妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第三十八話:カニと桜と女の意地−アスカ玉砕(中)
 
 
 
 
 
「さくら、俺の首でも切りたくなった?」
「べ〜つ〜に〜、ろんらころらいれすよー」
 すっかり舌が回らなくなったさくらを見て、呂律とは元々音楽関係の用語であり、たしか音階を診る用語だなどと、ふとシンジの脳裏をぼんやりと過ぎった。
 が、そんな事より目の前の酔っぱらいである。
「少し飲んだ?」
 沢山飲んだ、と酔っぱらいに告げるのは禁止である。
「すこうしらけれすぅ」
 手招きされたシンジが、ふとそっちを見ると椿が瓶を指している。
 そこには、一本空になった瓶が。
 少なくとも、一本は一人で空けたようだ。
 見かねたあやめが、
「さくら、ちょっといい加減にしな…」
 言いかけたのを、シンジはすっと手でおさえた。
「構わない」
 短い一言だが、なぜか妙な迫力を感じて、あやめはそれ以上の言葉を喪った。
「さくら、俺にも注いでくれる?」
 既に赤らんだ顔のさくらに、シンジがにこりと笑いかける。
 ふふっ、とさくらが笑い、
「もちろんれすよう」
 だが、はいと差し出したのは自分のグラスである。
 ぴくり、と空気が動いたがシンジは気にせず、注がれたそれをあっさりと傾けた。
 ほとんど、飛び込んでいくようなそれに周囲が見とれたのもつかの間、今度はそのグラスに、そのままワインとコニャックをミックスして注ぐと、
「飲む?」
 差し出された危険なそれも、
「はあいぃ」
 くい、と傾け…傾け…飲み干した。 
 ぼんっ。 
 奇妙な音と共に、さくらの顔がぼっと火を噴いたようになり、ぱたんと倒れるには数秒と要さなかった。
 シンジ、さくらの撃退に成功す。
 倒れ込んだそれを見て、
「悪いけDPその辺に寝かせて置いて」
 とこれは、なみなみと注がれたグラスを傾けたばかりとは、まったく思えぬ口調で告げた。
「え、ええ」
 あやめとかえでが、二人してさくらを担ぐのを見てから、シンジは回りを見回した。
 マユミ・レイのコンビ:背中越しに互いに寄りかかって睡眠中。
 量は不明だが、もうダウンしたらしい。
 アイリス:何時の間に持ってきたのか、ジャンポールを枕に、これもすやすやと愛らしい寝息を立てている。
 が、両親が見たらきっと嘆くに違いない。
「さて、そろそろ片づけるか」
 軽く伸びをした時、
「あ、あの碇さん…」
「ん?どうしたの」
「あの、私達もお手伝いします」
 とこれは、幾分顔の赤いだけの三人娘が歩み寄ってきた。
 飲めと言われて素直に飲んだが、酔うほどには飲まなかったらしい。
 まして、酔い潰れるほどには。
「そうだね、じゃ藤井と高村は皿を片づけて。榊原はグラスの方を始末してくれる」
「『はいっ』」
 きびきびと片づけて行くのを見て、大した物だとシンジは内心で感心していた。
 とそこへ、
「飲んだのに、あまり酔っておられませんのね」
 唯一、素面に見える者が寄ってきた。
 すなわち、神崎すみれが。
「そういうすみれも、殆ど酔っていないようだが。ちゃんと飲ん−なんでもないです」
 空になったワインの瓶を、それも二本手に持って揺らしてみせたすみれ。
 一本、単価にして五万以上はする代物だ。
 ただし、僅かながら吐息にアルコールの香りがあるのはやむを得まい。
 むしろ、異常なのはこちらだと言える。
「碇さん、本当に飲まれましたの?」
 目許をほんのりと染めたすみれは、妙に艶めいて見えるのだが、すっと顔を寄せてきたのだ。
「飲んだよ」
「でも、香りは少しもありませんわ」
「そうかな」
 曖昧に笑ったシンジに、すみれは話題を変えた。
「碇さん、あの…」
 少し声量がダウンして、
「先日は、ありがとうございました」
「何だっけ?」
「あの、お薬ですわ。とてもよく効きましたの。あれは、碇さんがご自分で?」
「イモリの尻尾と猫のヒゲ、それにオタマジャクシを混ぜて作った。甘味は黒砂糖で出してあるな」
 うん、と頷いたシンジに、さすがにすみれが一瞬口許をおさえた。
「冗談だよ」
 すみれの表情が緩むのには、十秒ほど掛かった。
「ちょ、ちょっと人が悪いですわよ」
 でも、とすぐに立ち直り、
「碇さんなら本当に作られかねませんわね」
「実は、ね」
 くすくすと、すみれが笑った。
「もう、その手には乗りませんわよ。そうそうわたくしが混乱すると思ったら、大間違いですわ」
 がしかし。
 
 
「魔女の秘薬?惚れ薬でも作るのかしら?」
「違う。黒いのと白いの、取りあえず一式知っておきたい。一般教養としてね」
「あなたの愛人は、教えてくれなかったの?」
「却下された。常世の物は、こっちにいる者にはきついらしい」
「それはそれは。では私が、手取り足取り教えて差し上げるわ」
「口頭授業でいいんだけどな」
 と、世にも妖艶な美貌の女医が、あれこれと教え込んだ事を知れば、おそらく卒倒したに違いない。
 
 
「それは残念」
 むう、と宙を見たシンジに、すみれが真顔になった。
「先日の降魔戦、お見事だったとお聞きしました。碇さんがおられなかったら、手も足も出なかったとか」
「手か足位は出たはずだよ」
 一瞬すみれの表情が動いたが、すぐに戻ったのは、それが揶揄したのではないと知ったからだ。
「ところでそれ、誰に聞いたの?」
「マユミさんですわ。何でも、唯一の生き残りだったとか」
 すみれが何を言っているのかはすぐに分かった。
 銀角を前にして、シンジの力のおかげで唯一起きていた自らの事を、マユミはすみれに告げたに違いない。
「どうしてと聞いた?」
 シンジの視界には、あらかた片づいた宴の跡が展開している。
 さくらを部屋まで持っていったらしいあやめ達も、戻ってきて片づけに加わった。
 五人の手で片づけられ、大釜以外は殆ど片づいている。
「碇さんに、何かをお借りしたとか。それと、一つお訊ねしたいのですけれど」
「なに?」
「敵のボスは、滅ぼされたようには聞こえませんでしたわ。ただマユミさんは、それは碇さんとの約定だから口外できない、とだけ」
「それでいい」
 シンジはあっさりと言った。
 無論年頃の娘だから、情で動く所もあるが、現時点ではマユミがもっとも冷静の特性は持っているとシンジは見ていた。
 あれがさくらだったら、おそらくシンジも告げてはいまい。
「え?」
「告げていい、と山岸が判断すれば、すみれにも言っている。言わなかったのは、それが重いと見たからさ」
「……」
 だが、その反応が面白くなかったのか、すみれの眉が僅かに寄った。
 それを見たシンジは、すみれの方は見ずに桜の木を見たまま、
「ところですみれ、今劇団のトップスターは誰?」
「え?勿論このわたくしに決まっていますわ」
「そうか。では演技力では、さくらはすみれにはまだまだ及ばないね」
「さくらさんがこのわたくしに?十年早いですわ」
 百年と言ったら、老婆と言おうかと思ったが、すみれは隙を与えなかった。
 もっとも、シンジの発想を読んだのかは別だが。
「演技力、それはある意味では自らを抑える力でもある。特に、修羅場に於いてのそれは大きな力を持っている」
「え?」
「それが無くて、力の大きい者はちょっと困る事もある」
「い、碇さん?」
「例えばさくらだ」
「さくらさんがどうかしまして?」
「現時点では、ここの住人達の中で霊力は断然のトップだ。それも、他の者はそう簡単に追いつけそうもない」
「なっ!?」
 はじめてすみれの表情が激しく動き、
「そんな、そんな事はありませんわっ!!」
 大きな声に、椿達の視線がこっちを向いたが、すぐに逸らす。
 だが、
「だからだよ」
 シンジの静かな声に、すぐ我を取り戻した。
「だからだよ、とは何のことですの?」
「俺が、そして山岸が他の住人達に言わなかった理由さ。俺が告げる事もおそらくは、それ以上に過剰反応をさせる事になる。もっとも、山岸との秘め事でもないし、いずれは分かる事になるだろうけどね」
 くっと、すみれが下を向いた。
 常に、我が前に道の出来ていたすみれに取って、シンジの言葉を認めるのはかなりの努力が要ったはずだ。
 総資産の上では、神崎重工は碇財閥に遠く及ばない。
 それはそのまま、シンジとすみれの差でもある。
 だが、従わせてきた使用人の数では、シンジはすみれに遠く及ばない。
 その気になれば、彼らの生命すら握れたシンジだが、基本的に使うことを好まなかった。
 一方のすみれはと言うと、常に彼らを使う事で自らの生活を成り立たせて来ており、ここへ来るまでは、箸より重い物など持った試しすら無かったのだ。
 その意味では、似たような境遇ながらかなりの異質と言えるだろう。
 だがすみれは顔を上げた。
 わき上がる物をぐっと抑え込んで。
「よ、よろしいでしょう。碇さんがお認めになったなら、仕方ありませんわ」
 何とか平静を保ったが、どうしても言葉の揺れは隠せない。
「それと碇さんがその気になったら、すべてを話して頂きますわ」
 ずい、と妙な迫力で迫る少女に、
「あ、はいはい」
 すっとシンジが身を引いた。
「そんな事より!」
 ころっと変わった口調に、これも女優業のなせる技かと、シンジが奇妙な感心をした所へ、
「え?」
「どうして、こんな事をされたんですの?」
「こんな事…今晩のこと?」
 すみれの顔に疑念を見て取ったシンジだが、さっきも答えたとは言わなかった。
 既に洗い物を始めたらしいあやめ達だが、もしこの場にいたら驚いたかも知れない。
「すみれならどうする?」
 と、シンジは奇妙とも言える逆問いを投げたのだ。
「わ、わたくし?」
 さすがにこれは予想していなかったのか、視線が宙を泳いだ。
「そう、すみれが」
 わざわざ名指しすると、
「自分に力があって、しかも大した理由もなく決闘を挑んできたとしたら、すみれはどうする?」
 シンジの問いに、すみれの表情が硬直した。
 
 
 
 
 
「碇さん達、何話しているんでしょうね」
 椿達は無論、シンジの診療の事など知らない。
 が、すみれがアスカ同様対シンジの急先鋒だった事は知っている。
 だからふと口にしたのだが、
「私達が知るべきことではないわ、多分」
 かえでがやんわりとたしなめた。
 正解であったろう。
「かえでさん、ご存じなんですか?」
 かすみが訊ねると、首を振ったのはあやめであった。
「いいえ、ただ分かっていることはあるわ」
「分かっていること?」
「世の中には、決して触れてはならぬ物があるの。私達はそれを、実体験で知る事になったわ。あなた達もそうではなくて?」
「『は、はい…』」
 あやめに言われずとも、それは嫌と言うほどに知った。
 それも、たった一人の青年に会った事で。
 ほんの少し流れた沈黙を破るように、
「ところであなた達、門の所の感じに気付いた?」
 かえでが訊くと、
「あ、はい。波動がなんか変わっている感じでした」
「私は何となく、入る時に足止めされたような感じが」
「あやめさん達も、感じられたんですか?」
 思い思いの返答が返ってきた。
「ええ、あれぐらい色が変われば分かるわ。ますます強くなっているもの」
「色?強くなっている?」
「御前様が、結界の色を変えられたのよ−碇君に」
 何故か、口からさん付けの言葉は出てこなかったが、自分でも理由は分からない。
「『え!?』」
「結界の力は、間違いなく御前様の時よりも強くなっている。この分なら…」
 この分ならどうなるとあやめが言おうとしたのか、何故か椿達は訊けなかった。
 ただ一つ言えるのは、初対面では敵対視そのものだった住人達を、ほとんど時間を掛けずにシンジが、友人とも言える位置まで変えたこと。
 そして、そのシンジは戦闘に於いて圧巻の力を持っていることであった。
 特に、戦場へ赴いたかすみは、役目が運転手だったとは言え、シンジの力の片鱗は見ているのだ。
 期せずして、五人の脳裏にある青年の姿が浮かんだ。
 だがそれが、何故か黒い風を帯びているような気がして、彼らの手は目の前の食器に専念した。
 が、なんとなく上の空だったせいで、シビウ病院から運ばせたその皿の合計値が、彼らの一生分の収入に匹敵することに、気付いた者は誰もいなかった。
 
 
 
 
 
「返り討ちにして差し上げますわ−勿論」
 自分の声を聞きながら舞台以上に、いや今までにもっとも平静を強いられた声だと、すみれは自分の台詞を分析していた。
 だから、
「その通りだろうね」
 シンジの肯定を聞いて、なぜか全身が安堵するのを感じていた。
「で、ではなぜ?」
 聞いたとき、幾分声が強ばったのを知った。
「面倒だから」
「はあっ?」
「帝都(ここ)に降魔は来る。俺がいれば、取りあえず殲滅は可能だ」
 撃退と言わず殲滅とシンジは言った。
 完全な滅びを指す言葉だが、何故か傲慢だと感じなかったのは、あるいは酒のせいかもしれないと、ふとすみれは考えていた。
「でもそれは、俺の役目じゃあない。対降魔用に選ばれた精鋭の娘達の、すべてを賭したそれが、刹那の過ちで無くなっては勿体ないでしょ?」
 口調は穏便だが、シンジは無くなってはと言ったのだ。
 つまり、シンジを向こうに回した事で、すべてを喪うこともあり得るのだ、と。
 だが、
「それは…碇さんの手に依って?」
 言葉は勝手に出た。
「かもしれないし、違うかも知れない」
 曖昧な表現の後、シンジは更に続けた。
「力と言うのは、時に人を不幸にもする。イリス・シャトーブリアン、例えばあの娘も変わったペンダントをしているな」
 その名は本名にも関わらず、聞くのは久しぶりだとすみれは思い出した。
「ご覧になりましたの?」
 やはりまだ、言葉が自分の物では無いような気がする。
「いや、使える超能力をあれほど押さえ込めるのは、碇フユノの手になる道具くらいだろう」
 他にもいるが、到底造る心当たりはシンジにはない。
「それで?」
「アイリスに力がなければ、そんな事にはならなかった筈だ。少なくとも、親元でもっと普通に暮らしていたかも知れない」
「余計なお世話、かもしれなくてよ」
 口にしてから、急速に顔から血の気が引いた。
 だがシンジは、
「ここに来たから?」
 と、あたかも読んだような答えを出してきた。
「そう。例えば−おにいちゃんが出来た事とか?」
 冷やかしてみたつもりだったが、すっとシンジが真顔になった。
「そう言うすみれは?」
「え…?」
「絶対に認めない、と言った姫はどこへ行った?」
「別に」
 返ってきた答えは、少し意外な物であった。
「口惜しくない、と言えば嘘になりますわ。でも、わたくし忘れていましたの」
「何を?」
「あれは賭けでした。でも、わたくしが負けたらどうするかは、提示していませんでしたわ」
「じゃ、素直に俺の家来に…ひたたた」
 ぴん、と放して、
「力のある者が上に立つのは当然、わたくしはただそれを認めただけです。それに…その…」
「?」
「そ、そんなにその…い、嫌な方でもありませんでしたし…」
 言いながら赤くなったすみれを見て、どうやらこれを言いに来たらしいと、シンジは気が付いた。
「そんなに、ねえ」
 シンジが呟いたのは、これもくてっと寝ているすみれを見ながらである。
 慣れない台詞を口にしたせいか、急速に酔いが回ってきたらしい。
 膝のすぐ側にある髪に、シンジは軽く手を伸ばした。
「自分をコントロールする術は持っている。これでプライドさえ普通なら、引く手も数多だろうに。持った力のそれを、お前達はどう扱ってみせるのか−俺の興味はそこに強いのだが」
 その言葉には、しばしば見合い写真が襲来する自分の事があったのかもしれない。
 そしてそれは、どこかすみれにも重なっていたのだろう。
 無論容姿ではなく、家柄のそれと言う意味で。
「さて…運んでいくか」
 何を思ったか、シンジが担いだのはすみれではなくアスカであった。
 ひょいと腕に抱いたそれが、にゅうとシンジに手を伸ばした時、初めてその表情が動く。
「……」
 確かにアスカは、小さく単語を呟いたのだった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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