妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第三十話:人妻鬼
       
 
 
 
 
「やるったらやるって、そんなシンジさん…」
「別に無茶な相談でもない。それに霊力波動を均一化するのは何のため?」
「そ、それは戦力の均等化を図るためで…」
 言いかけた所を、
「それじゃ意味がない」
 シンジはあっさりと否定した。
「え?」
「メンバーの戦力が、方向も同じならそれでいいが、各人がばらばらだ。それにアイリス、あれはこのままじゃ問題外だ」
 本人が訊いたら、顔から血の気が引きそうな台詞を、あっさりとシンジは言ってのけた。
「で、でもシンジ君あれは、母が本来…」
「その必要はないよ」
「お母さん?」「オ、オーナー」
「疲れて寝てると思ったが」
 どれが誰のかは、顔を見ずとも分かる。
 ふふ、と妖艶に笑って、
「あんたがシンジちゃんに吹っ飛ばされても可哀相だからねえ。あたし達なんかより、よほど頼りになるさ」
「で、では…」
「そうさ、全部言うとおりにおしよ。それで間違いはないん…ん?」
 言葉が途中で止まったのは、その頬がぐりぐりと押されたからだ。
 リツコとマヤの顔から、すうっと血の気が引いていく。
 シンジなら許される、と分かってはいても、誰にしているのかを考えると、やはり怖ろしいのだ。
「その前の段階として、もう少しまともに造れなかったのか?あれは」
「…面目ないね」
「そんなモンどこにもない」
 ばっさり切り捨てて、
「あれならさくらを降ろして、アイリスの個人機でも造った方がまだましだ。ま、使えない中年をとっちめてもしようがない。マヤちゃん、聞いたとおりだ」
「は、はい分かりました」
 頷いた所へ、
「それと技師の件だが」
「マヤじゃ無理かい」
「油に汚れるような指はしてないだろ」
 シンジの言葉にマヤが赤くなり、危険な視線を感じて慌てて直す。
「最近はシンジちゃんのお気に入りかい」
「そっ、そんなことはっ」
 ぶるぶると激しく首を振ったが、
「あんたが気に入らないだけ」
 と、今日のシンジは妙に意地悪である。
 しかも気が付くと、突っ込みを入れられる唯一の相棒も、いつの間にか姿を消している。文字通り、手が付けられない。
「人物論をしに来た訳じゃない。改造担当は俺に心当たりがあるから任せておいて」
「…分かりました」
「それとリっちゃん」
「なにかしら」
「ここ何年か、学院を受験した者は全部、名簿が残っているの?」
「勿論あるわ」
「過去二年間を全部出して」
 間髪入れぬ応答は、リツコならばの物である。
 二十秒と経たずに出てきた分厚い名簿に、これも判断出来ぬ程の速度で目を通して行き、
「実技がちょっと足りなかったか。まあいい、これなら使える」
 奇妙な事を呟くと、マヤの胸元に顔は向けずに手を伸ばす。
 あり得ぬと知りながら、一瞬身体を硬直させた時、その胸ポケットからペンを抜き取った。
 赤丸である名前を囲むと、
「これ」
 マヤに渡した。
「…この子を?」
「そう。もっともエヴァ全機だから、全責は俺が取る。いざとなったら単騎でも出撃するから、それでいい?」
「はい」
「じゃ決まりだ。俺は行くところがあるからこれで失礼する。マヤちゃん、例の遺体は魔道省に運んであるね」
「はい」
 頷いた時、その場にいた全員が、シンジの行き先を知った。
 シンジが出て行くとき、その背に危険な物を感じたような気がして、残った者達は顔を見合わせた。
 
 
 
 
 
「ん…」
 まだ赤い顔のまま、すみれはうっすらと目を開けた。
「わたくしはどうして…?」
 ミサトに運んで来られたのまでは覚えているが、その後の記憶がない。
 無理もない、悔しさで高熱を出して、ほぼ一日寝込んでいたのだから。
 悔しさが発熱に繋がるのも珍しいが、これはすみれである。
 力の入らない上体を起こしながら、
「まったく…どうして誰もこないんですの…」
 力の入らぬ声でぶつぶつ言ったが、来ると言ってもさくらかマユミ、或いはアイリスくらいである。
 例外はレイだが、ほとんどの場合すみれが部屋に入れないのだ。
 ずかずかと押し入ってきて、しかもすみれが怒らないのはレイだけだ。
 それも、何故か怒る気がしないと言った方が正解だが。
 ただし、現時点では館の住人全員が…一人を除いて爆睡している最中であり、唯一起きている人物は、現在外出中だ。
「こ、このわたくしを放っておくなど、ゆ、ゆるせま…」
 何か言いかけたが、急激に睡魔に襲われてまたその目は閉じられた。
 なお、現在時刻は既に午前十一時半を回っている。
 熱の引かぬまますみれが寝込んだ時点で、住人達の内起きているのはシンジ以外、誰もいなくなった。
 
 
 
 
 
 霞ヶ関に、魔道省の建物は建造されている。
 省の一つの筈だが、周囲からはだいぶ隔離されており、ちょうど皇居にも似たような感じなのは無論訳がある。
 迂闊に近づくと、それだけで精神に異常を来すだけの物があるからだ。
 すなわち、瘴気にも似た何かが。
 水道や電気の定期検診を避けるには、丁度いいかも知れない。
 濁か澄か、と言えば後者である。
 一歩入った途端に感じるそれは、むしろヒマラヤ山中にあるとされる、聖者達の修行場の霊気にも似ている。
 ただし、田沼のにごり恋しきの川柳にもあるように、それが聖の形を取っていればいいと言う物ではない。
 実際の所、学校の社会科見学で行きたい所ナンバー1に挙げられながら、それが未来永劫叶いそうにないのがここなのだ。
 おどろおどろしい訳ではないが、厳然として来る者を拒む何かが、そこには当初からある。
 碇邸ほどではないが、荘厳な造りの門は古の作法に則った物だ。
 周囲を睥睨する龍が二匹出迎える中を、シンジはゆっくりと入っていった。
 ガードマンの敬礼に軽く頷いて返す。
 受付の娘はいずれも顔見知りだが、どれも地方の名家の出身だ。
 名家と言っても、単に富豪とかそんなのではない。
 富や財産は、ここでは何の意味も持っていない。
 そう、彼女たちは皆巫女として育てられた者達ばかりであり、その実力も折り紙付きである。
「お久しぶりです、碇様」
「もう、数ヶ月くらい来てないような気がする」
 誰かがふっと来訪するには、あまりにも似つかわしくない雰囲気だが、シンジに限って言えば、むしろこの方がほっとする。
 並外れた霊能力を持ち合わせた者だけが、感じられる感覚である。
「今日は、長官はいらっしゃいません。お帰りは夕方になりますが」
 声を掛けたもう一人の娘に、
「いや、それで来た訳じゃない。別件で」
 巫女達の視線を背に受けながら、シンジは歩き出した。
 一階で待機していたエレベーターに乗り七階まで上がった。
 足が沈むような絨毯の上を、音も立てずに歩いていく。
 内装にかかる費用も莫大だが、逆に霊力を試す絶好の場所であるとも言える。
 事実、シンジが歩くこの場所も、廊下の端から端までいきなり歩ける者はまずいないのだ。
 すなわち、霊力をそのまま前進する力に変えねばならぬこの場所では。
 シンジが初めてここへ来たとき、滑るように移動した事は今でも伝説のようになっている。
 奥から二番目の部屋へ扉を開けて入ると、重苦しい空気がシンジを出迎える。
 そしてシンジには、その原因が分かっていた。
「若、お迎えに参りましたのに」
 すっ飛んできたが、実はここの室長であり、この中では一番偉い。
 いや、と首を振り、
「遺体はもう着いたな」
 と言った。
「はい…」
 頷いた室長の向こうに、俯いて肩を震わせている女が見える。
「宮村と言ったな。あれは、誰の所属?」
「はっ?」
 思わず聞き返したのは、一介の退魔師にシンジが興味を持つなどとは、考えられなかったのだ。
 慌てて、
「黒木の下に配属されており…あ」
 何かを思いだしたらしい室長に、
「で、その黒木はどこにいる」
「ここにおります」
 すらりと背の高い男が、直立不動で挙手の礼を取った。
「わざわざのお越し、申し訳ありません」
「そちらは?」
「宮村の妻、優奈でございます」
 黒木より先に、優奈と名乗った女がこちらを振り向いた。
「あの、あなた様は?」
「碇シンジです」
 その名を聞いた時、妻は深々と腰を折った。
 頭を下げたまま、
「主人が申しておりました。碇様にお出で頂き、お手伝いまでしていただいたと。これで自分も一生誇れる思い出が出来た、そう申しておりました」
 
 
「わざわざのご出馬、申し訳ありません」
 どこか赤い顔で、嬉しさと申し訳なさが混ざったような口調で言った言葉が、シンジの脳裏によみがえった。
「黒木」
「はっ」
「これを」
 と、シンジはカードを渡すと、五本指を立てて見せた。
 一本は千を、五本のそれは五千を指している。
 そして千は、それぞれ万単位である。
 五千万を自分が出す、シンジはそう言ったのだ。
 二十代の前半で、愛する夫を失った妻への香典として。
 黒木にカードを渡した時の視線で、彼女には言うなとシンジが命じた事に黒木は気付いていた。
「顔を上げて」
 まだ腰を折ったままの優奈に、シンジは優しい声で告げた。
「は、はい…」
「いいご主人でしたか」
「はい」
 ゆっくりと、だが確信を持って彼女は頷いた。
「遺体の顔も…笑っていました」
「笑っていた?」
「碇様に会えて、これで俺も少しは強くなれたかも知れないって、出かけていったんです」
 見せた笑顔の下にある、もう涸れるくらい流したにちがいない涙を、シンジは見抜いていた。
「抵抗の跡はなかった、と聞いています。恐らくは、背後からの物でしょう」
 言外に、宮村の力があったからだとシンジは言ったのだが、それは伝わったらしく、
「ありがとうございます」
 再度頭を下げた。
「残った痕跡から、人の手による物ではないとの判断が出ています」
 黒木の言葉に、
「分かっている。おそらくは犯人も」
「えっ?」
「女だ」
「お、女…」
 呟くように言った優奈に頷き、
「特殊機動部隊、全部隊を動員して九割が討ち死に、それで傷の一つが付くか付かないか、微妙な所です」
「そ、そやつは一体?」
「昨夜のボスだ」
「では主人はその女に…」
「触手、と言う心辺りはそれくらいしかありません。それに、それ以外なら女神館を襲撃するか、或いは私に来る筈です」
 だが、優奈が僅かに言葉を切った時、シンジの表情が動いた事に、黒木は気付いていなかった。
「そうでしたか…」
「ですが」
 とシンジは言った。
「はい?」
「あれは、必ず私が倒します。いつまでも好き放題させてはおきません」
「お、お願い致します…」
 目にうっすらと涙を浮かべた優奈に、夫婦仲が見えたような気がした。
「もう、帰られますか」
「はい、葬儀の用意もありますから。こちらに遺体が来たと聞いて、すぐに飛んできた物ですから」
「では、途中までお送りしましょう」
「若?」
 珍しい申し出に一瞬目を見張ったが、いいんだ、とシンジは目で頷いた。
「分かりました。優奈さん、シンジさんに送ってもらって下さい。それが、もっとも安心ですから」
「はい」
 楚々と腰を折った優奈を伴い、シンジは出て行った。
「はて、途中で気が変わられたように見えたが…」
 ちょっと首を傾げて呟いた声は、無論優奈には聞こえていなかった。
 廊下に出た二人だが、
「お先にどうぞ」
 後衛をつとめますから、と言う感じの口調でシンジが言うと、優奈は言われるまま先に立って歩き出した。
 何故か、シンジはその後ろ姿をじっと見ている。
 夫を亡くした未亡人を、まるで品定めでもするかのように見据えているのは、シンジにしては奇異と言える。
 だが見よ、優奈の足取りはほとんど止まる事がないではないか。
 この、霊力無くば進む事の叶わぬ廊下を、ゆっくりとではあるが止まる事無く進んでいく。
 数秒それを見ていたが、すぐにシンジも後を追うようにして歩き出す。
 シンジが来たときのまま、エレベーターは止まっており、先に優奈が乗った。
 横に並んで乗ると、優奈の身長はシンジの胸辺り位しかない。
 別に小さいわけではないが、やはりシンジの長身が目立つ。
 視界の端にシンジを入れ、何かを言いかけたが途中で止めた。
 受付からの熱い視線を背に、二人は連れだって建物から出ていった。
 と、優奈の足が止まる。
 振り返った。
「どうして歩ける、とお訊きにならないんですの?」
「黒木も腕が落ちたか」
 シンジは何故か、全然関係ないことを言い出した。
「いいえ」
 と優奈は首を振り、
「私は−気絶したので背負って頂きました」
「なら、黒木を解任しないで済む。本庁に鬼を通したなど、退魔師の名折れだ」
 とんでもないことをシンジは言い出した。
 ではこの美貌の未亡人は、鬼だとでも言うのか?
 だが、
「いつからお分かりでしたの」
 優奈の言葉を聞くと、事実らしい。
 人の姿をした鬼が魔道省の本庁へ入る。
 あり得ぬ、いやあってはならぬ事なのか、それとも?
「分からん」
 シンジはあっさりと首を振った。
「お前の俯いている姿を見た時、何かが違うと本能が告げた。だが、涙の痕を見ればそれと見抜けるのはまずいなかったろう。それにお前は、私を試したな」
「少し違います」
「ほう」
「あなたが私を討つ、そう言われるならあらがいはしないつもりでした」
「宮村を愛していた、か。やなやつ」
 やつ、とは誰を指して言ったのか。
「その通りです。そうでなければ、敵わずとも最後まで抵抗したでしょう。けれど、あの人の敬慕する方なら、喜んで冥府へ持っていけます」
「主人に自慢できるか」
 おかしな事を言うと、
「はい」
 どこか、嬉しそうな感じさえ見せて優奈はうなずいた。
「一つだけ訊きたい」
「何でしょうか」
「鬼が人と遭ってはならぬが、想いまで止められるべきではない。が」
「はい」
「職業柄、平和裏に会った訳ではあるまい。どうやって会った?」
「あなたの言われる通りです。京の山から出てきた私を、あの人は祓おうとしました。けれど、鬼の時の私には通じず、返り討ちにするのは容易い事でした。ですが…」
 人のなれの果てが鬼なのか、鬼が人化して人間になったのか、それは誰も知るまい。
 一つ言えるのは、鬼、すなわち異形のそれを取った者に大して、人間の力はあまりにも無力だと言う事だ。
 宮村が張った結界も、優奈の前には何の効果も持たなかった。
 易々とそれを破った時、術師に待つのは死の運命だけであったろう。
 しかし、頼りなさそうな顔のくせして、ちっとも死への怖れは見せていなかった。死を望むと言うのではないが、それが己の力量なら静かに受け入れる、それを見た時何故か鬼の手は止まった。
「母性本能でもくすぐられたか?」
 鬼にもそれがある事は、鬼子母神の単語が我々に教えてくれている。
「に、似たような物かも知れません…」
 うっすらと赤くなった優奈を、シンジは黙って眺めた。
「仲良きことはうつくしきかな、とはよく言った物だ」
 その通りであろう。
「面白い話だ−行くがいい」
 え、というように優奈の顔が上がった。
「私を…行かせるのですか?」
「教えておいてやろう。人は頭部を吹っ飛ばせば死ぬし、吸血鬼も心臓に杭を打ちこめばちゃんと死ぬ。だが、鬼の討ち取り方は私も知らない。新しい分野への探求心は、今の私にはやや不要…」
 言いかけた言葉が途中で止まる。
 優奈がシンジの手を取ると、自らの胸に押し当てたのだ。
 成熟した色香の漂う乳房の鼓動が、手のひらから伝わってくる。
「心臓をえぐり出せば、その辺の人間と同様に死ねますわ」
 澄んだ瞳にシンジは何を見たのか。
「悪いが送れん」
 シンジは静かに言った。
「死に場所を得る手伝いをするほど、俺はお人好しじゃない。それともう一つ」
「え?」
「和服の上からおっぱいを握りつぶすのは趣味じゃない」
 やや俗っぽい口調で言うと、すっと手を離した。
「本当の大きさは幾つある?」
 胸の大きさ、ではあるまい。
 優奈はくるりと背を向けた。
「身の丈は十尺、大地を抉る足と空を切り裂く手を持ち、しばしば人里を荒らすものなり、と記述にはありますわ。また、どこかでお会いしましょう」
 直線道路にもかかわらず、二十メートルほど行った所で、不意にその姿が見えなくなった。
 曲がった、わけではなかった。
「生きたのは、何を選んだのか…」
 小さくシンジが呟く。
 愛する者を喪ったが、そこには復讐のそれは見えなかった。
 愛していなかった?
 いや、違う。
 ではまた、鬼の姿を取り戻して住処へと帰っていくのか?
 違うな、とシンジは内心で首を振った。
 又会いましょう、彼女はそう言ったのだ。
 会えるだろう、とシンジは思っていた。
 ただ問題は、どこで、そしてどんな姿形で会うか、なのだった。
「愛されていた…少し微妙な愛され方だが」
 声にはせずに呟くと、シンジは反対側へと歩き出した。
 数メートル歩き出したときにはもう、人妻であった鬼の事など忘れたかのように、降魔の事だけが思考を占めているように見えた。
   
 
 
 
 
(つづく)

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