妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第七十一話:絶対不可侵領域
 
 
 
 
 
「あの…原理は」
 包帯の取れたレニを、シビウは全裸のまま姿見の前に立たせた。肢体に艶、と言うより錆でも浮いていそうな面影はもう、影も形もない。
 それどころか、躰の中から脂がじわりと滲みだしているかのように、肢体そのものが艶めいており、少女と言うよりも女の身体に近い。
「大した事はしてないわ」
 執刀医は当然と言った口調で告げ、
「植物を育てるのに必要な物は何かしら」
「土壌と水と日光です」
「大方正解ね、君の身体もそれよ。与えられるべき本来の養分を浸透させて身体の基礎を作る。私の仕事は形作っただけに過ぎないわ」
「は、はい…」
 頷いたが、やっぱり分からない。
 今日退院といきなり告げられたのだが、最初に自分を見て以来ショックは抜けていない。と言うよりも、自分は自分なのかと疑っている節さえある。
 そのレニに対し、
「言って置くけれど、良いことばかりではなくてよ」
「え?」
「私が手を入れたのは身体だけではないわ。他の依頼主ならともかく、シンジから依頼された以上役立たずでは返せない。これを」
 そう言ってシビウが手渡したのは、銀色に光る指輪であった。指輪を着けたレニに、
「身体能力も大きく上げたが、それと一緒に別に能力も付けてある」
「別の?」
「いずれ分かる事だ。それより」
 シビウがしなやかな指を乳房に伸ばすと、レニはびくっと身を震わせた。
「やはり感じすぎる、か」
 食材を吟味する職人の口調で言うと、そのまま一気に手を体内に滑り込ませる。
「見ない方がいい」
 シビウの言葉に、レニが慌てて目を閉じた三秒後、腕はすっと引き抜かれた。血は一滴も付いていない。
「では」
 もう一度乳房に触れ、今度は少し力を入れたかに見えたが、
「どうかしら」
「あの…な、何も感じないです」
 結構、とシビウは頷いた。
「今ので感じたらそれこそ再調整が必要だ。これでも最初は少し感じやすい筈だが、じきに慣れてくる。ただし、シンジの指には合わせていないからそのつもりで」
 一瞬言葉の意味が分からず、
「え…あ、は、はいっ」
 慌てて頷いたのは、十秒ほど経ってからの事であった。
 
 
 
 
 
「あの娘に任せたのは失敗だったな、マスターよ」
「……」
「首が吹っ飛んだなら、シビウ病院で十分以内限定で治せる。だが内部からの死因であれば、シビウの手でも無理だ。マスター、どうする?」
「治せ」
 シンジの返答は早かった。
 しかし人の及ばぬ領域−すなわち死すら操るフェンリルは出自を考慮すれば、異常な事とも言いきれないが、わざわざシンジに訊ねることもあるまい。
 シンジを襲ったとは言え今は素に戻っているし、シンジの反応を見れば直ちに蘇生させても良かろう。それをあえて訊いた風に見えた理由は何処にある?
 その理由はすぐに知れた。
「良かろう」
 何故か冷ややかとさえ聞こえる声と共に、すっと上がった手がシンジの体内に差し込まれたのだ。
 当事者達は無論知らないが、ここまではレニの乳房に吸い込まれた、シビウの腕と同じ−だが決定的に違うのは、次の瞬間シンジの身体がぐらりとよろめき、
「か…はっ、あ」
 口からどっと血を吐き出したのだ。唇を切ったとかそんなのではなく、文字通り刃物で一斉に刺されたような感じであり、その顔はみるみる蒼白になっていく。
 フェンリルはまだ腕を抜かない。
 妖艶な美女が男の身体を深々と貫いている様は、喀血も伴って異様な光景となっているが、フェンリルの表情には何の感情も見て取れない。
 数十秒が経って、シンジの顔が文字通り白蝋と化した時、ようやくフェンリルは腕を抜いた。シビウのそれとは違い、こちらは手首まで朱に染まっている。
 見ていた看護婦達も、さすがに茫然自失の態となっているが、口を挟む事すら出来ない。
 そのまま織姫を引き起こすと、今度はその心臓部に肘まで突き入れた。
 十秒、二十秒と経ち、そして四十秒が経過した時、絶命した筈の織姫の肢体がぴくりと動いた。目は開かないもののゆっくりと胸が上下を始め、生きたる証を示したのを見てからフェンリルは腕を抜き出した。
「息絶えし者を蘇生させる術−以前の私なら造作もないが、この姿では多量の精を必要とする。採取元が人間なら生命力そのものだが、マスター無事か」
「なんとか」
 蚊の鳴くような声で答えたシンジだが、それも無理はあるまい。生命力を、とフェンリルは言ったが、果たしてシンジが喪ったのはただの血液だったのか。
 無論人間は一定量以上の血液を喪えば、自動的に死亡できる便利な生き物である。木乃伊と化してなお、生き続ける事は出来ないのだ。
 だがよく見ると、シンジが喪ったのは血液だけではない。その頬すらも、ほんの僅かな間で肉が削げ落ちているではないか。恐怖、或いは怒りや悲しみの感情から、一晩で人が真っ白な白髪頭になる事はある。しかしこの状況自体を別にすれば−シンジは初めてには見えない−何がシンジの顔の形すらも変えたのか。
 脇侍の大群を前にして、妙に嬉しそうな顔をしていたこの青年は、今や足元すらもふらついているように見える。
「なぜ、ここまでこの娘に思い入れる?そこまでする必要はあるまい」
「まあね」
 シンジは曖昧に頷いたが、誤魔化したと言うより気力がもうないと言った方が正解だろう。
「でもこの娘は、自分一人の命じゃない。親父が魂を賭して救ったものを、媒体の暴走如きで死なせるわけには行かないよ」
 ややふらついた口調で言うと、
「すぐに戻れるか」
 と訊いた。
「出来ないことはないが、マスターにも色々と所用があるはずだ。この娘は私が連れて行く、三日もすれば元の状態に戻せるよ」
「分かった。じゃ、よろしく」
 フェンリルが腕に織姫を抱き、自分の影にすっと溶け込むのを見てから、シンジは大きく息を吐き出したが、それで糸が切れたかのようにぐらりとよろめいた。
 あわや倒れ込むかと思われた刹那、音もなく後ろに立った影がその身体を支え、
「碇様、ご無事ですか」
 闇の声で囁いた。
 
 
 
 
 
「レ、レニ?」「レニなのー!?」
 すみれを背にレニが女神館に帰ると、シンジよりも派手なリアクションで住人達は大騒ぎになったが、
「すみれが寝てる、騒がないで」
 レニの一声に静まりかえった。
「で、すみれはどうしたのよ」
 アスカの問いにレニは首を振った。
「分からない。僕はシンジに送ってと言われただけだから…何?」
 すみれを広間のソファに寝かせたレニが、自分の台詞に反応した住人に気付いた。
「レニ、今碇君の事シンジって言わなかった?」
「それが何か」
「碇君と知り合いなの?」
 レニは何故かすぐには答えなかった。
「レニ?」
「僕の許嫁だから」
 何故か突如、にっと笑ったレニの表情は、明らかに思いだしたような笑みではなかった。
「レニ…それどーいう事」
 ぴくっと眉の上がったアイリスに、
「結婚式にはアイリスも呼んであげるよ」
 宣戦布告みたいな、と言うよりそのもののレニの台詞に、一瞬周囲に危険な気が渦巻いた。
 
 
 
 
 
「麗香か、相変わらず情報が早いね」
「夜は私達の時間です。それより碇様、すぐに手当を−はい?」
「その胸強調型のメイド服、どこで手に入れたの」
「部下に手配させましたら、数十着を持ってきましたので一番大人しい物を選んでおきましたが…」
 不安げな麗香だったが、胸がきゅっと持ち上げられていやでも目に付くようになっている。まして、麗香の肢体では効果十倍である。
 これで大人しいとは配下は一体何を持ってきたのかと思ったが、
「羽の生えたメイドさん−悪くはないか」
 朧気に笑ったのみであり、
「…治療って何を?」
 訊いた時、既に思考が朦朧としているのをシンジは感じ取っていた。
 それに気付いた麗香の表情が一変し、
「血をお入れするようにと、兄から命じられて参りました。碇様、失礼致します」
 シンジの返答はまたず、シンジを引き寄せるとその首筋に乱杭歯を突き立てた。
 吸血鬼に噛まれたシンジ−だが不思議と痛みは感じず、むしろ蚊が刺した後のようにむず痒い感覚に包まれた。
「普通は噛まれると…!?」
 噛まれると血を吸われる、そう言いかけたシンジの目が見開かれたのは、意識の急激な覚醒を知ったのだ。
「これは…麗香っ」
 ふらっと崩れかけたメイド姿の吸血鬼を、今度はシンジが慌てて支えた。
「吸血鬼に取って…血は命そのもの…少しでもお役に立て…」
 麗香が言うとおり、吸血鬼に取って血とは生命その物を指しており、それを急激に喪った麗香はゆっくりとシンジの腕の中に倒れ込んだ。
「麗香、礼を言う」
 シンジがひっそりと囁いたのは、それが造り物等ではなく、自分の血液そのものを注ぎ込んだと知ったからだ。
 ふと首筋に手を当て、
「注射の痕が…ないぞ」
 呟いた時、
「注いだのであれば、傷口が残ることはありません。ご安心を」
 夜の貴公子の声にシンジは振り返った。
「神の右手の蘇生術、私もお目にかかりたい所でしたが。碇さんは以前にもおありでしたか」
「いや、ない。もっとも、ここでぶっ倒れていれば、シビウの地下室で改造されていた可能性が高いな。夜香、十分に手当てしてやって」
「承知しました」
 軽く一礼した夜香に麗香を渡し、
「従妹に運搬人を頼んだが後が心配だ、今日はこれで帰る」
「ではまた」
 夜の貴公子が腕に妹を抱え、夜空へ消えていくのを見送ってから、
「吸血鬼に血を注がれるとは思わなかったが…麗香、いずれお礼はするよ」
 麗香達は無論シンジを見張っていた訳ではなく、暮れた空を飛び回る蝙蝠達から情報を受け取って急ぎ駆けつけたに過ぎないが、シンジのこの言葉を聞けばうっすらと微笑んだに違いない。
 
 
 
 
 
「木喰、木喰はいるか」
「はっ、お呼びでしょうか葵叉丹様」
 片目にブローチらしき物を嵌めた、奇妙な老人が音もなく葵叉丹の前に平伏した。
「脇侍、銀角の戦力状況はどうなっている」
「はっ、順調に整いつつありますが、まだ全面攻勢には出られないかと…」
「そうか。まあよい、大増量を命じたのは私だからな。碇シンジがまたも我らの妨げとなる以上、周囲の雑魚は一蹴できるだけの力は手に入れておかなければならぬ」
 雑魚、とは女神館の住人のことか。
「しかし、かと言って放って置くわけにもいかぬな。まず一泡吹かせておきたいところだが…」
「葵叉丹様、私が」
 首を捻った葵叉丹に、すっと女が手を上げた。
「水狐か、してどうやって…」
「当てになる方がいいでしょう、私が行きます」
 対抗心も露わに挙手はミロクであり、
「ふん、あんな坊やに乳を吹っ飛ばされた女に何が出来る」
「木偶の坊を担いで、敵前逃亡しか出来なかった女が何を言う」
「なんだと!」
「このあたしとやるっ…」
 言い終わらぬ内に水狐の手が伸び、ミロクの頬が乾いた音を立てた。反射的にミロクの腕がにゅうと長さを増し、二人の女が掴み合いを始めた所で奇妙な現象が起きた。
 二人とも宙に持ち上げられたのだ。
「いい加減にしておけよ、二人とも」
 髪を掴み合う二人を持ち上げたのは、極めて肉感的な女であった。
 いや、肉感的と言うより強烈な肉体と言うべきだろう。更に特筆すべきは、その手の本数であった。
 それは…二本にあらず六本の数を誇っていたのである。
 ひょいと二人を降ろすと、残った手で掴み合った手をぐいと引っ張って離させた。
「嫌い合うのはいいが、葵叉丹様の前って事は忘れるな。それに、味方同士でいがみ合っていて敵のへんな優男に勝てるのか?」
「『ふん!』」
 ぷいとそっぽを向いた二人に苦笑して、
「葵叉丹様、ここは自分が行きます」
 名乗りを上げた筋肉女だが、
「待たれよ、土蜘蛛殿」
 木喰が止めた。
「先だって金剛殿が行って、あっさりと返り討ちに遭っている。本来ならミロク殿と水狐殿が協力するのが一番良いのだが…」
「『どうしてこんなのと!』」
「色仕掛けの方が面白いからよ、お二人とも」
 木喰の一瞥で決まり悪くなって視線を逸らした。
「敵は、と言うより恐るべしは碇シンジただ一人。あれをかき回すには女の色香が合った方が面白い。とは言えそれがならぬ以上葵叉丹様、ここは違うモノを使うといたしましょう」
「ちがうもの、とは?」
 犬猿の仲のミロクと水狐だが、自分の寵を争っていると知っているだけに、葵叉丹もあまり強くは言えない。
 要するに、自分の方が葵叉丹の役に立つと二人とも譲らないのだ。
「あやつの元に、神崎すみれと言う娘がおります。なかなか生意気な娘ですが、これの祖父が碇シンジを良く思ってはおりません。しかも何をとち狂ったのか、孫娘の呼び戻しを命じました」
「で?」
「孫娘を強制的に呼び戻すという事は、すなわち碇シンジを敵にする気になったと言う事にございます。であれば、存分に敵となっていただきましょう」
「なるほど…面白いな」
 ふむ、と頷いてからまたそっぽを向いている二人に、
「水狐、ミロク、貴様ら二人で…なんだ−」
「神崎重工総帥神崎忠義にございます」
「その神崎忠義を拉致、及び洗脳してこい。仲違いしても構わんが、失敗したら両人とも私の前に出ることは許さん」
 反目する二人に、無理矢理一つの任務を命じた葵叉丹。これならば、否が応でも協力せざるを得ない。その失敗が、目通り叶わぬと言うもっとも恐れている事態を招くならば。
 一瞬顔を見合わせすぐにそっぽを向きかけたが、
「期待している」
 葵叉丹の言葉にころっと笑顔になると、
「では行って参ります」「吉報をお待ち下さい」
 肩を並べて出て行った。
 二人の姿が消えた後、
「葵叉丹様、本当に期待しておられるのですか」
「誰がするか」
 葵叉丹の言葉は冷ややかな物であった。
「碇シンジというもっとも厄介な敵がいるのに、仲間割れするような女達に側にいられては迷惑だから行かせたのだ。あんな事は三歳児でも出来る」
 吐き捨てるように言ったのを二人が訊けば、どんな表情をするものか。
「やはり、そうでございましたか」
 
 
 
 
 
「あの〜」
 シンジが帰ってくると住人達が全員揃っていたが、妙な雰囲気が出迎えた。
(何事?)
 内心で首を傾げたが面には出さず、
「レニ、すみれはどうした」
「碇君の部屋に運んで置いたよ。それでいいんでしょ?」
「うん、それでいい。レイが持っていったの?」
「だってさー、下でなんかしゅ…はぶっ」
 強烈な肘が後ろから入り、レイはあっさりと沈没した。と、その下手人のアスカが何事もなかったかのように、
「ところでシンジ、許嫁ってどういう事かしら」
「え?」
「レニからきーたんだけど?」
「許嫁?レニ?レニ…思いだした!」
 シンジの首が回転し、視界の中にレニの肢体を捉える−胸の大きく張り出したその肢体を。
「レニちょーっとおいで」
 ぴゅうっ。
 それはもうすばらしい動きでレニを小脇に抱えると、あっという間に部屋から出て行ってしまったシンジに、
「ちょ、ちょっと何よ今のっ」「ゆ。誘拐犯みたいでしたね」
 一瞬唖然としたが、すぐ我に返って追いかけようとするのを、
「大丈夫、すぐ戻ってくるわ」
 マユミが止めた。
「なんでそんな事が分かるのよ」
「勘よ。それよりも、邪魔されると後が怖いと思うんだけど」
「くっ…戻ってきたら絶対とっちめてやるからねっ」
 で、そのとっちめ計画の対象人物はと言うと…レニの胸を押し開いていた。
 正確に言うと、
「レニ…こ、これ本物?」
 さっきは暗くてよく分からなかったが、貧から巨へと、一気にランクアップした胸に軽いパニックを起こしてるらしい。
 極めて珍しい現象だが、レニはにこりと笑って、
「触っていいよ…ほら」
 シンジの手を自分の胸に押し当てた瞬間、
(ひうっ!?)
 そこから、まるで電流でも流れたような快感が走り抜けた。
「『ど、どうしてこんな…』」
 同時に呟いた二人だが、無論意味合いはまったく違う。
「シビウのやつー!」
 シンジの反応に、
「シンジは…小さい方がいいの?大きい胸はいや?」
「そうじゃないけど、急に変わってたから少しびっくりした。これだと87のD位?」
 レニはそれには直接答えず、
「触ればわかるよ、ほらシンジ」
 あっという間に第三ボタンまで開けると、完璧に谷間の出来ている胸を持ち上げてみせる。ついシンジが開かれたブラウスに手を掛け、
「ほ、本物だ…」
 学校でいきなり花子さんにでも遭ったような声を出したその時、
「なーにやってるのかしら」「碇さん…何してるんですか」
 棘が五十本くらい生えたような声がしてシンジが振り向くと、
「こんの変態がー!中学生相手に何やってるのよっ!!」
「ウギャー!!」
 ひゅるると飛んでいったが、体調が完全ではないせいかすぐに落ちてきた。べしゃっと落ちたそいつを踏みつけながら、
「レニ!あんたも何で抵抗しないのよ。こいつは変態なんだか…」
「僕の身体はシンジの物なんだから関係ないね」
「な…何ですって」
「この際だから言っておくけど、シンジは誰にも渡さないよ」
 本人を前にした宣告に−女に踏まれた状態ではあるが−そこの空気にびしっと亀裂が走り、
「うぎゅー!!」
 これは無意識ではあったが、踏む力が一層増したアスカの下で、シンジが潰れた悲鳴を上げた。
 
 
 
 
(つづく)

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