妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第八十一話:ちょっと羽根の曲がったキューピッド?
 
 
 
 
 
「苦いな。もう少し甘いのは無いの」
「インドから直送した物でしたが−狭霧、ミルクをこれへ」
「はい、ただいま」
 黒木邸に来ていたシンジが、椅子に偉そうにふんぞり返って紅茶のカップを傾けている。
 質実剛健、文字通りそれを地で行くこの部屋であり、ここからは多角経営をこなすオーナーの色はまったく感じられない。
「お待たせいたしました」
 ことり、とミルクの壺を置いてからごく自然に黒木の隣に座る。
 見た目は仲のいい夫婦だが、以前はこれが護衛と相棒も兼ねていたと言うことを最近聞いた。
「それで若、今日はいかがなさいました?」
「お前じゃなくてお前の女の方」
「私に?」
 わずかに首を傾げた狭霧だが、シンジのこの言い方を、以前から決して良しとしていた訳ではなく、むしろその逆であった。
 ただし、それが原因で命を落とし掛けた狭霧なのだ。
 
「黒木、お前才能ゼロ。やっぱクビ」
「恐れ入ります」
 喧嘩の強いお山の大将が、そのまま頭もいいとは限らない。むしろ、それは反比例する事も結構ある。
 では頭も良く、格闘センスもずば抜けている場合はどうか。
 普通ならば問題ない。
 そう、普通ならば。
 黒木の出自がスーパーマンを地で行くような物であったとしても、シンジの足下にも及ばないのはひとえに大地の力を使えないからだ。
 火も水も風も土も、そして大地も使えない。
 もっとも、魔道省の中にも自然系の力を使えるのは珍しい。というのは元々体系が違う為だ。
 火を使えようが水を使えようが、霊を祓ったりするのには使えない訳で、それを応用出来るシンジの方が奇特なのだ。
 銃を持たせれば一級品以上、それこそ軍隊でも相手に出来る腕前ではあったが、
「役に立たん。えーい、駄目駄目」
 シンジは却下して、
「これから出てくる敵は、銃弾で片が付かない相手ばかりだ。しかも五精が全部駄目だから、お前にはお札をマスターしてもらう。これがあれば可愛いキョンシーも呼び出せるぞ」
 可愛いのはそれを退治する方の筈だったが、そんな事は知らない黒木は、はあと頷いた。
 しかし、やはり難しい。
「気をやるって知ってるか」
「性的絶頂の事で?」
「そう、それ。一昔前の作家が使うとか言われているが、実際には結構合ってるかも知れない」
「と言われますと」
「気を丹田に集めて全身に送るのはお前も知ってるだろうが、人間が持つ気を全部体外に放出すれば、ぐったりした状態になる。身に帯びてる物だから、それこそ妙な快感すら覚えるかもしれない。ただし、そこまで考えて使ってる人は少ないだろうがのう」
 妙な語尾と共にくっくと笑ったシンジの眉が寄ったのは、黒木が手を置いていた札がぼっと煙を噴いた時であった。
「また失敗か。やっぱりお前の場合、屈強な百姓の方が合ってないか?」
 お前だの百姓だのと言っても、シンジが怒ってはいない事が黒木には分かっていた。
 もしもシンジが怒っていれば、札が爆発して黒木の身体を襲っていただろう。
 とりあえず見よう見まねからだ、そう言って連れて行かれたのはシンジのアルバイトであり、そこで信じられないような現象と共に、黒木は目の前の少年の実体を目の当たりにする事となったのだ。
「ところで、若は札は?」
 屋敷では若様と呼ばれ、ずらりと使用人が居並んで迎えるシンジを、若と呼ぶ事に何故か違和感は無かった。シンジ自身が、君とかさん付けで呼ばれる事の少なかったのも影響していたかもしれない。
「使えない」
 シンジはあっさりと首を振った。
「正確には使わない、だ。別に無くても跳ね返りは全部フェンリルが吸収してくれるからな。ま、お前みたいな初心者向き−ん?」
 気配を感じて振り向いたシンジの目に、すらりとした長身の美女が歩いてくるのが入った。
 ただし、殺気付きで。
「少しは言葉遣いを考えたらどうですか」
「何だこの物体は」
 シンジの表情が動いていなかったが、それを聞いた途端黒木が、音も立てずに起きあがっていた。
「狭霧、止せ」
 低い声で止めたが、狭霧と呼ばれた女の目からは殺気が消えない。
「いえ豹、あなたのような方がこんな子供に侮辱を受けるなど」
 だがそれ以上続けることは出来なかった。
 黒木の目が光を帯び、狭霧を一瞥したのだ。
「狭霧」
「…申し訳ありません」
 項垂れた狭霧だが、
「そんな事はないよン」
 不意に明るい声がするのと、黒木の顔色が変わるのとが同時であった。
「黒木、この子だあれ?」
「わ、私の妻です」
 国家さえ恐れる男が、既に顔色を喪っている。シンジのこの口調が何を生み出すのかを、付いていった先で知っているのだ。
「見ればなかなかきれいなヒトだ。原始人レベルでは、な」
 うっすらと笑った顔に、狭霧のきれいな眉はぴっと上がり、黒木の手からはすっと力が抜けた。
 黒木は知ったのだ−もはや、自分が身を挺するしか妻を救う手だてがない事を。
 後はそのタイミングが何時になるかだけだ。
「だが生憎俺は現代人でな。原始人の美人など美としての興味はない。とはいえ、原始人が現代人に喧嘩を売った以上、それなりに自信はあるはずだ。試してみるがいい、古代人が現代人にどこまで抗えるかを。黒木、止めるなよ」
「若、どうか、どうかご容赦を」
「俺は別に、こんな女などどうでもいい。だが、俺が放っておけば無事に帰れると思うか?」
 シンジの台詞に、初めて黒木は気づいた。シンジの身体の周辺に、シンジの物とは思えぬ殺気が漂っているのを。
 そしてそれが、体内で凄絶な怒りを抑えている従魔の物だと言う事に。
「女の命運は男が握る物だ。黒木、お前が選ぶがいい。もしこの女が俺にかすり傷の一つでも付けられれば、従魔に手出しはさせない。あるいは、フェンリルの前に二人して身体を引き裂かれるか、いずれか選ぶがいい」
 引き裂かれると言った時、シンジの顔から笑みは消えておらず、普通に考えれば誇大妄想であり、そして狭霧はごく普通の思考能力を備えている女であった。
「わかりました」
 頷いたのは自分の死を恐れたのではなく、勝利は決してあり得ないが、かすり傷の一つなら何とかと考えたのだ。シンジのことを告げなかったミスだと、黒木は内心で猛烈に後悔していた。
 シンジのことを知っていれば、間違っても口を挟みなどしなかっただろうが、低級霊相手の修練は素人の黒木には堪え、毎日傷だらけで帰る夫が気になって来たのに違いなかった。
「と言うわけでおばさん」
 普段シンジは、そのたぐいの事は口にしない。ばーさんとか言うのは、祖母のフユノ相手か或いは、東京学園理事長の母親くらいのものである。
 そのシンジが年齢的な事を口にするのは珍しい。それも、まだ三十前半の女性に対してなど希有とも言えるが、その意味を向けられた方は分かっているのだろうか。
「あんたの亭主からお許しは出た。さて、ネアンデルタールの実力見せてもらおうか。あ、それから銃は使っても構わないぞ。殺す気でくるんだな」
 既に狭霧の内に秘めた怒りは頂点に達している。
 自分のパートナーであり、もっとも敬愛する夫への罵詈雑言−彼女にはそう聞こえたのだ。その上自分にまで原始人だなどとは、言われずとも骨の一本や二本で済ませる気はなかった。
 銃など使わなくとも十分、狭霧が鹿のようにしなやかに地を蹴った瞬間、シンジはにやっと笑った。
 やる前からもう、結果など知れてあったのだ。シンジの人差し指が下を向いた瞬間、狭霧の周りで凄まじい炎が下から吹き上げ、思わず脚が止まった次の瞬間にその身体はUの字に折れ曲がっていた。
 想像を絶する勢いの水が、まともに背中から尻を叩いたのだ。生身の人間がどうしてこれに耐えられよう、サンドバッグ状態になった狭霧の口からは鮮血が吹き出し、既に骨が数本折れているのを黒木は見て取った。
 これ以上妻の惨状は直視できず、黒木が飛び込もうとした途端、ふっと水も火も止まった。
「愚かな事を」
「?」
「お前今、飛び込もうとか思ってただろ」
「!?」
 こっちの方など、見てもいなかったシンジにぴたりと言い当てられ、黒木の表情が唖然とした物に変わった。
「五精には風もある、忘れたか?」
 だが笑みは相変わらず崩れておらず、
「とりあえず、これでフェンリルの面目は立った。本来なら、主に変わってあの世に送っていたい所だからな。だが俺の分は終わっていない。子供に退化させられた礼はさせてもらおう」
「わ、若それは…」
「そう言えばこの間」
 上げた手をふっと止めて、思い出したようにシンジが言った。
「大統領の夫婦喧嘩が収まったんで、お祝いとか呼ばれて行ってきたが、ヒョウスケクロキが俺の子分になったと言ったら驚いていたぞ。偉い人だったの?」
「違います。ただ−平然と殺しを許可された男だっただけです」
 黒木の低い声にはどこか余韻があった。
「で、何で職替えした?」
「人物を見るのに年齢は関係ありません。だがあなただけは違った。別に野望がある訳でも、それを自分の欲のために使うわけでも、かと言って正義を目指す訳でもない。だから私は自分の肩書きを捨て、若の言われるままにこの道を選んだのです。あなたの行く道を見てみたい、そう思ったからこそです」
「それはいいが、お前がいないと悪が栄えるとか言ってたぞ」
「私が居れば悪は減るとして−では、私がいなくなったらどうします?とは言えそれにも、或いは最初から気が付いていたのかもしれません」
「馬鹿もん」
「は…」
「そこまで気が付いているなら、自分の女の調教の必要性にも気付いておかんか」
 す、と手が下がり、
「興ざめした。今日は見逃してやる。医者でもどこでも、さっさと連れて行け。五分以内に駆け込めばなんとかなるだろ」
「申し訳ありません」
 深々と一礼してから、黒木は狭霧を背にして身を屈めると一気に駆け出した。その姿は確かに黒豹そのものであり、シンジが調べた黒木の経歴とまさしく符合していた。
 どんな極悪な組織も、日本の黒木豹介にだけは手出ししてはならないと言う了解があるとも、そこには記されていた。
 だが、とシンジは呟いた。
「どんなに黒木が偉大で強大でも、所詮は一個人に過ぎない。それに、女に弱い事も分かったし」
 その口許が僅かに歪んだように見え、
「どんな奴であっても征服できぬ街−それはこの街だ。百年経てば勝手に寿命が来る人間だが、すべての顔を飲み込んだこの街は永久にも続く。一体どんな奴がこの街に手を出せる?」
 シンジの言うとおり、どんなに黒木が強力でも結局は一個人であり、この街と言う存在には到底敵わない。
 案外黒木も、そこに気付いてあっさりと職替えしたのかもしれなかった。
「ところであの女法医学者とか言ってたが、どうすれば死ねるかもちゃんと分かっていたみたいだな」
 皮肉と言えば、これ以上図星の皮肉は無かったろう。 
 
 
「あの時は私も随分と焦りました」
 思いだしたように黒木が言った。
「シビウ病院では、看護婦が見るなりこの傷を付けられた方は診ないと決まっております、さっとお引き取り下さいと玄関払いでした」
「あそこはそう言う病院だ。俺の手で付いた傷を持つ者は、俺の依頼が無いと絶対に診ない。一報入れておかなかったら、今頃は毎日喪服だ」
「本当に、申し訳ありませんでした」
 無論、シンジの連絡で門を出た黒木が呼び止められ、狭霧の身体には傷一つないが、あの光景だけは今でも時折夢に見るのだ。
「そこまでは過剰サービス」
 そう言って記憶までは処置しなかった、美しい院長の仕業である。
「燃やす気がしない、事もたまにはある。ところで黒木、子供はどうした」
「そ、それが…」
「まだ三ヶ月にはなってないな」
「『!?』」
 殆ど目立たぬ狭霧の腹を、ちらりと見たシンジの言葉に二人とも愕然とした表情になった。
 まさか、まさかいくら何でもそこまで読みとれるのか!?
「別に難問でもない。ところで今、幸せか?」
 不意に視線を向けられ、何故か狭霧は狼狽した。
「はい…とても幸せです」
「亭主が銃弾に身を晒す日々よりはましだしな。男が生まれたら将来は、返す物を何にするかと訊きに来るのだな、きっと」
「返す物?」
「バレンタインの恩返し」
 シンジの言葉に夫妻はやっと、その来訪目的を知った。
 
 
 
 
 
「比奈はどこにいる」
 冥土へ旅立った者は、六文銭を持っていればいいが持っていないと脱衣婆に着物を剥がされ、運良く持っていても閻魔の前に立つ迄に、四方から伸びる亡者の腕にこれまた着ぐるみを剥がされる可能性がある。
 ちょうどシンジもそんなもので、
「若様お土産は〜」
「あー、買ってないですね〜」
 一応使用人と主の関係だが、帰ってくるとわさわさと漁られる事が多々ある。
 ただし。
 本来使用人の立場からすれば、あってはならない事であり、ましてこの家には超が付くほどのブラコン娘もいるのだ。だからシンジがそれを咎めないのは、ミサトの機嫌を見るバロメーターにもなるからであり、そして今日は…誰一人として手を出さなかった。
「今お部屋の方でお待ちしております」
 分かった、と頷いて入っていくシンジは、ミサトの機嫌が相当悪いことを感じ取っていた。メイド達の誰一人、土産のみの字すら口にしなかったのである。それに昨日、メイドの一人から帰宅を要請されており、これ自体も尋常ではない。
 シンジが殆ど使っていない自分の部屋に入ると、ずらりと並んだ機器と三つ指を突いた娘が出迎えた。
「お帰りなさいませ、若様」
「挨拶はいい。それよりあの馬鹿コンビは今どこにいる」
 一人部屋でシンジを待っていたのは藤堂比奈、綾小路葉子の代わりにシンジの部屋の管理を任された娘であり、現在最優秀とされるハッキングシステムを始め、帝都の情報を殆ど管理下においているこの部屋の機器を扱える娘だ。
 無論、正確に言えば情報を失敬してきているのであり、昨日シンジの居場所を逆探知したのはこの娘である。
 それにしても、馬鹿コンビとは誰の事なのか。
「一週間ほど前、ボリビアで政府軍から追われていたようですが」
「何したの」
「どうも、麻薬の密輸組織と接触して、何らかの買い物でもしたものと思われます」
「って事は、姉貴と瞳にコカイン入りのペンダントでも買ったのかな。それは帰ってから聞くとして、すぐに呼び戻せ」
「何かございましたか?」
「姉貴が欲求不満になってる。それと瞳とまとめて教会に押し込んでやる。今度と言う今度は二匹とも逃がさん。魂の牢獄に放り込んでやる」
「かしこまりました、すぐに手配しておきます。ところで若様」
「ん?」
「出雲へはいつ行かれますの」
「誰が?」
「誰がって他にいないでしょ。葉子が帰ってこないと、私もこの部屋の管理は面倒ですし」
 使用人にあるまじき発言だが、シンジは気にした素振りもなく、
「この部屋かび臭いぞ。比奈、寝てないね」
「若のベッドに寝るのは葉子だけにして下さい。代わりに寝るのは出来ますが、命がけなどお断りです」
「むう」
 ちらりと宙を見上げてから、
「分かった。近々行くとしよう。で、行けば帰ってくるの」
「それは葉子に聞いて下さい。ただ、私が迷惑してると言えば帰ってくる筈です」
「相変わらず我が儘なヒトだ」
「そうでなくては、こんな都下のあちこちから逆侵入されそうな機器の預かりはできませんから」
「それもそうだね。あ、そうだ比奈」
「はい」
「ここに書いてある物、全部注文してあるからもらって来て」
 渡された紙を受け取って、
「かしこまりました」
 恭しく一礼したが、
「これはホワイトデーのお返しみたいですが…この最後のこれは?」
「俺の趣味」
 返ってきた即答にそれ以上は聞かず、そのまま部屋から出て行った。
 比奈が出て行った後、シンジはソファに腰を下ろして巨大なパネルを眺めた。帝都全体が映っているが何故か主要道路の状況も映っており、事故のデータが何件か入っている。
「首都高で車が暴走−霊系の事故が増えだしてるな。とは言え、今のままでは俺には退屈至極、動く気になどなれん。葵叉丹、さてどこまで我が手の内から抜け出してみせてくれ…きゅう」
 最後まで呟くことは出来なかった。不意に気道がきゅっと締まったのである。自分の家とは言っても、ここまで気配を感じさせずに迫れるのは一人しか居ない。
「浮気したんですってね」
 弟をからかう姉の台詞ではあるが、口調に殺気がこもっている。
「私には指一本触れないくせに早速すみれをホテル?ふーん、良い度胸じゃない」
 何も言ってないが、勝手に話が進んでいるミサトに、
「取りあえず離して」
 腕をぺしぺしと叩くと、
「じゃあ」
 んー、と赤い唇が迫ってくるのに、すっと取りだしたタコを押しつけた。
「んー!んー、んんー!!」
 ちゅぽん、とやっと引き離し、
「乙女に何て事するのよっ!!」
「同類項かな、と思って。そんな事より何を熱くなってる?排卵日か?」
 ぶん、ときれいな弧を描いて飛んできた脚をかわし、
「人の不幸を吸って生きる吸血蛭みたいなカメラマンの連中に、祖父を目の前で失って傷心のすみれをさらすの?俺はごめんだね」
「…じゃ、何でラブホテルなのよ」
「そっちの方が知り合い多いから。碇財閥の方々と違って、俺は一流ホテルとかには縁がないの」
「…またそう言うことを言う。いい加減−」
 ミサトの言葉が止まったのは、
「いい加減、で思いだした」
 不意にシンジが笑ったからだ。それもにやあ、と。
「バレンタインに関する講義で、今までずうっと誤った内容を講義されていたらしい事が判明したんだけど」
 ぎくっ。
「な、なんの事かなあ。わ、私にはちっともさっぱり全然」
 抱き付こうとしていたのはどこへやら、こっちを向いたままかさかさと下がろうとした所で、どんっと何かにぶつかった。
「ひっ捕らえい」
「はい」
 立っていたのは無論、シンジが呼び寄せた瞳であり、肉弾戦の取っ組み合いなら互角の二人だが、武術では瞳の敵ではなく、あっという間に縛り上げられてしまった。
「近親相姦を頒布した罪で懲役十年、と言いたいところだが」
「そ、そんなのいくら何でも長すぎるわよー!!」
「うんその通り。ところで瞳、コカインとか好き?」
「私にそんな趣味はありませんが」
「姉さんは」
「シンちゃんの幻影を見れるクスリなら大好…いたたた」
 シンジが目配せすると、縄はきゅっと締まった。
「一応二人とも無い、とすると妙だな」
「薬物反応でも出ましたか?」
「お前の尿になんか興味はない。お宅達の彼氏だが、ボリビアでコカインの密輸組織に仲間入りして政府軍に追っかけられたらしいぞ」
「俊夫が?」「加持が?」
「取りあえず連れ戻すように手配して置いた。二人とも、今度という今度はとっとと結婚してもらうからな。俺もいい加減ブラコンの姉貴につきまとわれるのは飽きた」
 内海俊夫に加持リョウジ。一応それぞれ瞳とミサトの彼氏だか恋人だかよく分からない存在だが、遺跡発掘もどきが好きでしょっちゅう海外を飛び回っているから、一向に進展しない。
 シンジと似てるが、根本的に違うのはその素質の差である。しかもヒッチハイクで美女を上手くのせて運んでもらったとか、土産話にわざわざ持ってくるせいで、喧嘩ばかりしている。
 瞳達に言わせると浮気するから、だそうだが、シンジから見れば犬もそっぽを向く痴話喧嘩でしかない。
 このままでは、ミサトが女神館に夜這いしに来かねないし、そうなったのはそもそも加持の奴がはっきりしないせいだと、シンジが強硬手段に出たのだ。
「『け、結婚て…』」
 さっさとシンジが出て行った後、残された二人は思わず顔を見合わせた。
「ブラコンって何よ!待てー!!」
 が、すぐにどたんばたんと物音が聞こえてきたのは、シンジを捕まえるべく縄抜けしたミサトと、それを取り押さえようとする瞳が揉み合っている音らしい。ブラコンも濃度が過ぎると、当事者よりも周囲が迷惑すると言ういい例である。
 
 
 
 
 
「はいはい、こっちこっち〜」
 パンパン、とシンジが手を叩くと、一体どういう教育がされているものか、肉食魚のピラニアが一斉に飛び上がるのだ。しかもシンジの手に付いて飛ぶから、一般人が見たら目を丸くしかねない。
「はーい、良くできました」
 にこっと笑って頷いた顔は、女神館の住人達には見せない物であり、対象が少し違うような気もするが本人は満足しているらしい。
「ご褒美ちょうだい」
 と、ピタピタ水面を叩いているどう猛なペット達に、シンジは柔らかな視線を向けたまま、後ろに置いた樽から生きた鯛を取りだした。
 まるまると太り、しかも生きたそれは一匹数万ではきかないが、シンジはその尻尾を掴むとそのまま池に放り込んだ。
 これは生け簀を飛び出して海に帰る事もなく、大人しく池に放り込まれたが、次の瞬間素直に言う事を聞いたピラニア達があっという間に襲いかかり、数秒も持たずにその姿は消えた。
 骨だけ、どころか跡形もなくきれいに無くなってしまったのだ。
 こんな猛魚達の上で静止させられたら、どんなわがままなメイドでも、あっという間に、
「ご主人様に身も心もお仕え致しますー!」
 と宗旨転換するのは間違いあるまい。
 事実、この魚達はシンジ以外は人間ごときと侮っており、決して手などさしのべてはならないと厳命されている。
 ただ、シンジにとっては可愛いペットであり、その中に次々と生きた鯛を放り込んでいった。
 そして二十分後、江戸前の寿司屋からどやされそうな程の量が投じられ、満腹になった魚達はゆっくりと回遊を始めた。
「はい、お粗末でした」
 空になった樽を逆さにしてその上に座り、ぼんやりと魚達を見つめるシンジの顔は幸福そうに見えた−それもかなり。
 大草原に寝ころんで、流れゆく雲を見上げる時もこんな顔をしている。
 このシンジを見ると、たとえそれが世界的企業であろうとも、そんな所に納まる人間ではないと言うのがよく分かる。
 一族を始めフユノも、シンジに無理強いできない原因はそこにあるのかも知れない。
 やがて穏やかな顔をしたまま、その目が閉じられた。ピラニアを魚に昼寝する気らしい。
 いや、眠ってしまったという方が正解か。
「若様、ご命令通りに−」
 やがて両手に袋をぶら下げた舞がやってきたが、静かに寝息を立てているシンジに気付くと、両手に袋を持ったままそっとその後ろに控えた。
 元祖釣り名人を迎えに来て立っているどこかの君主のようだが、舞は微動だにせずこっくりと揺れているシンジの後ろに立っていた。
 五分、十分…三十分が過ぎ、一時間が過ぎてもまだシンジは目覚めず、舞もまったく動かない。女は身体の構造上、長時間動かずに立っているようには出来ていない。いや立てる事は立てるのだが、身体にいい影響は出ないのである。
 そして更に三十分が経過した時、不意にシンジの身体が動いた。
「ん…」
 僅かに身動ぎした後、背後の気配に気付いたのか振り向いた。
「待っていてくれたの?」
「よくおやすみでした」
「そうか」
 こんな時、決して舞が起こす娘ではないことをシンジは知っている。
 一つ頷いてから、
「ありがとう」
 そう言って手から鞄を取った。
「はい」
 一礼した舞の顔に笑みが浮かぶ。この邸に仕える者で、この言葉を聞くためなら命を辞さない者が全員である事を舞は知っていたのである。
 それから一時間後、袋をぶら下げて女神館に戻ったシンジを待っていたのは、荷物をまとめているすみれであった。
「あ、おはようもう具合はいいの…って何してる?」
「わたくし…実家へ戻らなくてはなりませんの」
「何?」
 すでに重樹からは直にすみれを戻さぬとの言質は取ってある。すみれの言葉を聞いたシンジの眉がぴくっと動いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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