妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第八十話:上記の者、夜九時以降侵入を禁ずる
 
 
 
 
 
 すみれは寝ていたが、彼女がいなくても時間は動き、地球は回る。
 ここで少し、時間を戻さなくてはなるまい。
 
「碇さん、すみれさんはっ?」
「無事」
 自分たちが行けば何とかなる、と言うより力になれると思うほど、女神館の住人達は自惚れてはいなかった。
「ごめん、駄目だった」
 そう言ってシンジが帰ってくるようなら、もはや万事休すと知っていたのだ。
 早退してぞろぞろと戻ってきたメンバーを、シンジは伸びをして出迎えた。無論、そこには危険な痴情など微塵も感じ取ることは出来ない。
「ところで授業はどうした?まだ終わってないはずだよ」
「早退したのよ。ぼんやり授業なんて受けていられないじゃないの」
「いいねえ〜」
「何がよ」
「ん?女同士っていいなあ、と思って」
「な、何の事よ」
「お前のこと。アスカもすみれも喧嘩するのに、こんな時は心配するんだなって」
「あ、当たり前じゃない、一応ここの住人なんだから−」
 と、そこまで言いかけて気づいた。
「あんた…心配してくれる人いないの?」
「アスカは、俺が討ち死にでもするんじゃないかって心配した?」
「何言ってるのよ、あんたみたいなのが行って失敗したら後が無いじゃな…ごめん」
 途中まで言いかけて気づいたらしい。
「強すぎるのも問題なんですねえ」
 うんうんと頷いたさくら。やはり敵から心服に転換した一番手だけあって、感性はやや変わっているらしい。
「これさくら」
「はい?」
「俺が強いんじゃなくて、愉快な仲間達が強いの。そこの所勘違いしないように」
「はーい」
 さくらがぺろっと舌を出した所へ、
「帰りました」「ただいま〜」
 アイリスとレニが帰ってきた。
「お帰り。アイリスはどうしたの?」
「おばあちゃんがね、レニと一緒に帰っていいって言ったの」
「たまにはいいこと言うな」
(ん?)
 シンジの嗅覚は、二人が入ってきた途端、わずかながら室内の空気が硬直したのに気づいた。女同士のかすかなそれは、シンジでなければ分からなかったろう。
 しかしその事は口には出さず、
「レニ、ちょっとおいで」
「はい」
 言われるまま側に来たレニの頭を抱えると、くしゃくしゃと撫でた。
「あん、シンジ…」
「どっかの大馬鹿のせいでひどい目に遭ったが、とりあえず帰ってきた。またよろしくね」
「あ…はい」
「分かりました」
 空気が融和した訳ではないが、その事はそれだけで終わらせ、
「さて、さっきケーキが着いた。お茶にするから、食べる人は?」
 一斉に手が挙がったのを見て、
「全員参加はいいことだ。じゃ、全員着替えておいで」
「あの、碇さん」
「何?山岸」
「すみれさんのお祖父さんはその…」
「そのことも話すから、着替えていらっしゃい」
「…分かりました」
 全員がぞろぞろと出ていくのを見送ってから、
「いずれ慣れていけばいい−そう、従兄と同じにね」
 やや性格が剣呑化してきたレニに、或いは自分の姿を重ねているのかもしれない。
「痴漢よ、待てー!」
 そう言って追っかけられていた時は、こんな光景など想像も出来なかったのだから。
 
 
 
 
 
「失礼いたします」
 ひっそりと、ほとんど音も立てず気配も感じさせずに入ってきた背の高いナースが、シビウの机にカルテの束を置いた。
「こちらが手術待ちの患者です。どの患者になさいますか」
 このシビウ病院には、街の様相を表すかのように色々な患者が運ばれてくる。
 無論普通の患者も多いが、霊にとりつかれた結果乳輪に不倫相手の妻の顔が浮き出したり、熱狂的なストーカーのせいで、そいつの顔が背中に浮き出てしまった若い娘もいたりするのだ。
 次期魔道省幹部、そう公然と囁かれているシンジを始め、前線に出るトップの者は有能だが、必ずしも全員がそうではない。実際の所、ほとんど経費ゼロで仕事をこなせるのは、碇シンジただ一人と言っても差し支えないのであり、失敗したり或いは魔道省に持ち込まれなかった結果がこの病院に集まってくる。
 本妻の顔が取り憑いた娘は、中央線に飛び込もうとしていた寸前を、
「鉄道会社も、それに何より私の出勤が遅れて迷惑だから止めなさい」
 と第三外科の婦長に掴まれて運び込まれたし、ストーカーに取り憑かれた娘の方は、大迷惑防止法でとっ捕まった男が、魂の抜けていた事から事態が判明し、警察の依頼でこの病院に運ばれてきたものだ。
 従って、文字通り山と積まれたカルテの山はすべて手術待ちの患者だが、この病院の最高名医兼院長が全件を執刀する事はなく、選ばれた者だけがその対象となる。
 すなわち、
「もう大丈夫よ」
 と言うただそれだけで、絶望の淵で怯える身から、明日への希望に燃える者へと変化させる院長の患者となるのだ。
 勿論他の医師とて、誰一人出来損ないの医者はおらず、どの顔ぶれを見ても他病院なら給料の取り放題の腕だが、たった一言で絶望して死にたがる患者を、希望に燃える患者と変えられる者はいない。
 だからこそ、皆この病院から巣立つ事を望まないのだ。
 悪魔のような美しさと神のような慈愛を兼ね備え、患者に対してその後者を惜しみなく向ける院長に少しでも近づければと切に願っているのだ。
「そうね、じゃあこれとこれとこれ、それからこれも」
 しなやかな指が抜き出したカルテを、看護婦は恭しく受け取ったが、決してシビウの顔は見ない。
 ほんの少し憂いを掃いたような顔は、見とれるを通り越して危険な領域に達する。
 疲れなど凡人の悩み、それを体現している院長の懊悩はただ一つ、つれない五精使いの青年にある事を知らない者はいない。
 美しさでは戸山町の若者に及ばないが、男が想いを燃やすなど死しても許されぬような院長の想いを、一身に受けている青年である事だけは間違いないのだ。
 
 
 
 
 
「それで、すみれさんのお祖父さんは…」
「死んだ」
 シンジが一言告げた時、切り分けられたアップルパイにざくっと刺していたフォークの手は一斉に止まった。
 ただレイとレニを除いては。
「あの世へ出発した本人は満足だろうが、俺は迷惑だ。もっとも、死の直前で正気に戻ったらしいから、放っておけば片づける事になったかもしれないが」
 シンジが始末したのではないらしい、と言うことは分かった。
 しかし自分は満足と言うのが分からない。
「あの、シンジ」
 アスカが遠慮がちに口を挟んだ。さすがに、普段のような物言いはしない。
「何?」
「満足ってその、どう言うことなの…ってレイもレニも、あんた達よく平気で食べられるわね」
「アスカがひ弱なんだよ。普段は心臓に剛毛でも生えていそうなのに」
「なんですってー!」
 イヒヒ、と笑ったレイにアスカが手を振り上げたが、
「止めなよ」
 ごきゅ、と飲み込んだレニが手を上げて止めた。
「すみれのお祖父さんが、一体何を考えて自殺行為などに走ったのかは知らないけど、シンジの手に掛かったのなら死んだとは言わない」
「え?」
「片づけた、或いは始末した、シンジならそう言うはずだよ。そうでしょ、シンジ」
「よく分かるね、さすがに従妹は違う」
 わずかに笑ったように見えた顔で、
「俺を排除したがってたのはもう話したね」
「え、ええ。でもそれがどうして…」
「今回の一件は、すみれの解放と引き替えに俺が拉致され、しかる後に女共に一発かましてから悠々と帰ってくる筈だった」
「女って敵の?」
「・・俺がナンパでもするの?」
「そ、そうじゃないけど…あー、ごめん、続けて」
 一発かますで妙な想像をしたらしいアスカだったが、シンジは何も言わず、
「でもそこで敵に間抜けなのがいた。本来なら俺を拉致、そこまでうまくいくはずだったのに、その場で碇シンジを神崎すみれごと片づけようとした。その結果神崎すみれは碇シンジに奪還されてそいつは殲滅された」
「あの〜、碇さん」
「はい?」
「そこまでなら別に、すみれさんのお祖父様は関係ないのでは」
「だって話まだ終わってないし」
「そ、そうだったんですか、ごめんなさいっ」
 どうもブルネットと言いブラックと言い、途中で入って来たがる娘が多すぎる。
「死ぬのを知ったそいつが最後に放ったのは生体兵器で、弾き返そうとした俺の目の前に入ってきたのは、何故か飛び込んできた爺さんだったの。平凡な人間の碇シンジはそこまで手が回らなかったって訳だ」
「じゃあすみれさんを守ろうとして−」
「必要ないのにね」
「え?」
「牙を抜かれ、手足をもぎ取られた獅子を誰が怖がる?すみれの祖父さんが飛び込んで来なかったら、俺の五メートル手前で撃墜だ」
 あくまでシンジは淡々と告げた。
「そうだったんですか…それであの、すみれさんは?」
「泣き疲れて寝てる。孫可愛さに、と言うより独占しようと俺を排除にかかった爺さんだが、すみれに取っては父親より仲のいい祖父だったらしいし。あ、でも」
「え?」
「ご愁傷様とか深刻な顔するんじゃないよ。すみれはそーゆうの、絶対喜ばないタイプだからね」
「あいつのプライド、山より高いもんね〜…って何よ」
 アスカが言いかけた途端、あんたがそれ言うか、みたいな顔で全員がアスカを見た。
「シンジ〜、みんなしてあたしをいじめる〜」
「あー、よしよし」
 よよよ、とシンジに泣きつくアスカを、
「はなれな…さいっ」
 すぐにさくらとアイリスが引き離しにかかり、
「碇さん、こんなの嘘泣きに決まってますっ」
「そうだよ、アスカが泣くわけなんて無いもん」
 結構な言われようだが、
「シンジのケーキが潰れる」
 レニが冷静に突っ込み、マユミとレイは我関せずとケーキの消化に専念している。
「大体の事情は分かったから、とりあえず離れて」
 要は原因を取り除けばいいわけであり、そっとアスカを引き離して、
「個人の資質は置いといて、すみれの父親は間抜けじゃないと判明した」
「え?」
「すみれにここへいるように言ったらしいよ」
「じゃあ、すみれさん帰らなくていいんですねっ」
「すみれを帰らせる為に俺が出向いた訳じゃないものね」
 無事に帰ってもその問題がある。住人が減らないで済むと知って、他の者達もほっと安堵の色を見せた。
(いいなあ、こう言うの)
 シンジが危機に陥れば、フユノはそれこそ複合企業体で世界中にその根を張る碇財閥の全力を挙げても救うだろうし、降魔を前にして夜の一族が手を拱いている事はあり得ない。
 何よりも、その出自を神の世界に持つ妖狼と、神業とも言われる腕前を持つ女医がその左右を固めていると言っても過言ではない。
 それでも。
 シンジから見ればつまらない事で喧嘩したりしながらも、こんな時にはちゃんと心配している娘達の関係が、シンジにはほんの少し羨ましく見えた。
 それはある意味、フェンリルであれシビウであれ、シンジが喧嘩などした事が−痴話喧嘩を含む−ないのもまた一因かもしれなかった。
 
 
 
 
 
「ふあー、いい気持ち」
 殿方に見られたらとてもお嫁には行けない大あくびをしながら、シンジが両手を上に伸ばした。
 緩んだ、と言うか弛緩したような表情は、その身体を覆っている湯にあった。天然の岩で外壁が形成されている湯だが、実はこっそり内緒でシンジが穴を開けたのだ。
 無論盗撮の隠しカメラではなくジェットバス−段階を調節できる泡の吹き出る仕組みになっている。かなり強めに設定された泡が、弛緩した乙女を担いで来たシンジの身体を癒しているのだ。
 別にすみれが重かったわけではないが、普段からフェンリルの背に乗りこそすれ、自分がフェンリルを担いだりなどしないシンジであり、慣れない事をしたせいだ。
「ぶくぶくぶく」
 勢いよく吹き上げてくる泡を見ながら呟いた時、ふとシンジの表情が動いた。
 右手がある先の空間に異変を感知したのだ。
 わずかに空間が歪み、それがやがてフラワーフープ程の大きさになり、不意にそこから手が出てきた。
 これがシンジ以外なら悲鳴を上げているところだが、
「お帰り」
 シンジは穏やかに声を掛けた。
 何故か、身体の輪郭をどことなく歪ませながらその全身を見せたのは、シンジの従魔フェンリルであった。ただし、今は美女の姿を取っている。
「マスター、戻したぞ」
 言うなりぽいと放り出されたそれを、シンジは柔く受け止めた−生き返らせてやる、そう言ってフェンリルが常世の国へと連れて行った娘を。
「ありがとう、フェンリル」
 普段よりも何割か増量の優しい口調は、目の前で起きた現象の原因を知っていた事にあったろう。
 すなわち、期日を早めた事が、フェンリルの身体にどれほどの負担をもたらしたかを知っていたから。
「私は向こうで休んでいる。お前のお守りなどしている暇はない」
 そう言ってまた空間に消えかけたフェンリルの腕を、そっとシンジは捉えた。
「なん…んっ」
 シビウもフェンリルもそうだが、シンジが自分からキスする事はまずない。
 キスは、されるものと定義しているのかと思う位にだ。
 その主からの口づけに、刹那フェンリルの動きが止まった。
「よ…余計な事をする人間だ」
 そう言って姿を消したフェンリルだが、その口調が揺れているように聞こえたのは気のせいだったろうか。
「さて、帰してやらないとね」
 ざぶん、と全身から水を弾かせながらシンジがすっと立ち上がる。
 まるでコーティングでも施したかのように、水が玉になって弾かれるその肌は、年下好きでなくても羨望と垂涎の眼差しを向けるに違いない。
 もしも織姫が目覚め、自分の格好を見たら何と言っただろうか。
 男の腕に、それも全裸の男に抱かれている自分を見たら。
 織姫もまた、何一つ身につけてはいなかったのだ。
 
 
 
 
 
 ここのところ、食事全般はシンジが作るようになっており、その晩もまたシンジが用意した。
「すみれさんにも何か持っていった方が」
 そう言ったさくらに、
「要らない。絶対に起きないから」
「絶対?」
(あ、しまった)
 起きないのは感じ過ぎが八割で、後の二割は術の後遺症である。
 しかしその確信を持っているのは無論シンジだけだ。
「すみれには悪いと思ったが、眠ってから注射を打たせてもらったから」
「注射ですか?」
 ひく、とさくらの顔が引きつったのをシンジは見逃さなかった。
「無論鎮静剤だけど…もしかしてさくらちゃん注射嫌い?」
「そ、そんな事ありませんよある訳無いじゃないですかええ絶対に」
「そんな一息に言わなくても。まあいいや、今度栄養剤打ってあげるね」
「け、結構ですっ」
 ぴゅうっと消えたさくらを見てシンジは確信した。
 絶対に注射の痛いのが嫌なんだな、と。
 夕食の前に既に織姫は黒木から届けさせてある。黒木の妻は以前、シンジにもう一歩で鬼籍に投げ込まれるところを黒木に身を挺して守られた女だが、娘一人送るくらいの能はあるだろう。
 既にシンジから、進路は本人に任せると聞いている黒木であり、シンジの意向を無視するような動きはしない男だ。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
「なさーい」
 わさわさと各人が部屋に散っていったが、その三十分後、シンジの部屋の前に立つ人影が二つあった。
 アイリスとレニである。
 無論、昨日と同じくシンジと添い寝をとやって来たのであり、今日はちゃんとマイ枕も持参している。
 がしかし。
 “アイリスとレニへ”
 何故か達筆な毛筆で書かれたそれが、二人の目に留まった。
「ん?」「これなあに」
 “イリス・シャトーブリアン及びレニ・ミルヒシュトラーセ、上記二名の者夜九時以降の入室を禁ずる”
「な、なにこれ…」
「要するに九時以降は部屋に入るな、と書いてあるんだ」
「ど、どうして?アイリス何か悪いことしたの?」
 鍵は掛かっていないが回しても開かない。結界が施されているのだが、シンジの施した結界など破ろうとするだけ無駄なのは分かっている。
 すっかりおろおろしているアイリスだが、
「この分だと電話も切ってあるな」
 レニは冷静な顔で呟いた。
「レ、レニどうするのっ」
「侵入する」
「えっ?で、でもドア開かないようっ」
「侵入する、と言ったんだ。ドアからこんばんはと入るのは侵入じゃない」
 必ずしもそうではないが、この辺りはやはりシンジの従妹だけあって、目的の遂行に思考が切り替わったらしい。
「僕は屋根に回る。アイリス、君はこうしてこう…」
 何やらごにょごにょと囁いたレニに、
「ほ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ」
 レニは自信を持って頷いた。
 枕が変わると眠れない、これは別に若い女性に限った問題ではない。が、この碇シンジに限ってはある部分のみが符合する。
 枕兼抱き枕、フェンリルはいつでもシンジの望むまま自在に姿を変える。
 ある時は極寒のモンゴルの地でシンジを毛皮に包み、またある時は猛暑の赤道直下で主の体温を灼熱の太陽から守る。
 常にその姿を固定している訳ではないが、枕元に大抵いるのは確かである。だから腕枕などしているシンジは、普段と違って何となく熟睡していない。
 昨日の睡眠は、左右にいる二人がフェンリルのような感触だったと言ったら、二人はどんな顔をするだろうか。
「お札は立てた。さて、あれで素直に大人しく寝…る訳無いな」
 しかしシンジの結界は、女神館の住人を全部足して十倍しても、手も足も出ない。まして、アイリスとレニごときでは。
 それに、レニが扉には手を出さないとシンジには想像がついていた。不落と分かっている物に手を出すほど、シンジの従妹は無駄な労働好きではない。
「となるとやはり屋根、か」
 実は天井にも、ある仕掛けがしてあり、そう簡単にはやって来れないようになっている。何かと言えば電流である。
 天井からかさかさと入ろうとすると、ビリビリと電流が流れる仕組みになっており、最初はピリッとする程度だが中心点、すなわちシンジの部屋の真上に近づくにつれて強くなり、最後にはあの二人なら失神する位の電流が流れる手はずだ。
 もっとも、これはある策を打てば破れるが、それを見いだすにはかなり中心まで来ないと分からないので、レニがそこまで猛進してくる可能性は低い。
「二十分経って来なかったら、お肌に悪いから寝ちゃうぞ」
 そう言ってシンジがにやっと笑った直後、バチッと天井で音がした。
「やっぱりそっちに引っ掛かったか…ん?」
 だがすぐに消えた。それに、音がしたのはやや中の方であり、外側から這ってきたにしてはおかしい。屋根裏部屋と直結してない部分は普通の屋根なのだ。
「はて?」
 妙だと首を傾げた直後、その口がぽかんと開いた。
 既に模様替えをして、シンジの寝室は一番奥になっている。そこに置かれたどでかいベッドで横になっているシンジだが、その目の前で床が盛り上がったのだ。
 ゆっくりと床が盛り上がり、極限までふくれ上がった所で不意に二つに割れた。そしてそこからひっそりと姿を見せたのは、僅かに服の汚れたレニであった。
「そうか、シビウの悪戯か。担当医の事を忘れていた」
 ぶつぶつ呟いたシンジには目もくれず、レニはそのまま窓に歩み寄り、中から勢いよく開けた。
「ご苦労様、アイリス」
「あうう、怖かったよう」
 レニに抱きかかえられるようにして入ってきたアイリスは、髪の毛の端がちょっと焦げている。無論、窓に施された電撃に引っ掛かった成果であろう。
 ふう、と溜息を一つ吐いてから腰に手を当てている二人に、
「よく破った、と言いたい所だが床は修理してもらうぞ。で、屋根裏で引っ掛かったのはなんだ」
「アイリスのジャンポール、焦げちゃった」
「熊のぬいぐるみの替わりにシンジの手、アイリスにそう聞いたから屋根裏で遠隔操作してもらったんだ。多分どこかに弱点があると思ったけど、先に床がノーマークなのに気が付いた。アイリスにはちょっと我慢してもらって、窓の仕掛けを試してもらったんだ。弱点が判れば、そこを突けば済んだ」
「…その手があったか」
「そんなことより!おにいちゃん、入っちゃ駄目ってどう言うこと?アイリス、何かおにいちゃんに悪いことしたの?」
 目が潤んでるアイリスだが、最高級の古代樫で固めた床の修理代がいくらになるのかと、シンジの意識は刹那そっちに飛んだ。
(こっち、こっち)
 なんとかこっちに引き戻して、
「アイリスは今度中学生、レニも高校二年生」
「う、うん」
「つまり世間体と言うものがあるのだよ」
「世間体〜?」
「女の子二人といつも一緒に寝てると、アイリスとレニが変だって思われるの」
「じゃあ−」
 アイリス一人ならいいでしょ、そう言いかけたのを読んで、
「一人でも一緒だよ」
「うー…」
「と言うことで、今度は二人ともちゃんと一人で寝るこ…」
「やだ、アイリスやだよ」
「え?」
「やだやだ。ここで暴れちゃうもん」
「げっ!?」
 床下はさすがに無防備で、そこを破られたから室内の結界もおかしくなっている。
 もしもこんな所でアイリスに暴れられたら…。
 ぞっとするような光景がシンジの脳裏に浮かんだところへ、
「シンジ…僕の時間、取り戻してはくれないの?」
 哀しげな声がした。
 アイリスなら、最悪の場合眠って頂けば済む話だが、この口調だけはシンジは聞きたくなかった。
「シンジは僕の事、覚えていただけなんだね。ごめん…もう言わないから。じゃあ、おやすみなさい」
 悄然と、あまりにもしょんぼりと肩を落として背を向けたレニを見た時、シンジは敗北を知った。
 以前ある夫婦から、夫の様子がおかしいとシンジの所に依頼が来た。毎夜毎夜夫が生き霊にうなされていると言うのだ。
 あっそうと二つ返事で引き受けたシンジだが、待っていたのは凄惨な光景であった。
 妻が妊娠中、夫が風俗に行った事を知って逆上した妻の妬心が、生き霊となって夫を襲っていたのである。しかもその暴走した生き霊は本体に還り、すなわち妻の身体に戻ってシンジに襲いかかってきた。
 夫婦のどちらが悪い、とは断じまい。しかし残ったのは、腕の一閃で壁に叩き付けられた妊婦と、巻き込まれるようにしてその下敷きになった夫であった。
 相手が誰であれ敵、それも仕事絡みであれば容赦などしないシンジだが、祖母を冥府に送りかけても取り戻そうとした従妹の、この口調だけは聞き流す事は出来なかった。
「レニ、分かった」
 くるり、と振り向いた顔に勝利の色があるのにシンジは気付いたが、例えそうと知りつつもこの口調だけは聞けぬシンジであった。
「アイリスもレニも一緒に寝ていいよ」
「本当にっ?」
「うん。ただし」
「『た、ただし?』」
「一週間に一度だけだよ。いいね」
 別にアイリスだろうとレニだろうと、ぷにぷにした身体にうずうずするなどとは微塵も思っていないが、二人が他の男を見なくなっても困るのだ。
 お世話的ではあるが、二人にはいい恋をしてもらいたい、そう思っていたシンジなのだから。
 せめて三日に一度、そう言おうと思ったレニだが、シンジの言葉は異論を許さぬ物を含んでいた。
「分かった、シンジの言うとおりにする」
「アイリスも…おにいちゃんの言うとおりにします」
「ん。じゃ、今週は昨日寝たから…何をしている」
 言い終わらぬ内に、ぴょんとベッドに飛び乗って来た二人をシンジはギヌロと見た。
「だって床に穴が開いてるからおにいちゃん寒いでしょう」
「だから僕達が暖めてあげる」
 何をませた事を、そう言おうとしてシンジは二人の表情に気付いた。
 そう、紆余曲折は多少あったものの、こうなる展開を間違いなく予想していた二人の表情に。
 どうやら、小娘二人に完璧にしてやられたらしい。
「はいはい」
 降参の表情を見せたシンジに、二人の娘は両側からきゅっと抱き付いた。
(羊が百匹二百匹…千一匹…よし寝るぞ)
 起きてると、床の修理代だけが脳裏を過ぎるから、途中を省略して一気に千と三匹まで毛を刈られた羊を数えてからシンジは寝付くことに決めた。
 
 
 
 さて翌朝、カレンダーを見たシンジはあることに気が付いた。
「そうか、もうそろそろか」
 その後首が動いて床を見ると、はあと溜息をついた。
「直さなきゃなんない…ついでに家行って手配してくるか」
 他の住人より三割増しでご機嫌なアイリスとレニ、それと他の住人達を送り出してから、シンジはぶらりと女神館を出た。
 と、そこへ携帯が鳴った。
「何?シビウ」
 第一声としてはなかなか変わった反応だが、掛けてこれる人間は決まっている。
「レニの検査に?分かった、すぐ行かせる」
 手を入れたら入れっぱなし、と言うことはシビウ病院ではあり得ない。まして、それがシンジの従妹であれば尚更である。
 学園に電話を入れ、リツコにレニを病院へ向かわせるよう連絡してから、またシンジはふらりと歩き出した。
 ぶらぶら歩いて実家に着いたのは二十分ほど経ってからだが、どこから連絡が入ったのか、シンジを迎えたのはずらりと居並ぶメイド達であり、
「若様、お帰りなさいませ!」
 ぴたりと揃った声に、シンジは軽く頷いた。
「はい、ただいま」
 
 
 
 
 
(つづく)

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