜか、笑っているように見えた。
「そうですか…良かった」
 FAしないと聞いた人形娘の表情が、電話の向こうに見えるような気がした。
「シンジさんが行ってしまわれたら、寂しくなりますから」
「と言っても、別に人類に別れを告げる訳じゃないんだよ」
「でも、すぐ国外へ発たれるおつもりだったのでしょう?」
 さすがにシンジの思考はよく分かっている。
「医者の手伝いをする人って、条件があるよね」
 不意にシンジが奇妙な事を言いだした。
「はい?」
「やっぱり器用じゃないと困るし、気遣いもいる。患者に病名を訊かれて洩らすようじゃお人好しではあっても、病院には不向きだ。そして勿論、口が堅いことだよね。そんな人って心当たりない?」
「碇さま…」
「まあいいや。いずれシビウには、たっぷりとお礼をしておく事にしよう。じゃあね、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
 通話が切れた後も、しばらく可憐な娘は受話器を持って立ちつくしていた。
「もしかして碇さまお怒りに…」
 首を傾げた表情に、わずかに不安の色が浮かんだ。
 一方シンジはというと、
「シビウのやつ、今度後ろから襲ってやる」
 と口にしたが、いつもの事である。
 思い切り両手を伸ばしたところへ、扉がノックされた。
「来たかな?」
 呟いて立ち上がり、ドアを開けると予想通りの人物が立っていた。
「ちっとばかし、顔貸してくんねえか」
「人体切断じゃあるまいし、もう少しましな言い方をするものだ。ま、いいさ、付き合ってあげる」
 多分来ると思ってたし、その声が届かなかったのは、本人にとっては幸運だったに違いない。
 
 
 
 
 
(つづく)

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