妖華−女神館の住人達
第五十六話:DD10−吸血鬼からのお土産
空港の到着ロビー。
掲示板が到着便の状況を伝え、出口から人々が吐き出されてくる。
いつもと変わらぬ状況だが、今日に限ってはやや事情が異なっていた。
老人の、あるいは体の不自由な客の手荷物を手伝うスチュワーデスが、あるいは波のように動く人々が。
その視線がどれも、一点に向けられているのだ。
それらを一身に受けているのは、ダークグレーのスーツに身を包み、サングラスで相貌を隠した青年であった。
どこかの芸能人みたいな格好だが、凄絶なまでの気が安っぽい芸能の烙印を強烈に否定する。
「あ、あ、ありがとうございました…」
接客を徹底的に仕込まれ、どんな芸能人でもスターでも、眉一筋動かさないベテランの彼女たちが、陶然となって見とれ、体にたたき込まれた教育がかろうじて反応する。
どさっと音がして、若いスチュワーデスが持っていた手荷物を落とした。
腰の曲がった老婦人の物だったが、落とした方は無論、落とされた方すら気づいていない。
文字通り、男女老若を問わず虜にしていたのだ。
だが、衝撃はそれだけでは収まらなかった。
傾国の美女でなければ、その横に立つのは務まるまいと思われた美青年だが、出迎えたのもこれに相応しい美女だったのだ。
こちらは紺色のスーツに身を包んでいるが、青年同様服が釣り合わないと悲鳴を上げている。
何を着ても似合う、という単語があるがあれは嘘だ。
これだけのレベルになると、着る方が服を選ぶのであり、釣り合わぬそれが選ばれた場合、服の方が色あせて見えてしまう。
「お帰りなさい、兄上」
軽く頷いた青年に、人々は二人の関係を知った。
彼らが同便に乗り合わせた乗客の、いやロビー中の視線を集めているのは、既に娘がその役割を買っていたからだ。
そこへ類い希なる美貌の青年が合流したのでは、人々の視線を全て受けるのも無理はない。
素質は、サングラス程度で覆いきれる物ではないのだ。
手入れの行き届いた床ながら、ほとんど足音を立てずに、二人はその場を離れた。
駐車場への連絡通路を歩きながら、先に口を開いたのは娘の方であった。
「碇様の事はお伝えしましたのに」
確認とも、咎めるとも付かぬ微妙な言い回しであった。
「分かっている、連絡は受けていたよ」
軽く頷いた兄だが、ではなぜとは言わなかった。
無論それが分からぬ兄−夜香ではなく、
「手ぶらで、碇さんにはお会いできまい。それならば、永久(とわ)に棺にこもらなければならぬ」
いつもと変わらぬ兄の口調が、至極些細ながら変化したのを麗香は知った。
そしてもう一つ、すっと触れたスーツの胸元に、相応しい品を見つけた事もまた。
「お久しぶりですね、シンジさん」
「久しぶり。で、いつ帰ったの?」
「今朝方空港に。本当は、もっと早くお邪魔しても良かったのですが」
一瞬だけすみれに向けた視線は、まさしく夜の一族そのものであり、もしもすみれがそれに気付いたら、それだけで気死していたかも知れない。
背丈はシンジの方が高い。
麗香を交えて三人で歩くと、シンジの長身はやはり際だって見える。
だが。
その美貌はシンジでは到底及ばず、全身から放たれる妖気のようなそれも、やはりシンジの及ぶ所ではない。
とは言え、人外の美にシンジが及ばないのは、逆に言えばシンジの人たる所以でもあり、これが夜香に並ぶような事でもあれば、さくら達はおちおち管理されていられないかもしれない。
シンジのそれは、あくまでも整った目鼻立ちであり、美のそれとは異なっている。
しかし劣る存在の筈のシンジに、麗香はあくまで礼儀を失わず、夜香の口調もまた目下の者に向けるそれではなかった。
すみれの右乳に手を当てているシンジに、
「一つ、お訊ねしてもよろしいですか」
「何?」
「さっきの風術、手加減されましたね」
すみれを庇おうとシンジが放ったそれを、手加減したものだと夜香は言った。
シンジはすぐには答えなかったが、その手からは微量なエネルギーがすみれの体内に注ぎ込まれている。
無論、胸の触感など範疇にある若者ではないが、すみれは既に全身をシンジに見られている。
そしてアスカも。
アスカはまだしも、完全な箱入りで育ち、男に肌を晒すなどあり得なかったすみれに取って、短期間で二度も肢体を同じ男に見せるなど、まして触れさせるなどとは考えもしなかったに違いない。
数秒して、シンジはすっと手を離し、
「おみやげ」
と、夜香に手を出した。
夜香の名を知る者なら、誰でも顔面蒼白になりそうな振る舞いも、うっすらと口許に浮かんだ微笑で迎えられた。
「これを」
夜香が懐中から取りだしたのは、ガラスの小瓶であった。
中には、銀色の粉末が詰まっている。
「ほんとうは−シンジさんを第一号にしたかったのですがやむを得ません、その娘さんにお使い下さい」
手渡されたそれは、周囲につもる雪よりもなお妖しく、そして美しく輝いて見えた。
「俺を一号〜?」
シンジの視線から、すうっと夜香が顔を逸らす。
その反応で、シンジは瓶の中身の想像がついた。
「まあいいや、ありがと」
取りあえず蓋を開け、掌にこぼす。
砂よりもなお軽く、まるで雲か何かのようなそれを、あっさりとシンジはすみれの胸に落とした。
あるいは−シンジには分かっていたのかも知れない。
そう、その効果を。
すみれの傷口は急速に塞がっていったのである。すみれのそれは、明らかに致命傷であり、それは鮮血に染まった雪がはっきりと示している。
それを瞬く間に治癒させるとは、ドクトルシビウの神髄でしか、他では見られまい。
胸が大きく隆起するのを見てから、シンジはよいしょと立ち上がった。
すみれの身体にコートを掛けるシンジに、
「女子寮などとお聞きして驚きました。ですが、先程ので幾分は安心しました−シンジさんはいつもの通りだ、と」
「永遠を夢見る吸血鬼に言われると、くすぐったくなるな。ところでこの成分は?」
「月の欠片」
夜香は短く答えた。
「おっかしいわね〜」
女神館の住人達は皆娘、すなわち女と言う事もあってか、おやつに関してだけは一致していた。
例えば、すみれが運ばせるのはあくまで材料であり、それを菓子に昇華させるのはさくらであり、あるいはマユミであった。
一方、焼き芋当番とでも言う役職は、アスカとレイのものとなっていた。
こんがりと焼く火加減にはアスカの能力が流用され、終わった後はレイの消火が使われている。
シンジとは異なり、皆一つの属性しか持っていないが、こんな使い方もあるらしい。
テーブルの上に、山と盛られた焼き芋も既に半数以上が姿を消しているが、この場には人数が足りない。
すなわちシンジであり、すみれである。
シンジは大抵、食事の時間はちゃんと合わせて顔を出すから、いない事はまずない。
すみれの方もシンジが来てからは、と言うよりアスカと仲直りしてからは、ほぼ合わせるようになってきた。
それだけに、二人が揃っていないと、食堂も妙な空白に覆われる。
「すみれはともかく、シンジまでいないってのはどういう事よ。マユミ、あんた何か訊いて…こらっ!」
びくっ!
「な、なにっ?」
「なにっ?じゃないわよ。あの二人がいない事、何か訊いてない?」
「え、わ、私は何もっ、べ、別にっ」
武士に二言はない、と言う。
概して、言ったことは翻意しない事から正直のそれも含んでいる。
いくら武道を教えられたからと言っても、また嘘のつけない性格だと言っても、これは墓穴のサイズが大きすぎた。
メンバー達が一斉に目配せすると、
「ふーん、ならいいけどさあ」
アスカがもういいわ、と言うように焼き芋に手を伸ばし、マユミがふっと安堵の息をついた所へ、
「ねえ、マユちゃん」
「なに?レイちゃん」
「あの二人、ホテルまでは行ってないんだよねえ?」
「い、いくら碇さんでもそんな破廉恥な事は…いいえ、そんな風紀を乱すのはこの私が許さないわ」
「じゃ、今頃はカラオケでも行ってるのかな」
「カラオケでも無事ならそれで…!?」
ふと途中で気が付いた。
自分が何を口走ったのかを。
「マユミ…無事ってなあに?」
にっこり笑ったアイリスだが、目には早くも危険な光が宿っている。
「あんた、何か知ってるね?」
おとぎ話の老婆のような口調と共に、アスカがじろっとマユミを見る。
「わ、私は何もっ」
脱兎のような身のこなし…しかし相手が悪かった。
数歩と行かない内に、その身体はふわふわと宙に浮かんでいたのだ。
「話してくれるよねー?」
囲まれた時、マユミは自分が罠に落ちた事を、そして決して逃げられない状態になった事を知った。
「月の欠片?」
「物にはすべて、光と影があります。光があるからの影であり、影があるから輝ける光です。ですが、もしも影を消す物体があるとしたら?すなわち、大地の理を逆さにする物があるとしたら」
「血液は逆流し、流れ出した血液も元の場所に収まる。肉や骨もまた然りだな」
「その通りです」
夜香は軽く頷いて、
「北欧の神話にもその片鱗が見えるその銀粉、人間の治癒には絶大な効果をもたらします−いかがですか?」
「悪くない。むしろ、ドクトルシビウの嫉妬が怖いとこだ」
「構いません」
夜香は軽やかに首を振った。
「武者修行でもしてきたの?」
「いいえ−あなたに庇ってもらいますから」
妖光を帯びた視線が、まっすぐにシンジを捉えた。
「俺はそんなに強くないから駄目」
「相変わらず、ユーモアのセンスが足りませんね。ジョークは、もっと上手にこなすものです」
すっと夜香が踏み出し、一歩シンジが下がる。
乱杭歯に月光が映え、白い輝きを放った刹那赤い双眸からの赤光が消えた。
「忘れていましたよ」
夜香が低い声で言った。
「折角、碇さんと久方ぶりにお会い出来たと言うのに−無粋な輩はどこにでもいるものです」
その時になって、ようやくシンジは後ろを見た。
今までは金剛がいた事など、忘れたかのように見ようともしなかったのだ。
「…おっぱい?」
すみれの胸にも無反応だったシンジの俗っぽい口調に、夜香の視線がふっと緩んだ。
勿論、彼らの眼前に全裸の女がいた訳ではない。
魔装機兵−青みのかった色をしたそいつは、女の肢体の形をしていた。
しかもご丁寧に、乳首に当たる部分から銃口が突き出している。
で、何をしているかと言うと、ぶっ倒れた大日剣を引き起こしている最中だ。
「何時来た」
「つい先ほど、碇さんが治療をしておられる時です」
「何してるのさ」
「金色の物体−仲間の救助でしょうな。どうされます?」
「見たことないんだけど」
「え?」
「俺には見覚えがない。どうやら、あれも新手の一種らしいな」
ふむ、と刹那考え込んだ。
「やっちゃってもいいが…むっ」
乳首砲、とでも名付けるべきか、胸に付いている銃口が火を噴いた、と見えた瞬間シンジの身体は宙に浮いていた。
ただし、自分で飛んだのではなかった。
巨大な黒翼に、その身体はしっかりと包み込まれている。
「私の目の前で君に手を出すとは」
声は耳元で聞こえたが、吐息は全く感じられなかった。
その身体が反転したのは、次の刹那であった。
くるりと、九十度回転したかと思うと、シンジは片手に持ち替えられていた。
夜香はその片腕にシンジを抱いたまま、そしてもう片方の手から何かを閃光のように闇を切り裂いて投擲した。
月夜に絶叫が響き渡り、助けに来たのも助けられたのも、揃って地に倒れ伏した。
「うーん、お見事」
当主のみが持つ、強大な翼を見ながらシンジが言った。
麗香も、無論翼は持っているが、ここまでの物は持っていない。
「碇さんならば、瞬時にばらばらにしていましょう。五精使いと吸血鬼、歴然たる差です」
「でも今、碇シンジは宙で吸血鬼に抱かれてぶら下がっているし」
「その通りです」
耳元に聞こえた声は、今度ははっきりと吐息を伴っていた。
「禍根を断つなら今−如何されます?」
「放っておく」
今度はやけにあっさりと、そして即答したシンジであった。
「手に余る、が常に公約数な訳ではない−降ろして」
「分かりました」
ふわり、と地に着地するのと同時に夜香の手が軽く振られ、魔装機兵二体を呪縛していた何かがふっと消えた。
女体の形をしたそれが、大日剣を担いで逃げていくのを見ながら、
「うーん」
とシンジは首を捻った。
「どうかしましたか?」
「片づけた方が良かったかも知れない」
「は?」
「この帝都を、奴らに蹂躙させたくはない。無辜の住民を、あたら死なせる事もないと思ったが−」
「その前に潰せばいい事です。あの程度、居眠りしながらでも倒せるでしょう」
二人の口調に余裕があるのは、夜香もまたシンジの力量は知っているからと見える。
「さて、そろそろすみれを病院に運んでいくか。凍傷は困っちゃうし…ん?」
すみれに歩み寄ったシンジだが、その眉が僅かに寄った。
すみれは…息をしていなかったのだ。
胸に耳を押し当てると、ようやく生者の証が聞こえてくる。
「急激なそれは凡人にはきついもの−昏睡状態に陥ったのでしょう」
「とは言え、その方が運んで行くには楽ね。麗香、病院まで担いで持ってきて」
「はい」
勝手に患者の処置が決まり、シンジがそっちを向くと、麗香を従えたシビウが気配を立てずに歩み寄ってくるところであった。
「力量など、試す価値も無いはずよ。シンジにしては珍しい風向きね」
「実体験が一番だよ、何事にもね。それより麗香」
「はい」
「すみれはお前が運んでいって。いいね」
「…かしこまりました」
躊躇があったのは、感情の揺れでは無かったろう。
担いでくるように、シビウはそう告げた。
運搬は任せる、シンジはそう言った。
シンジの前で、すみれを肩に担ぐ?
麗香の首がわずかに振られたのは、誰に対してのものだったのか。
結局腕に抱かれて運ばれたすみれだが、翼にくるまない、と言う点で何とかシビウの言葉は果たした事になる。
相撲取りでさえ、麗香の手にかかれば赤子同然にあしらわれる。
にもかかわらず病院に着いた時、彼女は背中に冷たい物を感じていた。
すなわち…冷や汗であった。