妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第十五話:魔女医登場−治療代は貴方よ
 
 
 
 
 
「く…ふっ」
 鉄扉に激突したフユノを見て、さくらとマユミが走り寄ろうとして−出来なかった。
 意志は無論動く命令を出しているのだが、身体がそれを拒んでいたのである。
「さ、さくらあれ…」
 マユミの震える声に、さくらの視線が動く。
「あ、あ…」
 二人の前には、直径十メートルはありそうな大穴が映っていた。
 シンジのそれが直撃した様子は無かったのに、どうしてフユノが吹っ飛んだのか、二人には最初分からなかったのだ。
 だが、今やっと分かった。
 そう、シンジがアスファルトの地面に大穴を穿ち、その爆風でフユノが吹っ飛んだのだ、という事を。
 つまり、シンジのそれ自体はフユノにかすりもしなかったのだ。
 とは言え、傍観はしていられないと、二人支え合いながら立ち上がろうとした時、その肩がぐっと掴まれた。
「いいから、黙って見てなさい」
「『…え?』」
 
 
 吹っ飛んだフユノに、慌ててレニが走り寄る。
「御前様っ」
 だらりと下がった肩を見て、折れているとすぐにレニは知った。
 そのレニの頭に手を置いて、
「なぜ…来たのじゃ…シンジは…来るなと…言ったであろうが」
 レニは激しく首を振って、
「僕は…僕には見捨てる事は出来なかった…」
「僕…そうか、それでナオコが来させたか…」
 フユノがわずかに笑った時、
「外したか」
 気は依然衰えぬシンジが立った。
「どうして…?」
 シンジを見上げたレニに、
「風が教えてくれた」
 シンジはひっそりと言った。
「…風が?」
「誰がお前に、お人形さんになれと言った?俺はそんな事を従妹に命じたか?」
 レニには分かっていた。
 シンジの触れるべからざる気が、自分にあるのだと言うことを。
 
 
「このままでは、シンジには相応しくないからの」
 文字通り、闊達の二文字が当てはまっていたレニ。
 まだ幼かったと言うこともあり、淑やかとは無縁の存在であった。
 しかもそれが、
「僕は大きくなったらシンジのお嫁さんになるんだから」
 言われた本人の意思は別にして、堂々と公言しているとなれば。
 シンジを溺愛している祖母としては、そう言ったのも仕方ないかも知れない。
 端から見れば、相応しい者に仕上げよと、そう聞こえない事もないのだから。
 ただ、シンジ同様両親を亡くしていたレニに取っては、不幸の始まりの言葉でしかなかった。
 更に、邸にろくな者がいなかったのも不幸に輪を掛けた。
 女らしくではなく、ただの人形に仕立て上げたのだ。
 
 
 本来ならば、フユノを見捨てても良かったろう。
 レニの変貌の一端は、いや元凶は間違いなくフユノなのだから。
 まして、レニにとってはフユノを救う義務など片鱗もないのだ。
 だがそれでも来たのは…。
「でも…シンジ…」
「ん?」
「僕は、シンジに自分のお祖母さんを殺して欲しくな…あっ」
 言いかけた時、その身体がひょいと宙に浮いた。
「な、何を」
「だから止めたのさ」
 言うと同時に、レニの耳にふっと息を吹きかけたシンジ。
「あんっ」
 かあっと赤くなり、レニのほっそりしたした肢体がびくっと震える。
 
 
「碇さん…」
 危険な声がマユミの隣でしたが、マユミは知らんぷりする事にした。
 
 
「お婆様、大丈夫?」
「この程度、大した傷ではないわ」
 何とか立ち上がった時、
「いつからいた?」
 レニを抱き上げたまま、シンジがミサトに訊いた。
「さっき来た所よ。まったく手加減知らないんだから」
「最大限の手加減だ」
 冷たく言い捨てた弟は無視して、ミサトはレニに視線を向けた。
「この子が止めて見せるとはね。さすが許嫁は違うって事ね」
 どこか棘があるのは気のせいだろうか。
 しかも、
「許嫁って誰がですか」
 殺気に近い物を帯びた、いやな声がシンジの真後ろでした。
「さくら、何で来なかった?」
「え?」
「山岸と一緒に俺をつけていたな。何をしてた?」
 気付かれていないと思っただけに、その表情が一瞬固まる。
 が、すぐに、
「そ、そんなことより碇さん、許嫁って何ですか!」
「何のこと?」
 聞き返したシンジだが、赤くなったレニを抱きながらでは説得力がない。
「何って…その、今ミサトさんが…」
「俺にそんな者いないぞ。なあ、レ…ひたた」
 レニ、と言いかけたらいきなり顔を引っ張られた。
「シンジのくせに僕に触らないで!」
 さっさと下りてしまったちょうどその時、
「道路壊したら、公共物の破損でしょっ引かれるわよ」
 濡れたような声に、一斉に視線がそっちを向く。
「シビウ…なんでここに」
 シンジがなぜか嫌そうな視線を向けたが、さくらとマユミはおろか、レニまでも陶然となってその人物を見つめている。
 全身を黒のコートに包んだ、その妖艶な美女を。
「患者がいれば、私はどこへでも出向いていくわ。もっとも、今回はこの子の依頼なのよ」
 視線を見るとミサトらしいが、これも呼んだ割には諸手をあげて賛成してはいないようだ。
 が、そんな事は気にした様子もなく、妖艶な雰囲気に相応しく、妖花のように微笑むとすっとフユノの側に屈んだ。
「かすりもせずにこれだけの傷−さすがはシンジね。もっとも、御前でなければ、とっくにあの世行き−痛む?」
「何の、これしきではな」
 やや血の気が引いた顔ながら、フユノはにっと笑った。
「相変わらず強気なお婆さんね。でも、そこがまたいいのだけれど」
 言いながら小指を患部に当てる。
 ぞくりとするほど美しい小指であった。
「そこのお嬢さん、その木刀を貸してちょうだいな」
 シビウに見られた、と知った瞬間マユミの背に何かが走った。
 官能のそれだと、自分でも気付かぬまま、
「は、はいどうぞ」
 ふらふらと、まるで引かれるように近づくと、木刀をすっと差し出した。
「ありがとう」
 片手でそれを受け取ったのはいいが、次の動作にはシンジ以外の全員が、ぎょっと目を見張った。
 この女医が、それを持った手に力を入れると、それは真ん中から二つに折れたのである。美しさはあれ、力とは無縁に見えるこの指のどこに、そんな技量が隠されていると言うのか。
 しかも、それは軽く力を入れたようにしか見えなかったのである。
 折れた木刀の片方を、血まみれになった肩口に当てる。
 出血が増えているのは、シビウの小指が縦一文字にそこを裂いたからだ。
 傷口を悪化させるような行為にも、誰一人口出し出来ないのは、そこに厳然たる医の世界が築き上げられているからだ。
 ただ一人、相も変わらず嫌そうな顔をしているシンジ以外は。
 しかしこのシンジ、嫌悪とは微妙に異なった表情なのは何故か。
「ミサトちゃん」
「…何」
「私の初診はここまで。後は別料金よ」
「お断りよ」
 即座にミサトは否定した。
「仕方ないわね」
 シビウは妖艶な美しさを、崩す事無く立ち上がった。
「悪血を取り除いて、添え木まではしてあるけれど、早いところ手術しないと腕が死ぬわ。そう−五分以内にね」
 ぎりっとミサトが歯を噛み鳴らした。
「何を払えって言うのよ」
「お金など、私には無用の代物よ」
 そう言いながら、視線がまっすぐシンジに向けられている事に、全員が気付いた。
 いや、正確にはその唇に。
「レニ、帰るよ」
 視線を無視してさっさと歩き出そうとしたシンジ。
 その間も、フユノの肩口は微量ながら出血を止めようとはしない。
「ま、待ってシンジ…」
 この場を打開出来るのはシンジだけと、直感で知ったらしい。
「このままじゃ御前様が…助けてあげて」
「こらレニ、あの妖怪だぞ。いいのか?」
「いいの」
 レニがこくんと首を振る。
「やれやれまったくもう」
 ぶつぶつ言ってから、
「治療代、お支払いしよ…ん」
 言いかけた時にはもう、黒衣の妖美が目の前に迫っており、シンジの唇はふさがれていた。
「『なっ!?』」
 この主はさくらとレニ。
 まさか、まさかこんな事になるとは思っていなかったのだ。
 そして、それを睨むように見ているミサトの視線にも、危険な物が混ざっている。
「…ご馳走様」
 数十秒後、やっと唇を離したシビウは、人差し指ですっと唇を押さえた。
 それだけ、ただそれだけなのに、見ていた少女達の顔がみるみる紅潮してくる。
 魔女医の仕草に中毒ったらしい。
「治療代、確かにちょうだいしたわ」
 一瞬で口調から危険な物は消え、ドクターとしてのそれに戻る。
 シビウがその指を再度当てると、フユノの傷口は瞬時に出血を止めた。
 しかも信じられない事に、ただの木刀の破片だったそれは、フユノの傷口にすうと溶け込んでいったのだ。
「これで治療は終わり」
 傷口を点検しながらシビウが言った。
「ただし、全身の打撲があるから一ヶ月くらいは入院した方が良さそうね」
 シビウがそう告げるのと、救急車のサイレンが響いてくるのとが同時であった。
「世話を掛けるね、ドクター」
 フユノが自分の傷口を見ながら言った。
 軽く首を振って、
「私はいいのよ。治療代さえ貰えれば、ね」
 シンジに流し目を向けた時、シンジは背中に、やーな視線が集まるのを感じていた。
 それも二対の。
 ただし、ちゃんと治るんだろうな、とは言わなかった。
 人格と腕は別問題であり、前者はともかく後者に関して、シンジはまったく異論は持っていなかったのだ。
 そのシンジだが、ふとシビウの視線を見返した。
 そこに、何かの意志を感じたような気がしたのだ。
「シビウ」
 シンジが呼んだ。
 この世界でただ一人、シビウを呼び捨てに出来る男が。
 フユノでさえ、決して名前を呼び捨てにはしないのだ。
「何かしら?」
 シビウの赤い唇が艶めかしく動いた時、そこには医師のそれは全くなかった。
「何?」
 逆にシンジが聞き返した時、シビウがすっとシンジに歩み寄った。
 歩いた、と感じさせぬ進み方は、どこか風のそれにも似ていた。
「その娘、そのまま連れて帰ったら壊れるわよ」
 それを聞いて、シンジの表情が僅かに動く。
 その娘と言うのがレニを指している事、そしてそれが医師の見立てである事を、シンジは瞬時に知った。
「自我の崩壊か?」
 囁き返したシンジに、シビウは妖然と頷いた。
「分かってるじゃないの。お馬鹿さん達のせいで、深層意識にかなり強い暗示を掛けられているわ。おそらく、元の性格を完全に封じる位のね」
「どれくらいかかる?」
「ざっと一ヶ月。私の名に賭けて」
 シビウがこう言うとき、通常の五分の一以下である事をシンジは知っている。
 つまり、本来なら半年以上はかかると告げたのだ。 
 刹那、シンジの双眸に危険な光が宿ったが、理性の力で押さえ込むと、
「レニ、おいで」
 前に立ったレニに、
「一ヶ月、ドクターの所でお世話になるように」
「え?」
「シンジと、また前のように暮らしたいのなら私の所へいらっしゃい」
「シンジ…と?」
 シンジを見上げた時、ちょうどフユノが救急車で運ばれて行く所であった。
 隊員達が事情を聞こうとしなかったのは、フユノが視線で制したからだ。
 シンジのそれが、未だ消えてはいないことを、フユノは分かっていたのである。
 自分を見上げるレニの視線に、
「そうだ」
 と、シンジは一言だけ答えた。
 それに何を感じたのか、
「分かりました、お願いします」
 レニは、シビウに深々と頭を下げた。
「安心なさい、必ず元に戻してあげるから。そうでないと私も困るのよ」
「困る?」
「治療代をもらい損ねてしまうわ」
 唇が妖しく動いた時、その視線が自分を見ていないのにレニは気付いた。
「また…シンジから?」
「他に誰が支払って?金銭などは無用の私に」
 治療代は金銭ではないと、はっきり告げたシビウ。
 またシンジに何かするに違いないと、内心穏やかでないレニだったが、それはさくらも同様であった。
 ただ、シンジがそれを喜んでいないにも関わらず、それをレニに指示した事で、レニは従う事に決めていた。
 自分の受けた事を消すには、この女医の治療が必要なのだから…そう自分に言い聞かせて。
「シビウ、後は頼んだ」
「任せて」
 軽く頷くと、
「さ、行きましょう」
 先に立って歩き出し、引かれるようにレニが続くのを、シンジは見送った。
 が、ふと気付いたように、
「面会は?」
「謝絶よ」
 あっさりと拒否された。
「やむを得んか」
 目の前の陥没した穴に視線を向け、
「姉貴、これ直しといて」
「高くつくわよ」
 実の弟ながら、並々ならぬ執念を燃やしているミサトに取って、シビウにむざむざ唇を奪われたなど、精神状態はかなり危険なゾーンまで達している。
「昼寝くらいなら付き合うさ」
 それだけ言うとさっさときびすを返し、
「一緒に帰る?」
 さっきから、自分をじーっと見ているさくらに声を掛けた。
「いいです、先に帰って下さい」
 つん、として言い放ったさくらに、
「じゃ、これで」
 歩き出しかけたが、背中への視線は消えない。
 それどころか、もっと一層強くなっているような気さえする。
「い、一緒に帰ってもらっていい?」
 下手に出ると、さっさと歩き出した。
 怒ったかと思ったら、
「碇さん、さっさと帰りますよ」
 少しだけましになったらしい。
 と、その時、
「お話、よろしいですか」
 黒服が数名、すっとシンジの前に立った。
「どこの組だ」
「公安の者です」
「用はない」
 歩きだそうとする前を、すっと阻んで、
「何様か知らないが、これだけの騒ぎを起こしておいて、ただで済むとは思っていないだろうな」
「たっぷり話は聞かせてもらうぞ」
 居丈高にすごんでみせた連中を、シンジは静かに眺めた。
「俺、暇じゃないんだけど」
 妙に弱気に見えるそれをどう取ったのか、
「さっさと来い」
 その手を掴もうとした途端、前にがくりと倒れ込んだ。
 明らかにシンジの仕業ではない。
「鬱陶しいのよあんた達」
 危険な声は、間違えようもない殺気を孕んでいた。
「何だおま…ふがあっ」
 仮借のない一撃が男を襲い、男は歯を気前よくばらまいて吹っ飛んだ。
「あたしの機嫌、いま生理の最中より悪いのよ」
 ミサトは静かな声で言った。
 気の抜けたような青年より、こっちの方が凶悪そうだと、男達の手が懐に入る。
 だが、それを抜き出す事は出来なかった。
 手が懐に消えた途端、その背中に一斉に着火したのである。
 しかもそれは、みるみるその火力を増していったのだ。
 そう、文字通り火だるまに。
 断末魔の悲鳴を上げて転がり回るそいつらを見ながら、
「さくら、山岸、行くぞ」
 すっと歩き出したシンジに、慌ててさくらが追いつき、マユミも後に続いた。
「馬鹿が」
 ミサトが水を叩き付け、男達からやっと火が消える。
 全身大やけどのそれを見ながら、
「後は任せたわよ」
 門の中では、既に碇邸の使用人達が全員出てきている。
 メイドの一人に声を掛けると、ミサトはさっさと中へ入っていった。
 メイド達が数人出てきて、男達を軽々と担ぎ上げた。
 それと同時に何人かの男達が、今度は工事用具を運び出してくる。
 たちまち掘削工事が始まり、当主の孫がこしらえた大穴も、数十分後にはきれいに元通りに修復されていた。
  
 
 
 
 
(つづく)

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