妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第三十一話:いい友人
 
 
 
 
 
 女の形を取った鬼と別れたシンジは、帝劇へと足を向けた。
 まだ問題が片づいた訳ではない。
 力押しならわけもないが、やはりシンジの足は重い。
「面倒…だな…」
 珍しく、ふうと溜息をついたのがその証だろう。
 藤枝あやめ・かえで、そして藤井かすみ。
 いやこの三人に限った事ではないが、シンジにはどうしても理解できなかった。
 基本的に、シンジとどっちが偉いか分からないフェンリルでも、
「手を出すな」
 シンジが命じた時には逆らわない。
 もっとも、頼んだ時なら却下される事もあるが。
 まして、フユノが自ら命じたと言うのに、どうもまだ吹っ切れていない節がある。
 シンジが言った通り、殺生与奪権が彼らにあるわけではない、と言うのに。
 んー、と洩らした時、
「お困り?マスター」
 妖艶な美女が隣に並んだ。
「困ってないけどね…困ってる」
 矛盾した表現はいつもの事である。
 若き主の、憂いにも似た表情をどう取ったのか、フェンリルはうっすらと笑った。
「好きになさいな、マスター」
「あん?」
「少し余計な事に気を使い過ぎよ。古の神を引っ張り出した男は、どこへ行ったの?」
「ここにいるよ」
 と自分を指差してから、
「そうだねえ」
 どこか億劫そうに頷いたが、それが病室で祖母が見せたそれと同じだとは、無論シンジは知らない。
 やれやれ、と溜息をついたフェンリルが、
「あまりぼやぼや歩いていると、目が覚めたらホテルのベッドの上って事にもなりかねないわよ」
 すっと消えたそっちは見ようともせずに、
「やはり…ここにいるのは合わないのかなあ」
 さくら達が聞いたら、血相を変えるに違いない台詞を呟いた。
 
 
 
 
 
「それはかすみが悪いじゃない」
「そうよ、第一御前様直々のお言葉でしょう、異議を唱えるのは御前様に逆らう事になるのよ」
「だ、だけど…」
 帰ってきてから、かすみが妙に暗いもので、椿と由里が二人して問いつめたら、とんでもない事を白状したのだ。
 フユノに死の刃を向けた、と聞いてさすがに仰天した二人だが、この二人の場合にはかすみと違い、文字通りフユノの言葉は絶対である。
 同じ絶対でも、私情が紛れ込むかすみとはそこが違う。
「ちょっと待って」
 椿が思い出したように言った。
「じゃ、さくらさんが切れたのって、かすみにも原因があるの?」
「そ、それはその…」
 さくらの一件は、無論ここにも情報が届いている。
「何考えてるのよ一体っ!!」
「まったく見境ないんだからっ!!」
「やめてー!」
 たちまち押さえつけられて、かすみが揉みくちゃにされる。
 シンジとフェンリルではないが、どたばたと暴れてせいで、三人とも服はあちこち乱れている。
 さすがに破れはしていないが、いつも冷静を崩さぬかすみのこんな所を、客が見たら仰天するに違いない。
「ちょ、ちょっと二人ともや、止めなさーい!」
 髪を結んでいたリボンが奪われた時点で、とうとうかすみが大きな声を上げた。
 このままだと、身に付けている物を全部はぎ取られかねないと踏んだのだ。
「止めなさいって、かすみが悪いんでしょ」
「そうよ、何怒ってるのまったく」
 むにい、とかすみがほっぺたを引っ張られた所へ、
「…昼間から何をしている?」
 不意に声がして、きゃあっと全員が揃って叫んだ。
 
 
「だから、俺が婦女暴行の疑い掛けられるじゃないのさまったく」
「『ご、ごめんなさい』」
 確かにシンジの言うとおり、服が乱れてあちこち肌が見えてる娘三人の怯えた顔など見たら、どう言い訳しても通るまい。
 慌てて着替えて来た三人は、シンジの前でしゅんと小さくなっている。
「で、でも碇さん…」
「ん?」
「ご連絡下されば、お迎えに行きましたのに」
「足は飾りじゃない。歩くぐらいできるよ。ところで、いつもこんなに静かなの?」
「ええ、特に今日は全学園が臨時休校ですから。そ、それよりあの…」
 椿と由里の視線が、トリオのもう一人をちらちらと見ているのに、シンジは気付いていた。
「さて、どうした物かな」
「え?」
「こっちの話だ。ところで榊原と高村」
「『はい?』」
「二人は俺のことをどう思ってる」 
「え゛!?」
 いきなりの台詞に思わずうろたえた二人だが、
「碇フユノをあの世に送ろうとした俺を、見損なったと藤井は言った。この俺に、何のイメージを持っていた?」
 咎めると言うより、文字通り単に訊ねるような口調であったが、椿も由里も俯いた。
 かすみに至っては、顔も上げられない。
「第一印象、っていうのは常にあるが、それだけで性格判断までされては困る」
 ただ、咎める口調がなかったせいか、
「あ、あの碇さん…」
 由里が遠慮がちに口を挟む余地はあったらしい。
「何?」
「かすみもその…は、反省してますから…」
 椿も、
「だ、だからその…こ、今回は許してあげて下さい、碇さん」
「俺は別にいいけどさ」
 やっぱり分からないか、との意はおそらくある二人にしか分かるまい。
 いずれも、この場にはいない二人である。
「はい?」
「俺にはもう、近づかない方が良かろう。その方がいい」
「ど、どういう事ですかっ」
「目の前で碇フユノが五体ばらばらにされた時、それを黙って見物できるか?出来ないだろうよ。だとしたら、最初から来ない方が良いんだ」
「『……』」
 五体バラバラ、と言う言葉は、かすみには真実味を持って大きく響いた。
 いや、椿と由里の二人もまた、シンジの言葉の意味は分かっていた。
 避難してくる住民達から、まるで玩具でも壊すかのように、脇侍を始末していたシンジの事は聞いたのだ。
 もっとも、どの話も皆、
「背の高い綺麗な人が、動かないロボットを壊すように、あの化け物を倒していた」
 と言う物であり、
「でもお姉ちゃん達は苦戦していたよ」
 との内容も入っていたが、これが誰を指すのか迄は分からなかった。
 ブルネット、と言う単語をそこから聞き忘れたのだ。
「耐えられぬ情景を、わざわざ好んで選ぶ事もあるまい」
 そう言うと、シンジは静かに立ち上がった。
 長い黒髪が妖しく揺れ、辺りに煌めきを振りまく。
 それに思わず三人が見とれた時、
「帝劇の管理は、お前達に任された筈だ。ここの事、よろしく頼む」
 音も立てずにシンジが歩き出した時、
「ま、待って下さいっ」
 文字通り、かすれた喉から絞り出したような声が、シンジの歩みを止めた。
  
 
 
 
 
「ふわ…あ」
 うにぃ、とさくらが目を開けた時、既に時計は午後の部へ移項していた。
「いけないっ」
 時計を見て、がばと跳ね起きたが、
「今日…お休みだったんだ」
 どこか寝ぼけた顔で呟いてから、
「静かだし…きっとまだみんなも寝ているのね」
 妙に正しい現状認識をすると、またぽてっと横になる。
 すやすやと寝息が聞こえてくるのに、数十秒と要さなかった。
 
 
 
 
 
「何か」
「こ、この二人に罪はありません。ぜ、全部私が悪いんです、だから…」
「だから?」
「せ、責任はすべて私にあります。だからここを…ここを見捨てるなんて事は、言わないで…下さい…」
「……」
「どんな…どんな事でもしますから…」
 涙声のそれを聞いても、シンジの表情は変わらない。
 ただ、かすみの言葉のそれが、何を恐れての物だったのか。
 椿と由里の二人も、かすみが責任取りますから、などとはさすがに言えず、硬い表情でシンジの方を窺っている。
 だからややあってから、
「いいだろう」
 シンジの声にほっと安堵したものの、何でもすると言った事をすぐに思い出した。
「ただし」
 三人の身体がぎくっと硬直するのを見ながら、
「一途な信念は、時として身を滅ぼす事がある。それだけは、覚えておいた方がいいだろう。椿と由里のチンクシャな顔に免じて、今回は許す」
 チンクシャ、と言われて、
「いっ、碇さんっ」
「チンクシャって何ですかっ!!」
「ほらあれだ、子供を褒める時の言葉で…いででで」
 左右から引っ張られたのを、
「えーい、離せ!」
 振りほどいてから、
「お前ら、俺を猫かなんかと勘違いしてるだろ」
「べ、別にそんな訳じゃないですけど」
 フユノがいたら、文字通り命がけの悪戯になるのだが、ついさせてしまう所がシンジにはある。
 火や水、それに大地までも好きなように操り、はるか高みにあるような気もするのだが、こんな一面も持っている。
 交友層が広いのは、その辺に一因があるのかも知れない。
 真顔に戻ると、
「藤井」
「は、はい…」
「いい友人持ったよな」
「『え…』」
 それだけ言うと、もうそこの事は忘れたように、身を翻して歩き出した。
 呆然とその後ろ姿を見送った三人だが、やがて低い嗚咽が漏れたのは、かすみからであった。
「ば、ばかね何泣いてるのよ」
「そ、そうよ良かったじゃない…ゆ、許すって言われたんだから…」
 女性の間だと、時に月経は移ると言われる。
 無論、それ自体が病気な訳ではないが、一人がなると同じ空気にいる者達が、次々となったりする事もある。
 泣く、と言う動作もそれに含まれるのか、押し殺すような声は明らかに三つを数えていた。
 
 
 
 
 
「さて、気分はどうかしら」
 回診に回ってきたシビウは、一番最後にフユノの所へ行った。
「儂なら、辛うじて生きておるよ。それより…レニの容態はどうなっておる?」
「元気よ」
 シビウはあっさりと言った。
「精神の奥底にあった物の除去、そこから始めるつもりだったんだけど、こないだ出来上がった機械の被検体になってもらったのよ。これがまた予想以上のいい出来で、あと三日もすれば歩けるようになるわ。自分が狂わせたお人形さんが、気になるの」
 変わらぬ口調だったが、フユノの顔色がすっと変わった。
「この身が招いた事じゃ、いかような報いも受けねばなるまい」
「そんな事はないわ」
 シビウは静かな声で言った。
「レニの姿を見るたび、あなたは一生罪の意識から逃れられない。呼称を変えさせた事は、あの子から笑顔さえも奪い去った。私の患者であれば、死を持って償ってもらうところね」
 その操る針金がごとく、フユノの心は切り刻まれていく。
 これでシンジが許していれば、まだ話は別かもしれない。
 だがシンジが自分を許していないと、フユノが一番よく知っていたのだ。
 女神館の住人達には、いずれもフユノを慕わぬ者はいない。
 決して甘やかした訳ではないが、例えばアイリスなども唯一心を開く存在として、フユノと共にいるときは相棒のぬいぐるみを持っていない。
 神崎重工の生まれが災いしたものか、身体の半分がプライドで出来ているようなすみれも、フユノにだけはちゃんと従っている。
 父の重樹すら、敬遠しているすみれであっても。
 基本的に、シンジのこと以外では暴走する事はなく、普段は暴君などとはほど遠い。
 それが一変するのは、シンジが絡んだ時であり、そしてそれがレニへの対応となってしまったのだ。
「心の操縦が何を意味するのか、その身で直にお知りなさいな」
 医師らしからぬ言葉だが、これもこれでもしレニがシンジの従妹でなければ、或いは知り合いでもなければ、口など挟むまい。
 人道をかざして正義感を引っ張りだすような、奇怪な性格の持ち主でもないのだ。
 地下の院長室へ戻った時、大抵の者がまずまっすぐには来れぬここへ、迷わずに来れる数少ない知り合いを見つけて、その顔が綻んだ。
「あら、定期検診でも?」
「ちょっとだけ医者になる。悪いけど臨時で教えて」
 奇妙な台詞にも、シビウは笑顔で応じた。
「喜んで。それで外科?内科?それとも整形外科?」
「性格整形かな」
「たまにそれが必要な病人もいるわ。さ、入って」
 
 
 
 
 
「何、すみれが熱を?それはいかん、早う人をやって…」
「あのそれが…」
「どうした?」
 眼の中に入れても痛くない孫娘が、熱を出したと聞かされた神崎重工の総帥は、すぐに人をやるように命じた。
 だが返ってきた答えは、すでに追い払われたとの物であった。
「どういうことだ」
「それが…結界が変わっておりました」
「何?」
「すでに碇財閥総帥の物ではなく、その孫の物になったようです。ご存じの通り、すみれお嬢様のお部屋は霊的結界も強いため、生身で入るのは困難です。そのため、霊士達を行かせたのですが…」
 問答無用で弾かれたという。
 シンジ印になった、無人の護衛マシンとも言えるだろう。
 だがそれを聞いて神崎忠義の眉がすっと上がった。
「碇シンジ、だな。学園を落ちたと聞いているが、それがどうしてわざわざ管理人などになったのだ」
「対降魔の、最前線への配備と聞いておりますが」
「己の名前も記せず、大切な試験に落ちる輩に何が出来る。フユノ殿も老いられたか。とはいえ、そのような所とあらば預け先としてはやや不安が残るな」
 忠義に取って最大の不幸は、シンジの力量を知らなかった事であろう。
 名前を書かずに落ちた、と言うことしか忠義は聞いていない。
 これが、歴代でも唯一の完全な満点だと知れば、こんな言葉は口にしなかったにちがいない。
 
 
 
 
 
「ふあー、疲れた」
 だらーん、と伸びたシンジは、現在フェンリルの背で伸びている。
 まるで樽のように担がれる姿は、これが主だなどとは誰も信じまい。
「あたしに乗っといて何言ってる。そんな事よりマスター」
「ん?」
「あんな物、しかも大量に注文して何に使うの?」
「茹でるんだよ、茹でるの」
「茹でる?」
「藪をつついてコブラが出るって知ってるか?」
「蛇だろ、蛇。勝手にコブラを引っ張り出すな」
「一種だよ。その藪にしようと思ってな」
 ちらり、とフェンリルが背の主を見た。
「酔わせて本音ってやつか。だから酒まで頼んだか」
「そう言うこと。あ、そうそうその時は頼ん…いでっ」
 急に振り落とされ、シンジはぼとりと落ちた。
 正確には、フェンリルがその姿を変えたのだ。
「あまり受けたい役目ではありませんわね」
 おかしな物言いだが、
「俺はそんなに強くないから。フェンリルよろしく」
 きゅう、とその身体が引き寄せられたのは次の瞬間であった。
「口づけ一つ、これが代償なら安い物でしょう」
 そう言いながらも、強制的に持っていくことはしない。
 す、と妖艶な顔が近づいてきたとき、シンジは避けなかった。
 既に月が星に隠れ、辺りを暗闇が支配するなかで、二人の濃い影が一つに重なった。
 
 
「ははあ、結局誰も起きなかったのか」
「マスターのあれが強すぎたんだよ」
 帰ってきた二人に口づけの残香など微塵も見られず、既に普段のそれに戻っている。
「でも明日は早く起きるだろ。まだどたばた起こされそうだな」
「私が起こしてやるから大丈夫。で、どうする?」
「やる」
 シンジが短く言うと、フェンリルはすっとその姿をシンジの中に消した。
「ドクターシンジの診療教室」
 奇妙な単語を口にすると、シンジはある部屋の前に立った。
 すみれ、と記された部屋の前に。
 霊的結界があると、見ただけで分かったそれだが、シンジはためらいもせずに手を触れた。
 ジジ、と小さな音がしてあっさりと開いた。
 既に眠っているであろう佳人の元へ、シンジは許可も取らずに勝手に忍び込んでいった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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