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 ハイジ略史
 
 (楓物語)

『楓物語』(1925年 大正14年)について紹介いたします。
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 楓物語(かへでものがたり)

 ヨハンナ・スパイリ原著 山本憲美譯述

 瑞西(スウイス)の國(くに)マイエンフエルトと云(い)へば、舊(ふる)くからの街(まち)で一寸良(ちよつとよ)い處(ところ)であるが、(略)

 

・・とはじまります。

 

『足疲(くたび)れたかい。楓(かへで)ちゃん、』と婦人(ふじん)が訊ねた。
『ウン、暑(あつ)いの』と女(をんな)の兒(こ)が答へた。
『もー直(じ)きだよ』

・・と伊達さんが楓を『勵(はげ)ま』して登場し、『アールム山』に向かって登って行きます。
 ちなみに父親のトビアスは
『苫次(とまじ)』になってます。
 それから
辧太(べんた・ペーターです。新漢字なら弁太ですね。)は『今年十三歳である。』とあります。楓は『七年斗(なゝつばかり)の兒(こ)』です。これは数え年のことでしょうか? 『阿母(おふくろ)』とブリギッテを紹介しています。そして・・

『楓(かへで)、御前(おまへ)何をして居(い)たの! 何んだいそれは! 着物を何(ど)うしたのサ? まあ,買った斗(ばか)りの靴(くつ)も編(あ)んで遣(や)った靴下も有(あ)りやしないよ! 楓(かへで)や、何(ど)うしちまつたのサ! みんな何處(どこ)へ置いて来たの?』
 子供の方は落付(おちつき)拂(はら)つて『あすこ』と下の方を指(さ)した。

 

 ・・そして伊達さんは辧太に『五銭銅貨』を見せるのです。伊達さんや村人は最初『祖父(おぢい)さん』と呼んでいるのですが、そのうち『爺(おやぢ)さん』『お前(まへ)さん』『『爺(おやぢ)』『山爺(やまおやぢ)』と呼び方が悪化して行きます。

 

『だつて俺(おれ)ん處(とこ)へ子供なんぞ連れて來(き)たつて仕様(しやう)がねーぢやねーか!』
(中略)
『(中略)引取(ひきと)らないなら勝手(かつて)に仕(し)なさいよ。間違(まちがひ)がありやー御前(おまへ)さんのせいだから。面倒(めんだう)だもんで嫌(いや)がってばかりゐ(い)るよ。』(中略)
『モー歸(かへ)つて呉(く)れつ。滅多(めった)に此處(こゝ)へ來(き)なさんなつ』(中略)
『それぢや歸(かへ)るよ。サヨナラ、楓(かへで)も左様(さよう)なら……』

 

 ・・大正時代の話し言葉を文章で読むと、ずいぶん日本語の書き方も変化したものだなと面白くてなりません。

 

『その包(つゝみ)を持(も)つて御出(おい)で』(中略)
『モー要(い)らないんだよ』(中略)
『利口相(りこうそう)だがな。(中略)何故(なぜ)要(い)らないのさ』(中略)
『山羊と一緒(いつしよ)に驅(か)け度(た)いんだもの』
『御驅(おか)けな、だつて着物は持つて御出(おい)で! 戸棚(とだな)に入れとくんだから。』

・・あと、楓のセリフをひろっていくと、

『祖父(おぢい)さん! あたい何處(どこ)で寝るの?』
『あたい、蒲團(ふとん)を造(こし)らへらあ』
『祖父(おじい)さん! 上敷(うはしき)を持って來(き)て!』
『未(ま)だ足りないや!(中略) 上(うへ)に掛(か)けるのが要るよ!(中略)ああ、無(な)くたつて善いや。モツト草(くさ)を掛(か)けりやー』
『良(い)い寝床(ねどこ)だネ 早く夜になればいゝネ 寝て見度(みた)いやあ』
『何か食べたいよ祖父(おじい)さん』

 

 ・・そして「どんぶり」に注がれた「乳(ちゝ)」「パン」「眞黄色(まつきいろ)な乾酪(チーズ)」

 

『ずゐぶん旨(うま)いや!』
『白(しろ)ちやんも赤ちんも御休(おやす)みなさい!』(
白とクマのことです)

・・そして出発
 

『祖父(おぢい)さん! これでも御天道様(おてんとうさま)が笑(わら)ふ?』本氣になって聞いた。

 

 ・・山の牧場では、

 

『此(こ)のお乳(ちゝ)はあたいの?』
『辧(べん)ちやんは何(ど)れの乳(ちゝ)を呑(の)むの?』・・そして辧太に
『上げやう! あたい要らないや』
 

 ・・と残ったお弁当をあげてしまいます。山羊の名前は『茶目』『手取り』『デス』『矮(ちび)』です。アトリは場所によって『手取り』だったり『デス』だったりします。

 

『矮(ちび)、何(ど)うしたんだい? 何故(なぜ)鳴(な)くの?』(略)
『可哀想(かあいそう)だね、御前(おまえ)は。(中略)泣くんぢあ無いよ、ね、あたいが毎日來(き)てやるから淋(さび)しか無いだろ、何か欲しけりや上(あ)げるからね』

 

『辧ちやん、辧ちやん!火事(くわじ)!火事(くわじ)!山が皆な燃えてるよ!(中略)綺麗(きれい)だな雪の燃えるのは!(略)』

『祖父(おぢい)さん!随分綺麗(ずいぶんきれい)だったよ!(中略)火が燃えてね、崖の上(うへ)に一杯薔薇(いっぱいばら)が咲いて種々(いろいろ)な色の花があって、ほら祖父(おぢい)さん持って來(き)た。 (中略) 何(ど)うしたんだらう? (中略) 斯(こ)んなぢや無かつたのに何(ど)うして斯(こ)んなになつちやつたんだろ?』
『日向(ひなた)が好きなんだろ、御前(おまへ)の前垂(まえだれ)の中より』(おじいさん)
『それぢや、あたい、もう採つて來(く)るのを止(よ)さうや。祖父(おぢい)さん! 鳶(とび)は何故(なぜ)あんな聲(こえ)して鳴くの?』
『御山(おやま)には何故(なぜ)名が無いの?』

 

・・おじいさんは『鷹の巣山』『白山』だと答えます。

 冬になって楓が辧太の家にいき、祖母(おばあ)さんが『此(こ)の子は何(ど)んなだね』と聞きます。辧太の阿母(おふくろ)は
 

『阿母(おふくろ)に似(に)て花車(きゃしゃ)な兒(こ)ですよ。眼付(めつき)や髪の毛の按配(あんばい)は亡くなつた親父(おやぢ)や山爺(やまおやぢ)にそつくりですね』

 

 ・・といいます。やがて楓は祖母(おばあ)さんの目のことを知って泣き出します。

 

『誰(た)れも見えるやうにして呉(く)れないの? 何(ど)うしても駄目(だめ)なの?』
 祖母(おばあ)さんは反對(はんたい)に子供を慰めて居たが、楓は中々聞き入れ無い。滅多(めつた)に泣いたりしない兒(こ)だが其(そ)の代(かは)り泣き始めると一寸(ちよつと)止(や)めない。

 ・・ことになってしまうのです。
 さて
「フランクフールト」編です。
 

 久良子は顔色(かほいろ)の青白(あをじろ)い目付(めつき)の優(やさ)しい娘である。

・・であり、

 古井(ふるゐ)さんは古風な肩衣(かたぎぬ)様なものを着てゐるのと、丈(せい)の高(たか)い圓帽(まるぼう)を被(かぶ)つてゐるのとで、大層(たいそう)鹿爪(しかつめ)らしい婦人に見えた。

 

・・です。久良子の性は「本間」で、御者は「譲次(ぢやうじ)」賄方(まかないかた)「柴田」、そして「お常さん」です。名前を書くのは面白いのでついでにいきますと久良子の家庭教師は「神田先生」で、久良子のおばあさんは「隠居」と書かれます。
 クラッセン医師は最後まで
「醫者(いしや)」です。素朴な(間抜けな私の間抜けな)疑問で「醫者(いしや)」と「石屋」はひらがなだけではどう区別したのだろうと思ってしまいます。
 
 古井さんは楓に聞きます。

 

『御名前(おなまへ)は?』
『楓(かへで)』
『教會(けいくわい)の聖名(な)は?』
『そんな事知らない!』
『まあ、何(な)んと云(い)ふ事でせう!』
『伊達さん、之(こ)れは低能兒ですか?』
(注・これはいまでは使えない言葉ですね)
『御免遊(ごめんあそ)ばしませ。實(じつ)は未(ま)だ……一向(いつかう)斯(か)う云(い)ふ場所に慣れてませんものですから……』伯母(をば)は楓(かへで)を咎(とが)める様(やう)に肘(ひぢ)で一寸(ちょっと)突(つ)いて(中略)
『(前略)聖名(クリスチヤン・ネイム)は、あの……私(わたくし)の姉(あね)に當(あ)たります之(こ)れの阿母(おふくろ)がアデライド……矢(や)つ張(ぱ)り之(こ)れにも左様(さう)付けて御座(ござ)います……』
『はゝあ、アデライド! ふふむ、それで……久良子様の御稽古(おけいこ)の御相手(おあいて)ですから(略)』

 

 ・・と続いて行きます。久良子は

 

『もっと此方(こっち)に入らつしやい!(中略)あなた、楓さん? それともアデライドさん?』
『楓! 他(ほか)には名はないの!』
『夫(そ)れぢや、左様(そう)呼ぶは。良い名だわね。楓つて。珍(めづ)しいわ、妾(あたし)始めてよ。あなたの様(やう)な風(なり)をして居(ゐ)る人。あなたの毛(け)は前(まへ)から斯(こ)んなに縮(ちゞ)れて居(い)て?』
『知ら無い!』

 

 ・・なるほど、久良子は楓の民族衣装のことを言っているのかもしれません。
 伊達さんに逃げられた古井さんは激怒です。

 

『お常や! あの赤坊(ねんねい)の室(へや)を掃除(そうぢ)して置(お)き! まだハタキが掛けていないぢやないか!』
『そんなに丁寧(ていねい)に致すんで御座いますか……』とお常どんは不平顔(ふへいがほ)して罷(まか)り出た。

 

 ・・でも、柴田さんとは仲が良くなります、インク事件のあとですが、

 

 柴田は楓が怖々(おづおづ)尋(たづ)ねるので聲高(こわだか)に笑つた。
『豆(まめ)ちやん、何んですね?』
『私(あたい)豆(まめ)ちゃんぢやないの、楓(かへで)!』
『だつて古井(ふるゐ)さんが左様(さう)呼べと云(い)ひなさるもの』
『左様(さう)? そいぢやあ………』(中略)『ぢやあ私(あたし)は三つ名があるんだ……』と溜息を吐(つ)きながら云った。
『そこで何御用?』

 

 ・・楓は窓を開けてくれるよう頼みます。
 お話はまだまだ序盤ですが、残念ながらこのへんで中断しましょう。

 


 
 大正時代の本が、すべてがすべて、この調子かといえば、違います。
 
 ハイジの初訳である野上弥生子版は『楓』の5年前の出版ですが、旧かなづかいを直せば現代文としてもほとんど違和感がなくなるほどの名訳です。
 文字を若干おきかえて野上訳を書いてみます。

 
「着物の包みを持っておいでよ。」
「わたし、あんな着物なんかもういらないのよ。」
「この子はなかなか利口だ。」「なんだって、もう着物がいらないのだ?」
「だって、わたし、細い、軽い足をした山羊たちと一緒にとびまわりたいんですもの」
「じゃ、好きならそうしていい。でも荷物だけは持っておいで、戸棚へしまわなくちゃならない」

 

 もちろん、原文は「ゃゅょっ」は大きいままで「じゃ」は「ぢや」になっていて、漢字も違います。でも雰囲気はずいぶん違います。格調高くて、実際に山村で話されていた言葉らしくないといえるかもしれません。

「楓」の訳者の山本憲美(のりよし)については、ほとんど無名に近いようで、なかなかデータがありません。この人は楓以外に、国会図書館に所蔵されているかぎりでは2冊の本がありどれも英語からの翻訳のようです。

 

 一冊は大正7年の「司令官」です。もう一冊は昭和14年の「基督の教」(教文館)でキリスト教の歴史・性質を簡単に解説した本で、どうやら教科書のようです。
 それら本の内容と出版社の性格からしてかなりのクリスチャン系知識人です。
「図説 子どもの本・翻訳の歩み事典」(柏書房)にも重訳であり、登場人物の名前が独特である以外の詳しい紹介はありません。

 

 楓物語を出版した福音書館は下関の出版社で、当時は福音と名がつく出版社が全国各地(東京・仙台・金沢などです)にあったようです。山本憲美は神奈川に住んでおられたようですが、中国地方か九州にかかわりがある人かもしれません。神戸と徳島に関係の深いクリスチャン系有名思想家・賀川豊彦の著作もこの出版社から出ていることも傍証でしょう。
 楓がどのくらい発行されたのは、これまたわかりません。でも残っているのは非常にめずらしいようです。

 2003/11/26に「トレビアの泉」という番組で『楓物語』が紹介され、一躍、この本が全国的に知られるようになりました。この番組で紹介された本は、福岡の西南学院所蔵のものです。
 さすが人気番組、よく探し出しました。この学校はクリスチャン系であることも付け加えておきましょう。


追記(2006/12/28)
 メールで新しい情報がよせられました。
 国会図書館、各種年鑑、人名録など、それなりに私としては手をつくしてわからなかった訳者のプロフィールがついにわかりました。大変参考になります。
 やはり山本憲美さんはすごい方でした。
 これで児童文学翻訳史の空白の一つが埋まります。
 そして初訳である野上訳との相違点の比較が重要になってきました。
 新しい展開が得られそうです。
 情報をご提供いただいたM様に感謝いたします。
(以下 メール文を引用)

訳者 山本憲美について
 

『日ノ本75年史』日ノ本学園 昭和43年 85〜89、105頁などの記述から 

誕生 1882年7月1日 東京・麻布で誕生
死去 1950年5月11日 神戸で死去

 5歳で両親に先立たれ、14歳の時に唯一人の肉親であった祖母にも死別。
 このため中学校を退学し、以後苦学力行、明治41年早稲田大学高等師範部地歴科を卒業、横浜の捜真女学校に奉職。
 高等女学部で歴史と英語を担当する一方、同校英文専門科でも英語を教えた。
 大正7年、同僚の輝代と結婚(輝代は後に神戸の頌栄短期大学教授〔音楽〕となった)。

 大正12年7月、渡米留学のため退職するまで15年間同校に勤続。大正14年ペンシルベニア州のバクネル大学(Bucknell Univ.)文科卒業B.A.(バチュラー・オブ・アーツ)、さらにカリフォルニア州バークレー市バプテスト神学校で1年間ギリシア語と教会歴史を学んだ。
 大正15年から昭和4年までの4年間、カリフォルニア州アラメダ市(サンフランシスコの対岸)の亜布学園(日語学校)の園長兼教師となる(同州教育局より教員免許を受ける)。
 また同時にサンフランシスコ市の日米新聞社の「週刊日米」の編集主任も担当した。
 昭和4年9月に帰国し、夫妻で姫路市の日ノ本女学校に着任。憲美は英語と国語、輝代は音楽を担当した。
 昭和5年1月に憲美は教頭に就任し、10月にウイルカックス校長の帰米に伴い校長代理となる。
 昭和6年9月、校長に就任し、昭和11年7月病気のため辞職。学校では、その暖かい人柄から、教員、生徒から「我等の校長先生」と敬慕されたと記されている。
 辞任後は神戸に住み、第二次大戦後は占領軍の大阪検閲局(C.C.D.)に勤務。
 昭和25年5月11日、68歳で永眠した。
 翻訳の外、創作も得意であった。校報「ひのもと」を昭和7年に創刊したが、「日野元男」(ひのもとお)または「日野元子」(ひのもとこ)のペンネームでユーモラスな短編を数多く連載している。

横浜のバプテスト教会会員のクリスチャンであった。勤務した捜真女学校、日ノ本女学校はいずれも、米国北部バプテスト派によるミッション・スクールです。

 『楓物語』の出版元について

福音書館は、米国南部バプテストの経営のキリスト教書出版社です。
明治35年に福音書店が長崎に設けられ、大正12年頃に福音書館と名称を変更し、昭和9年に南部バプテストが出版事業から手を引き閉鎖されました。
西南学院は南部バプテストの経営でしたので、『楓物語』が残されていたと思います。

(tshp補足 キリスト教バプテスト派は、プロテスタント系でイギリスで成立した。カルヴァン的教義で、清教徒革命後の国教会の迫害により新大陸に渡り、アメリカでは初期からの中心的キリスト教派として発展。南北戦争時に「北部」と「南部」に分かれた。明治より日本に布教活動を行い、東日本は「北部」、西日本は「南部」が担当した。)


 実はワタシのところにも番組制作会社から「♪おしえて〜」と事前照会があったんですが、サイトに書いてある以上のことは知らなかったので、「♪ごめんね〜」というしかありませんでした。それからフランダースの話題の時は、当然、関係ありません。(^ ^;;)

 

 私が楓の存在を知ったのは、他愛もないですが3年前の国会図書館の検索です。
 スピリ原作で古くてわけのわからない本があったので、ものはためしでノコノコ霞ヶ関へ出かけていって、閲覧請求出しましたら監視付の特別室につれていかれ、「ここで見なさい」と表紙のとれたボロボロの本を渡されました。
 これでは番組に使えません。(トレビアなんて番組なかったけど)

 

 中をみて、「へぇ〜へぇ〜、こりゃハイジだ!」とびっくり。
 次に面白くてニコニコとしてしまいました。
 いまでは原本は出してもらえずマイクロフィルム化されていて、ますます幻の本になりそうです。
 

 さて、なぜ「楓」なのでしょう。ハイジ公式掲示板に投稿したことがあるのですがKAEDEHAIDIを比べてみれば似てないでもありません。(そうとうムリなこじつけ)

 
 KとHは手書き文字ではほとんど同じ形になってしまいますし、EとIを置き換えれば楓になりそうです。
 もっともハイジの正式スペルはHEIDIですが「ヘ」は日本語では人名に使いにくいし、初訳で評価の高い「野上訳」が「ハイヂ」と「ハ」を使っていますので仕方ないと思ったのでしょうか?

 

 楓と同じ訳者で、2年前に出版された「司令官」では、登場人物の名前はやはり日本風にされていますが、文体は楓と違って整って美しく、くだけた言葉は使用されていませんでした。楓の話し言葉の「くだけかた」は訳者にとってもこの本だけにあらわれているようです。

 

 あの楓の文体は、できるだけ読者の敷居を低くしようとする努力のあらわれでしょうか?。
 そうとうぞんざいな話し言葉もあって「これはいかがなものか?」と今では思ってしまうような言葉が続出するのは、訳者が無神経なためではなく、読者として
「社会の底辺にいて勉強などなかなかさせてもらえず、本も買えないが、たまたま訪れた教会にそなえてある貸し出し用図書で「楓」に接するかもしれないような地方の子供たち」
 までも対象としているから。かもしれません。

 

 また、すべての漢字にルビがふってあって、ひらがなさえ読めれば読めるようになっています。
 人手で活字を一個一個ひろうという、現代とは比べ物にならないほどの手間が必要な時代なのに、かなりの労力をかけています。
 この手間のおかげによって、学問がなくても本を読めば、いつのまにか漢字も読めるようになったといわれています。(これは楓にかぎりません)

 一般常識をもとにするならゼーゼマンの「本間」は江戸時代から続く秋田の豪商「本間家」をイメージして、いかにもお金持ちらしくしたのかもしれません。(追記・間違えておりました。秋田ではなく、山形県北西部の「酒田」市の豪商でした。失礼いたしました)
 柴田はなんとなく誠実な感じもします。御者の譲次はヨハンの先頭をローマ字読みしたのかもしれません。あまり重要でないキャラクターですから、どうでもいいといえばどうでもいいでしょう。

 

 孤児で、5歳で育児放棄同然の扱いをうけて山小屋にとりのこされる「楓」の境遇は
「夫(そ)りや! 餘(あんま)りだよ。あんな年(とし)の行(ゆ)かないものを捨(す)てちや!」「可愛相(かあいそう)だ、可愛相(かあいそう)だ」(><)
 
なので、苦しい状況にある子供にとっても容易に共感できるはずです。
 これは原作者スピリの狙いでもあったでしょう。
 そんな子供たちの友達、世渡りの手本として「楓」は役にたつはずです。
 それにはお上品な言葉をつかっちゃあ・・ダメなんでしょう。
 
(それが裏目にでたのか・・?)

 

 読者の子供たちにわかりやすく、親しみやすく、世界の名作をとどけたい。って、これはアニメ高畑ハイジの企画理由と同じではないですか! ということは、楓物語は大正時代の「アニメ」なのだと、考えられ・・ませんね。(可能性がでてきました。2006/12)

 簡略訳ですし、重訳ですし、その他の問題点も多い翻訳である「楓」がほとんど忘れられた存在になったのはムリもないかもしれません。

 ともかく、この本はおもしろすぎるので、なにか知っておられる方がおられましたら、情報提供をお願いいたします。

 「♪楓はなぜ、ハイジの名前なの

   クララはなぜ本間久良子なの

    おしえて〜 やまもとのりよしさん!」


2004/3/15


楓物語 奥付