妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
 
第七十話:レニの帰還−女の子は変わるもの?
 
 
 
 
 
 戦国時代、越後の龍と呼ばれた武将がいた。長尾景虎−後に関東管領の職と一緒に名前まで押しつけられて、上杉謙信となった武将である。
 自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じるなど、少しイってる所はあったがその強さは文字通り無類であり、甲斐の虎武田信玄をしてすら直接対決は出来るだけ避けさせた。
 どれくらい強いかというと、戦国屈指の名将北条氏康を天下の名城小田原城に籠城させ、第六天魔王と呼ばれた織田信長さえも謙信逝去まで常にその影に縛られ続けた位である。
 戦国の申し子の敵は、生臭坊主の本願寺でも強力な水軍を擁した毛利でも、そして鉄砲三千挺の前に砕け散った武田の騎馬隊でもなかった。
 最強のくせに、自分の野心のためにはまったく動かなかった神将、上杉謙信だったのである。
 そして今、強さは折り紙が幾つあっても足りない位のくせに、戦闘にはなかなか燃えない男がいる。
 全身から殺気を立ち上らせた娘と、背中に少女を背負ってぼんやり立っている男ではあまりにも不似合いだが、シンジの方には一向にその気が見えない。
 ところで、これに似た光景が少し前にあったのを憶えておられるだろうか。
 そう、女神館でマユミの胸を揉んだ時、アスカを筆頭に住人達に絡まれた時だ。あの時も、シンジはまったくやる気がなかったのだが、今といい勝負である。
「織姫」
 シンジが呼んだが、静かな声と言うより地下水みたいな響きに聞こえる。怒も何も、殆ど感情が入っていない声だ。
「碇シンジを殺(と)ってこいって、親父さんに命じられた訳じゃないな。何故?」
 近藤静也と歩いていて、静也狙いのヒットマンには何度もお目にかかっているシンジであり、冥土での反省をその度に促しているのだが、星也の命ではないとシンジは見抜いていた。いや、今の仕事に愛着があり、それを妨げるシンジをと画すなら−可能性はゼロではないかもしれないが、娘など使わず自分で来るだろう。
 娘のために悪魔に魂を売るような男が、どうしてわざわざ娘に玉砕を命じると言うのだ?
「あんたさえ…あんたさえいなければパパは幸せになれるっ」
 すばらしい跳躍力で襲いかかってきたのを、今度は軌道を読んでさくっとかわし、
「それは逆の筈だが」
「何」
「何を勘違いしてるのか知らないが、お前の父星也は元々画家で、才能も持っていた。それが魔道省なんかに入ってしまったのは物好きからか?どこぞの小娘のせいだと聞いたぞ」
 まだ暗闇には遠いが、シンジの目は織姫の肢体を見通していた。すなわち、妙にほっそりとしたその肢体を。
 そして何よりも、そのぴょこんと尖った両耳と爛々と光る双眸を。それに、今の織姫は極普通の発音であり、あの奇妙な方言とも取れぬ言語は聞かれない。
 猫の浮遊霊と合身させた、緒方はそう言ったがその様をシンジは目の当たりにして、内心ではやや驚いてもいた。肢体は猫娘化してはいるが、その精神が乗っ取られた感はない。だとすれば、織姫は自分の意志で身体を操っていると言うことになる。
 無論、肢体の変化は自らの意志には因らないだろうが。
「う、うるさいうるさいっ」
(あ、図星突かれて逆ギレ)
 シンジの言うとおり織姫の−娘の一件がなければ、星也は今頃間違いなく画家の筈であり、それなりに大成してもいたはずだ。
 わざわざ怒らせるようなシンジの言葉に、織姫は気持ちいいほど反応し、激怒を全身に漲らせて襲いかかってきた。
 今度はシンジも避けず、ぴん!と片手ではじき飛ばした。
「いい加減にしろっての織姫」
 びくっと身体を強ばらせた織姫に、
「お前が俺を倒しても、緒方星也の運命は悪化しても良くならないと思うぞ」
 やってみれば分かるのだが、人を背負った場合男女性別問わず、寝ている或いは失神しているとやたらと重くなる。当然神崎すみれも例外ではなく、シンジの手にはかなりの負担が来ていた。
 本来ならさっさと片づけて帰るべき所だが、シンジとしてはどうしても討つ気になれない。理由はともかく錯乱乃至は逆恨みだが、その父が命を賭けて救った娘をここで朽ちさせる気にはなれなかったのだ。
 厳密に言えば、緒方が娘に施した術はそれ自体が違法であり、招魂の術の副作用を考えれば織姫は既に殺されていてもおかしくない。シンジの手に掛かれば、文字通りあっという間に片づくような事でも、その本質が同類とは限らないのだ。
(ちょっとビリビリ)
 無論表情にも声にも一切出さなかったシンジだが、次の瞬間その表情がわずかに動いた。
「関係ない」
 織姫は確かにそう言ったのだ。
「は?」
「この身体もそろそろ飽きた。お前が死ねば身体だけ乗っ取ってくれる」
「げ!?」
 それを聞いたとき、シンジは目の前の敵の正体を知った。
「じゃあ遠慮は要らないな、キリキリ退治してくれる」
「重い荷物で手が痺れているくせに、随分と威勢のいい事だ。もっとも、出来るなら場の話だがな−っ」
 シンジの痺れまで見抜いていた織姫の形をしたそいつが、必殺の一撃を手に込めて地を蹴る。
 すみれを地に置けぬシンジは、避ける術はあっても、返り討ちにするには手が足りない。運悪く、手は両方とも痺れてきていたのだ。
「女運最悪」
 ぶつくさぼやいたシンジの髪が僅かに揺れた。
 
 
 
 
 
「何、会長が!?」
 実の父親だが、公では会長と呼ぶ。もっとも、父などと容易く呼べぬ存在であり、そこまでは遙かに追いつけぬ息子でもあるのだが。
 しかしその実父兼会長の神崎忠義が、シビウ病院に赴いた事を、そしてすみれに強制的に戻るよう命じた事を知りその顔から血の気は喪われていた。
 忠義とは違い今風の頭も持つ重樹は、既にシンジに関する資料を手に入れており、片鱗とは言えその危険なまでの能力は知っていた。そして、シンジの場合もっとも危険なのはその交友関係であることも、既に知っていたのである。
 まして、忠義が赴いたのはその中心点とも言えるドクトルシビウの牙城であり、それだけに無事に帰ったと聞いた時は、ほっと胸をなで下ろした。
 がしかし。
 単身出向いた以上、重樹が諫めても聞くとは思われず、それはそのまま碇シンジと愉快過ぎる仲間達を敵に回すことを意味している。娘が管理人にあっさり捕まっている事も、内々で知っている重樹なのだ。
「それにしても早まったことを…」
 頭を抱えた重樹に、
「如何なさいますか。このままでは、碇財閥を敵に回すことになりますが」
「いや、それはない」
「はっ?」
「資料にもあるが、実家の力を頼むようなタイプではないし、介入もおそらく断るだろう。だがそれだけに手に負えないのだ。碇シンジのバックは…実質は魔道省その物だからな」
 庁の上に省があるが、魔道省は最初から魔道省であり、その存在と影響力の大きさは歴然としている。どう考えても、そんな碇シンジを殺すならともかく、堂々と敵に回すとは正気の沙汰とは思えなかった。
「では会長をお諫めして−」
「それは無理だ。会長が私の言う事に頷かれるとは思えない。今はただ…静観と祈るしかないな」
「祈る、とは」
「すみれのあの性格は、生来の物に加えて母のいない事で私達が甘やかしたからだ。だがそのすみれでもこればかりは、まず手に入る物ではない。すみれもそれは分かっている筈だ、だとしたら…万が一にも諦めて帰ってくるかもしれない」
 ほぼあり得ぬと知りながらも、それ以外に打つ手立ての無い重樹だったが、こればかりは重樹が無能なわけではなく…単に相手が悪かったのだ。
 
 
 
 
 
「シビウよ」
「大逆だ。ドクトルシビウ、留守にして済まなかったな」
「別に構わなくてよ、私から電話したのだから」
 受話器から聞こえる太い声に、シビウは婉然と笑って応じた。
 林原魁偉が、脳内手術に関してはシビウに次ぐと言った医者、大逆十太であった。白衣を脱げば極道としても十分通りそうだが、シビウを名で呼ぶ事はしない。
 人たる中で、それを出来る存在は唯一なのだ。
「で、何があった?」
「役に立たないのを、何人か預かってもらいたいの」
 普通に聞けば失礼率最高の台詞を、シビウはあっさりと口にした。
「役立たずってことは、あの世に送るのを寸前で止めたか」
「そうよ」
 だが、椅子に軽く身を沈め、受話器を手にした姿の何と美しい事か。吐息が言葉と共に宙に溶けるたびに、その部分だけ恥じ入って色が変わるようにも見える。
「ミスをしでかした職員を始末する雇用者じゃないな−想い人絡みか?」
「さあ、ね。どうかしら」
 思わず前を押さえそうな口調で言うと、
「それで?」
 聞き返した口調は、瞬時に元に戻っている。
「分かった、いつでもうちに回しな。少しはまともにして帰してやるよ」
 世にも妖麗な院長から、想い人の名前を聞き出すのはあっさり断念した。無論答えが分かっているのに加えて、今は押せぬ時と判断したのだ。
 受話器を置いてから、
「医療ミスったって、骨折くらいまでなら自分で治すタマだろう。いったい何をしでかしたんだ」
 高い自己修復能力を持つシンジの事を知る者とすれば、当然の台詞を呟いた。
  
 
 
 
 
「ふえっ?」
 逃がさぬ必殺の一撃に、やむなく飛翔しようとしたシンジだが、結局それはならなかった。
 爪までもにゅうと伸びた手が、シンジを襲おうとしたまさにその瞬間、割って入った何かに吹っ飛ばされたのだ。
「おんな」
 思わず口にしたのは、長身と肉感的な肢体にどこか見覚えがあるような気がしたが、
「そんなものは知らん」
 と、本能が知り合いの照会結果を伝えてきたからだ。
「どちらさ−」
 どちらさん、と言いかけてシンジの表情が固まる。いや、正確には凍りついたのだがこんな表情など、それこそ半世紀に一度あるかないかに違いない。
「レ、レニ…」
 呆然と呟くシンジに、
「ただいま〜」
 レニはにこりと笑いかけた。
 シンジの知るレニの面影は残る−だが、あまりにも印象の異なる娘がそこには立っていた。何しろ、身長からしておそらく十五センチ近くは伸びていよう、張り出した胸と尻もまた、シンジの知る従妹ではなかった。
 だがそれも一瞬のことで、悽愴とも言える表情を見せると、
「これ?」
 織姫の髪を掴んで片手で持ち上げた。
 つい呆然としていたシンジが止めなかったら、そのまま壁に叩き付けていたのは間違いない。
「止せレニ。それから落とすな」
「…分かった」
 シンジが言わなかったら、これまたべしゃっと落としていたはずだ。
(取りあえず落ち着け)
 自分に言ってから、シンジは軽く首を振った。
 背中にいる娘…神崎すみれ。
 倒れている娘…ソレッタ・織姫。
 目の前の娘…レニ・ミルヒシュトラーセ。
「よし、状況は分かった」
 自分に言い聞かせてから、
「レニ…お帰り」
「はい…」
 シンジの言葉にレニの双眸がみるみる潤んでいく。
 ちゅ。
 シンジにしては珍しく、レニを引き寄せると涙の溜まった瞳の下に軽く口づけした。
「シ、シンジ…」
 ぽんっと真っ赤になったレニに、
「この娘に用がある。レニ、悪いけどすみれを連れて帰ってくれる」
「これ、知り合いなの」
 地に伏した織姫に向けた視線は、一瞬で凍てついた物へと変化しているレニに、
「俺が知ってる、でも知らない娘だ。シビウの所に運んで行かなくちゃならないからレニ、頼むね」
「…シンジがそう言うなら」
 やや不満げではあったが、その大半はシンジと帰れない事にあったに違いない。
 だから。
 よいしょと持ち替えようとしているシンジの袖を引っ張って、
「シ、シンジあの、ね…」
「何?」
「も、もう一回…」
「あーん?」
 ほんの少し前に、それでも遠慮がちに突き出された唇だったが、小さな音はレニの頬でした。
 白い指でそっと頬に触れてから、
「先に帰ってるから、早く帰って来てね」
「分かってる」
 シンジが頷くと、すみれを受け取ってそのまま夜の闇に姿を消した。
「ところで…あれ本物のレニなんだろうな」
 首を幾分傾げながら呟いた後、携帯を取りだして短縮ボタンを押した。
 
 
 
「奴はどうした」
 救急車がサイレンを鳴らして到着したが、シビウがいない事に気付いたシンジの第一声がこれであった。
「…院長は大逆病院の方へ行っておられます」
 いかにシビウの知己とは言え、あまりと言えばあまりの発言である。さすがにまともに顔をしかめたりはしないが、絶対信奉者がほぼ十割に近いシビウ病院の看護婦達であり、声が幾分固いのは仕方あるまい。
「まったく使えない奴だ。で、何しに来たの」
「患者の搬送と命令を受けていますが」
「そんな事なら自分で運んでいく。顔と乳と尻が見たい、そんな理由で君らの敬愛する院長を呼びつけた訳じゃない」
「わ、私達は別にその、シビウ病院に勤務することの−」
 言いかけた若い看護婦を、シンジはすっと手で制した。
「ちょっと静かにして」
「え?」
 看護婦が怪訝な表情になったその時、
「が、あ…」
 織姫の口から洩れたのは、とても乙女の物とは思えぬ声であり、看護婦達が一斉に身構えた。
 しかしシンジは反応せず、
「俺を始末して身体を乗っ取る、その案はどうなった?」
 かがみ込んで訊いた。
「失敗したわ、残念ながら」
 明らかに声質の違うそれだったが、口調自体ははっきりしていた。
「で、どうする?」
「どうもしないわ−私の勝ちよ」
「何?」
「召魂の術、これが熟成された時にこれが意味する…かはっ」
 どろりと口から鮮血が流れでた瞬間、シンジの顔色が変わった。
「しまったっ」
 珍しい焦燥の色に妖猫は織姫の姿で、にっと笑った。
「この…身体を出ることなく…死ねば…このむす…託生…」
 そいつが言った通り、シンジを倒してその身体を乗っ取れば、シンジが死ぬだけで織姫もまた普通の生活を送ることは出来る。
 だが、その前に霊の存在が消滅すれば、それはそのまま織姫の死を意味するのだ。しかしながら、もしそうだとすればシンジを襲ったのは純粋にこの霊の仕業と言う事になるのだが。
 シンジは攻撃していないからレニの一撃が致命傷となったのだろう、織姫の肢体は断末魔の痙攣を見せ始め、シンジの手が及ぶほんの一瞬前にがくっと首を折った。
 織姫の身体に取り憑かされた霊は、何らかの事情で目覚めて新しい身体を、否自分の肢体を求めてシンジを襲った。そしてそれが叶わぬと知った時、織姫の命を道連れにする事を選んだ。
 やや焦りの色を見せてシンジが織姫の手首を取ると、そこは既に生者の反応を返しては来なかった。
 それでもシンジがきゅっと唇を噛み、その手がある種の形を取ろうとしたそこへ、
「既に事切れているわ。既に手遅れよ」
 冷静な声がした。
 
 
 
 
 
(つづく)

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