妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第三十九話:カニと桜と女の意地−アスカ玉砕(後)
 
 
 
 
 
「私…捨てられたの…」
 確かにアスカはそう言った。
 シンジが聞いたのだから間違いはない。
 がしかし、目下シンジにとっての急務は、言葉の意味を知ることではなく、背中に食い込む痛みを何とかする事であった。
 アスカの目に涙があった事も、取りあえずは後回しである。
 そう、何を思ったかアスカは、いや正確には無意識だろうが、呟いた後シンジの背中にぎゅっと手を回したのだ。
 一旦玄関まで、そう思ったシンジだったが、手が食い込んで離れない。
 仕方ないから、横抱きにしたままで台所へ行くと、もう殆どの皿は片づいている所であり、シンジに気付いた椿が、
「あ、碇さん…あら?」
「離れないからね、しようがないから部屋まで連れて行くさ。それと悪いけどかえで」
「え?」
「悪いけど、玄関で寝てる連中何とかしてやってくれる」
「ええ、分かったわ」
「あ、それからあやめ」
「何?」
「その青磁の皿、シビウから借りたんだけど、一万が千個以上付く値段だからくれぐれも扱いには…あ」
 軽々と拭いているから、多分気付いていないに違いないと思って声を掛けたのだが、次の瞬間にふっと皿が落ちた。
 正確には、値段を聞いて手から離れたらしい。
「『きゃああっ!』」
 他の四人も動けず、これはもう木っ端微塵だと思われたが、床に落ちる寸前それはふっと停止した。
「『え…!?』」
 まさかアリイスが?とおそるおそる見ると、無論アイリスはいない。
 代わりにシンジの手がすっと伸びているのを見て、やっと状況を把握した。
 シンジの指が曲がると、皿が合わせるようにふわふわと浮いてくる。
「言ってる側からこれだからもう」
 内容の割に、別段困ってもいないような口調で言うと、皿はあやめの手にすっぽりと収まった。
「ご、ごめんなさい」
 無論、シンジが風で動かしたのである。
 触れずに物を動かすのは、超能力者の特権ではないのだ。
 が、ここの住人に風使いはいない。
 使えるのはどれも火や水であり、こんな使い方をしてのけるのは当然ながらいない。
 感嘆の視線を向けた由里達だが、
「あ、あの碇さん」
「何?」
「きょ、今日はその…ありがとうございました」
 うん、と頷いて、
「本当は伝達事項もあったんだが、言い忘れた。全員潰れるとは、ちょっと予想外だった」
 困ったものだ、と言う感じのシンジだが、ふと全員が気付いた。
 そう、シンジがアスカを片手で抱いている事に。
 それも楽々と。
「あ、あの碇君…伝達事項って、何があったの?」
「んー、そうかあやめならいいや。エヴァを大きく改造する、それもほぼ根本の部分からね」
「改造?どう言うこと?」
 あやめが訊いたが、かえでの目配せに三人娘がまた片づけを始める。
「このままじゃ、アイリスはエヴァに乗っても役に立たないからね。霊力の波動を各個人毎に振り当てる」
 何でもないことのように告げたシンジだが、それは即ちエヴァ計画を根本から変える事を意味している。
「で、でもそれはさすがに…」
 無謀だと言いかけたが、言葉にはならなかった。
「各人の機体共有は出来なくなる。その代わり、霊力のパターンを生かした物が可能になる。ところで訊きたい事があるんだけど」
「何かしら?」
「零号機と弐号機って、誰がパイロ…いでっ」
 言いかけた途端、アスカの手に力が加わり、ぎゅっと爪が食い込んだ。
「いやいい」
 シンジは首を振って、
「ちょっとこれ、部屋に置いてくる。じゃ、後は頼んだよ」
 歩き出した背へ、
「あの、今日はありがとうございました」
 椿と由里の声が追い、シンジは軽く片手を上げて答えた。
 
 
 
 
 
「ほらさっさと注ぎなさいよっ」
「ミ、ミサトお嬢様、その辺になされた方が…」
「うるさい黙れ」
 革製のソファの回りには、もうウイスキーの瓶が数本空になって転がっている。
 無論飲んでいるのはミサトである。
 最初は割っていたが、いつの間にかストレートになっており、しかも顔色が危険な色になっている。
 赤ではなく、なぜか青白いそれに近いのは、酔った色とはどうも見えない。
 それどころか、飲んでいくにつれて血の気が引いているような感さえある。
 一応原因はある。
 そう、不機嫌なのだ。
「シンジ…なんで私を呼ばないのよ」
 ムキー!と怒るならまだしも、静かに深く怒ってるだけに手が付けられない。
 こんな時は本気だと分かっている上に、使用人に対する根本がシンジとは異なっていることを周囲も知っているから、強くは言い出せない。
 確かに、理不尽な事を命じたりはしないが、基本的に使用人は道具と見ている。
 つまり、その部分は祖母のフユノと同じなのだ。
 確かに間違ってはいない。
 それを条件に来たのだし、シンジの方が逆に珍しいくらいなのだ。
 だがいずれにせよ、ミサトにこれ以上の諫言は危険である。
 少なくとも、シンジがこの家にいない以上は。
「ほらさっさと注ぐ!」
 ずい、と差し出されたグラスにこれは仕方ないと、慌ててウイスキーを注いだ。
 主が使用人に気を使っていては、主従としてのそれは成り立たない。
 とは言え、こんな時に何も言えぬのもまた困りものであり、注ぎ終わった彼女はふっと空中を見上げた。
(若様…帰ってきて下さいませ…)
 
 
 
 
 
 姉が自棄酒を呷っている、などと知らないシンジは、やっとアスカの部屋まで辿り付いていた。
 取りあえず全員分の鍵は、もう手に入れてある。
 これがないと、ぶち破る事になるからだ。
 普通は霊気錠の方が大変だが、シンジに限って言えば普通の鍵でない方がいい。
 物理的な鍵の方が却って面倒なのだ。
 が、押すと簡単に開いた。
 どうやら、館内では一々施錠はしないらしい。
 スイッチの位置は同じな筈だと、壁に手を伸ばすとやっぱりあった。
 だが途中で手を止めると、僅かに目を細める。
「いい置き方だ」
 シンジの言葉は、窓際に設置されたベッドにある。
 ほぼくっつくようにして置かれたそれは、カーテンを大胆にあけてあるおかげで、月光が静かに差し込んでいるのだ。
 シンジ好みの情景である。
 漆黒の闇ではないから、すぐに視界は慣れた。
 室内は綺麗にしてあり、足元注意の必要もなくベッドまで進む。
 すっと降ろそうとしたが…離れない。
 無論シンジと知っての事ではあるまい。
 だが、誰をシンジに投影しているのか、その手はしっかりとくっついているのだ。
「困った、な」
 理由はともあれ、引き離せば間違いなく、離れまいとくっついてくる筈だ。
 それにシンジには、さっきアスカがもらした言葉が気になっていた。
「捨てられたの」
 確かにアスカはそう言った。
 が、先の銀角退治の折は、催眠に掛かった時もそんな気配は見せていない。
 だとすると、捨てられたとの言葉は何に掛かっているのか。
 それもまるで、親に捨てられた幼児のようなそれは。
 別にシンジには関係ないが、取りあえず待つことにした。
 そう、アスカの目が覚めるまで。
 背中に食い込んだ手は、本人が起きるまで離れそうにないと、客観的に判断したのである。
 無論、炙ればすぐに起きようし、水攻めでもいい。
 何よりも、主に代わってアルコールをすべて受け止めた従魔がいれば、さっさと燃やして起こせと言うに違いない。
 ただ、なぜかシンジはそれを選択しなかった。
 その代わり、アスカを抱いた姿勢のまま窓辺に腰を降ろしたのだ。
 はるか高みで微笑む月が、ひっそりと二人を見つめていた。
 
 
 
 
 
「やっぱり、寝ている人は持っても重いのね」
「仕方ないわ、殆ど泥酔状態だもの。それにしても…」
「どうしたの?かすみ」
「さくらさん、明日覚えてるかしら?」
 後よろしく、と言われたものだから、三人娘は酔っぱらい共の運搬に来ていた。
 取りあえず椿がアイリスを、由里がマユミを、かすみがさくらをそれぞれ担当する事にして、よいしょと担いだ所だ。
「覚えていたら当分、碇さんの顔見られないわね、きっと」
「間接キスもしてたでしょう」
 椿の言葉に、かすみに担がれたさくらへ二対の視線が向いた。
「でもそれよりも、碇さんがさらっと流していたから、分からないと思うけどね」
「だけど、お母様にばれたら大変よ、きっと」
 真宮寺若菜。
 一馬亡き後、さくらを一手に育ててきた母だが、猛母ではない。
 が、怒らせるとそれはそれは怖いと聞いている。
 真宮寺家の跡取りとしてはとんでもない行跡だが、果たしてそれだけで密告したくなったか、と言うと少し自信が無く、三人はそっと顔を見合わせた。
 
 
 
 
 
 ひどくなつかしい夢を見ていた。
 男と女が出会い、子が産まれる。
 自分がその子であり、男と女が自分の親だった頃の夢を。
 だが今、自分が父と呼び母と呼ぶ者達は、自分と血の繋がりはない。
 例えそれが、どんなに優しい二人であったとしても。
 母ではなく、ママの腕に抱かれていた頃を−何故か夢に見ていた。
 だが、夢は常に覚めるもの。
 そう、現実の続きのそれは、終焉を告げねばならぬものでもあるのだ。
「…ん…」
 ゆっくりと微睡みから引き戻された時、自分が誰かの腕の中にいるのを知った。
「ミサト…?」
 ぼんやりと呟いた所へ、
「起き抜けに悪いが、取りあえず手を放してくれると助かる」
 聞こえた声にがばと跳ね起きかけて、
「い、いたた…た?」
 叫ばなかったのは、先に自分の手の位置に気付いたからだ。それがシンジに回っているのは、自分が掴んだからだと知ったのである。
「あの…」
 さすがにばつの悪そうな声で言いかけたアスカに、
「女に背中を引っ掻かれたのは初体験だよ。これぐらいならすぐ治るけど」
 あまり思っていなさそうな口調でそう言うと、背中にすっと手を当てて五秒後に、
「よし治った」
 と、手を抜きだしたのにはさすがに度肝を抜かれた。
「泥酔して熟睡したからな。取りあえず運んでこようとしたら引っかかれた。妙に嬉しそうに見えたが、いい夢を見た?」
「べっ、別に…」
 関係ない、と言おうとしたがさすがにそれは止めた。
「家族の…夢よ。もう…古い話」
「捨てた親、か?」
 それを聞いた瞬間、アスカの顔色が変わる。
「なっ、ど、どうしてそれを知ってるのよっ」
「内緒」
 シンジの返答はあっさりしていた。
「碇フユノが俺に読ませるべく、住人達全員の詳細なデータを既に用意している。情報は秘しておけば内緒に出来る、物でもない。もっとも惣流の場合には、涙と一緒に呟いた台詞だ」
 そう言うと、シンジはすっと立ち上がった。
「取りあえず付き合ったが、もういい頃だろう。どうしても俺が認められない、と言うのならそれなりの手段を講じないとならない。俺も何時までも付き合えるほど、暇でもないし。エヴァの改造だの各人の能力向上だのと、する事は幾つもある。取る道を何処に求めるのか、一両日中に選択しておく事だ」
 それだけ言うと、シンジはもうきびすを返した。
 無言で視線を向けたアスカの視界に、破れた背中が映る。
 無論シンジとて神ではないし、服までも時間を遡って直せる訳ではない。
 もっとも、傷の自己治癒だけで十分、人外の存在と言えるのだが。
「邪魔した」
 そのまま歩き出した背中へ、
「…こら」
「何か」
「勝手に決めつけるものじゃあないわよ。別にあんたに協力しないなんて言ってないでしょうが」
「ほー」
「このあたしが、ここまで完敗したんじゃ…認めざるを得ないでしょうが。き、協力しろっていうならするわよ」
「可愛くない」
「は!?」
 シンジがくるりと振り返った。
「な、なによ…」
「仏の顔は三度まで、知ってるか?」
「し、知ってるわよ」
「じゃ、碇シンジの顔は一度だけって知ってる?」
「そ、そんなの知らな…あうっ」
 言い終わらぬ内に、アスカは床に押し倒されていた。
「女に言う事を聞かせるには、これが一番と古来から決まっている」
 シンジの黒瞳に月光が映えた時、何故かアスカが抱いた感情は、怖いのそれよりも綺麗の方が強かった。
「あ、あたしを犯すって言うの…」
「そう言う手もあった」
 気付いたように言った時。じゃあ何を考えていたのかと、アスカはふと訊いてみたくなった。
 だが、シンジがにっと笑った時、まるで別人と化したような気がして、アスカはぎゅっと目を閉じた。
 こんな局面にもかかわらず、抵抗の二文字が浮かばなかったのは、本能が感じる恐怖心の方が強かったせいだろう。
 普通、目を閉じていても目の前で何かが動けば分かる。
 シンジの顔が近づいて来たのを察し、アスカはぐっと両手を握りしめた。
(ど、どうしようッ!?)
 が…顔がそれ以上触れる気配はない。
(あ…あれ?)
 おそるおそる目を開けかけた途端、ふうっと吐息を吹きかけられ、
「はあうっ」
 びくんと身体が揺れるのと、すっと重みが消えるのとが同時であった。
「いい感度だ」
「なっ!?」
 がばと跳ね起きた時にはもう、シンジの姿はドアの所にあった。
「それぐらい素直だと、色々と助かるんだけど。じゃ、お休み」
 ひらひらと片手を上げてシンジがドアの向こうに消える。
 ドアが閉まるのと、クッションが投げつけられるのとが、殆ど同じくらいだったかも知れない。
「あ、あんの色情狂がー!」
 と言っても、無論相手はもういない。
 息を吹きかけられた首筋に手を当て、
「ふんっだ!」
 ぷーっと口をふくらませて見たが、意識はそこまでであった。
 妙な、そして猛烈な眠気に襲われ、なんとかベッドの上にはい上がったものの、あっという間にまた寝息を立てていた。
 
 
 
 
 
「もうみんな帰ったかな」
 台所にももう誰もいないし、やっと終わったかと伸びをした途端、
「ん?」
 玄関に立っている人影を見つけた。
 一 薄暗い
 二 既に夜中近く。
 三 髪の長い女
 と、不気味な条件は揃っているが、これで騒げるほどシンジはノーマルではない。
「どなた?」
「あの…藤井です」
「藤井?ああ、かすみか」
 妙に思い詰めた様子を見て、僅かにシンジの眉が寄る。
 思考が読めたのだ。
 だが口には出さず、
「確か食堂は空いていたな。ついておいで」
 先に立って歩き出し、食堂へと招じ入れた。
「座って」
 椅子を勧め、自分も反対側の椅子に座る。
「で、もう全員寝かしつけた?」
 まるで赤子を扱うような口調に、一瞬かすみがくすっと笑いかけたが、すぐに表情を引き締めて、
「は、はい。もう全員部屋へ運んでおきました」
「そうか、ありがとう。で、お茶でいい?」
「あ、いえ私はその…」
「いいから。お茶はいい、取りあえず意思の撤回にも役に立つ」
「え…?」
 奇妙な事を言うと、さっさと流しへ立っていく。
 が、ここでもかすみは目を見張る事になった。
 薬缶に水を入れてガス台の上に置く、とそこまではいい。
 が、シンジはコックを捻る代わりに、そこへ手をかざしたのだ。
 ゴウッ、と凄まじい勢いで炎が飛び出し、十秒としない内に薬缶は叫び始めた。
 手際よくお茶を入れると、通常の五分の一位の時間で戻ってきた。
 かすみの前に湯飲みを置くと、
「時間が困る時はこっちを使う。その方が便利だからね」
「は、はあ」
「さ、飲んで」
「い、いただきます」
 十秒間の加熱にもかかわらず、湯飲みの中はかなり熱そうに見える。
 口に含むとやっぱり熱い。
 一口飲んで湯飲みを置いたかすみに、
「で、俺に話とは?」
「実はわたし…」
 言いかけた所へ、
「言っとくけど、劇場勤めを止めたいなんて言うのは却下だからね」
「…なっ!?」
 一瞬呆然として、思わず大きな声を出すのには数秒掛かった。
「ど、どうしてそれが…」
「フユノの婆さんがケチでお給料を上げてくれないんです、って話には見えなかったから。それに、かすみの顔にあちこち書いてある」
「あ、あのその…」
「自制できなかったから未熟だ、と思ってるの?それとも俺に嫉妬しているとか?」
 とんでもない事を言いだしたが、シンジは真顔である。
 かすみもそれは分かっているから、
「し、嫉妬なんてそんな事は…」
「じゃ、いいじゃない」
「え?」
「女と言う生き物は、所詮感情で動く生き物だ。衝動的な犯罪に、女の割合がずっと多いのはそのいい例だ」
 冷たい、と言うより分析するような口調で言うと、
「でもそれはかすみだけじゃない。綾波がどこかの端末に侵入して持ってきたデータ、つまり俺の入試結果は満点だった。それを見て、認めないと騒いだすみれや惣流も似たようなものだ。端末に狂いがない限り、そんな相手に勝てるかどうか、少し考えればすぐに分かる事なのに」
「で、でも他の皆さんは…」
「さくらは暴走した。山岸はシビウに魅入られた。まともなのは…イリス・シャトーブリアン位かな?」
 あれこれと、数えるように指を折っていき、
「俺が一番可哀相じゃない」
「え?え!?」
「絡まれたりしながらも、そんな子供を指揮しなきゃならないんだぞ」
「そ、そうですね…あ」
 思わず言ってしまってから、言葉の意味に気が付いたらしい。
「い、今のは皆さんには内緒に…」
「ん」
 軽く頷いて、
「劇場には、一般人が有事の際に避難する場所の役目もある。かすみがいなくなる、と言うことはその時に、残りの二人に負担が増えると言う事だ。それに何よりも」
「な、何よりも?」
「劇場本来の運営の時に、その負担は一層大きくなるはずだよ。違う?」
「で、でも…」
「ま、俺のことは気にしないでいい」
「え?」
「ここへ来て、絡まれるのはもう慣れたからね。順応能力は高いんだ」
 苦笑と言うより、どこかそれを楽しんでいるようなシンジの口調であり、表情であった。
「と言っても、止めちゃ駄目ー!と叫ぶ権利は俺にはない。選ぶのはかすみ自身なんだから。ところで、劇場は取りあえずの急務はあるの?」
「い、いいえ、今の所は別に…」
「ならば好都合だ。数日考えて、ゆっくり答えを出すといいさ。いいね?」
「は、はい…」
 こくりとかすみは頷いた。
  
 
 一礼して去っていくかすみを見送ってから、シンジは館内へ戻ってきた。
 ふ、と隣に並んだ気配には顔を向けず、
「すこし、疲れたかな」
 と洩らす。
 その身体がふわりと浮いたのは、次の瞬間であった。
「おつかれさま、我が君」
 ふう、と息を吹きかけるようにフェンリルが囁く。
 主を苦もなく抱き上げたフェンリルが、
「それはそうとマスター、もう少し強くなれない?」
「無理だね」
 抱かれたままシンジは、あっさりと首を振った。
 自らの体内に従魔が潜むシンジは、その食する物の軌道を変える事も自由なのだ。
 すなわち、殆ど飲めないシンジが、あれだけ飲んでも平然としていられるのは、無論フェンリルのおかげであり、フェンリル無しではとっくにダウンしている所だ。
 ただし、フェンリルの吐息にもアルコールのそれはまったく感じられず、口調にもその影響は微塵も見られない。
「やはり、当分は私がいないと駄目かしら?」
「だね」
 頷いた主を、フェンリルはきゅっと抱きしめて、
「今日は、私のままで過ごしてもらうわ。よろしいわね」
 普段枕の時、フェンリルは妖狼の姿である。
 だが、今日は美女の肢体のままで共に寝る、と言ったのだ。
「別にいいよ」
 既に疲れていたせいもあったのか、シンジはあっさりと頷いた。
 ふふ、と笑ったフェンリルが、これは文字通り飛ぶような勢いで、シンジを腕に抱いたまま階段を上がっていく。
 その晩シンジは、フェンリルの腕に巻き付かれたまま眠りに落ちた。
 横に誰がいようと、それが悪魔であっても熟睡しそうなシンジだが、フェンリルの方は眠る横顔にどこか笑みが見受けられたのも当然であったろう。
 
 
 
 
 
 さて翌朝の事。
「うー、頭痛い…」
「気分悪いよう…」
「……」
 一応全員起きてきたが、さくらとマユミも普通通り、つまり他の住人と同じ時間に起きてきた。
 大寝坊である。
 起きてきた彼らを迎えたのは、テーブルに用意されたお茶漬けと、さっぱりした顔のシンジであった。
 どうせ二日酔いと見越して、のんびり入浴した後、全員分の朝食を用意して置いたのだ。
「おはよう」
 うっすらと笑っているシンジに、面々は甦った木乃伊のような声で挨拶した。
 よほど昨日の酒がこたえたらしい。
 何とか席に着いたが、一人足りない。
「あれ惣流は?」
 見回した時、
「あったまいたーい」
 ぶつぶつ言いながらアスカが入ってくる。
 と、シンジを見るとつかつかと歩み寄ってきた。
「ん?」
 シンジの前に来ると腰に手を当てて、じっとシンジを見た。
「お、おはよ…シンジ」
「あ?」
「だから、おはようって言ってるんじゃない。そ、それとあたしの事はアスカでいいわよ、あたしもシンジって呼ぶから」
「…何で俺が」
「日独友好」
「……」
 僅かにシンジの眉が寄ったが、ふとアスカの頬に赤らみを見つけ、
「ま、いいや。好きにするといい」
 軽く頷いたが、その瞬間アスカの肩から、ふっと力が抜けたのをちゃんと見抜いていた。
「胃に入れないと保たない。それに、早くしないと遅刻するぞ」
 と促して、取りあえず食べ始めた。
 どうにかこうにか、何とか学校へは行ったものの、教師の目は誤魔化せずに、全員が立たされる羽目になった。
 ところが。
「ふーん、連中を立たせた?リッちゃん、責任取って閻魔の前にでも立つか?」
 飲ませた元凶から、物騒な脅迫を受けたせいで、慌てて戻したのは数時間後の事である。
 そして、担任達が青くなって女神館に飛んできたが、いじられた入り口のせいで結界に阻まれ、ひっくり返って救急車で運ばれるのは、更にその数時間後の事であった。 
「うちの子を立たせるなど百年早い」
 倒れる寸前教師達が見たのは、そう言って冷ややかに見下ろす長身の青年の姿だったと言う。
 
 
 
 
 
(つづく)

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