ということば……(60) 愛・感動・希望
1/1/05
大晦日のNHK紅白歌合戦、今回のテーマは「愛・感動・希望」でした。これらの言葉そのものは大変素晴らしいのだけれど、とってつけただけの感があります。企画者もそんなに深く考えずにやっているだろうし、少なくとも単語の羅列だけでは、誰も新鮮さを感じなかったのではないでしょうか。正直なところ作る方も見る方も、「愛・感動・希望」というテーマは別にどうだっていいと思っているに違いありません。
ぼくはもう大学生時代から紅白をほとんど見なくなりました。ぼくが若かった70年代から歌はどんどん商業ベースになってきて、いろんなことを言ってるけれど、結局はお金だけが目的みたいなところがあって、言葉が真実味を失っていきました。一方で、バカっぽいものはほんとにバカっぽいだけで、とてもつきあいきれません。ちょっとでも言葉に敏感な人なら、その辺のことは痛感されているのではないかと思います。若いとか中年とか古いとか新しいとかの問題ではありません。スポーツの世界でもメディアは最近「感動」という言葉とセットで報じる傾向が強く、そのせいで「感動」と言う言葉が本来の輝きを失って、薄汚れてしまったような気がします。
まあ、そんなふうにマスコミで使われる言葉のむなしさに嫌気がさしているものだから、家族が歌謡番組を見ていてもぼくはできるだけ離れて、別のことをやっているのです。
でも今回の紅白は珍しく、半分くらい(冷やかしで)見ていました。その中で唯一心から楽しめた歌がありました。「マツケンサンバ」です。実際、事前のおおかたの評判では今回の目玉はこの曲くらいしかないということでしたね。この歌が巷の話題になっていたことは何か月も前から聞いていましたが、こんなに楽しい歌だとは思いませんでした。説得力のない紅白全体のテーマとは関係なく、これくらいエンタテインメントに徹してくれるとうれしいですね。時代劇衣装とサンバの組み合わせなんて、ほんとに新鮮です。音楽といい衣装といい踊りといい、文句なく楽しめて、これをトリにしてもいいくらいだと思いました。でもそうすると、まるで紅白全体がマツケンのショーみたいな印象になってしまうから、初出場の人にそこまでやらせるというのは状況が許さなかったのでしょうね。
で、ぼくはあのつまらないテーマがどうしても気になるものだから、次回の紅白歌合戦のテーマを思いつきました。「肺・肝臓・脂肪」。
副題がついていて、「たばこをやめよう、お酒を控えよう、脂っこいものも控えよう」。いかがでしょう。健康志向の時代にピッタリで、より具体的だと思いませんか?
……紅白とはまるで関係のない、単なるオヤジギャグですね、はい、ごめんなさい。
ということば……(59) 顔見せは人生の80パーセント
12/11
原語では
"Showing up is 80% of life."
アメリカの俳優、ウッディ・アレンの言葉です。
10年以上も前にラジオのビジネス英語講座で覚えたのですが、とても気に入っています。こうすることが正しいと言うことではなく、人生はそうなのだと、共感される方は多いのではないでしょうか。若い頃はよくわからなかったけど、社会に出て何年も経つと、この言葉が真実であることをしみじみ感じるようになります。それはもう、良くも悪くも、いろんな意味で。
小泉首相もこの手を盛んに使っている。あの人がこれまでやってきたことや言っていることが日本のためにいいのかどうかはなはだ疑問だけれど、彼はやたらテレビに出てくる。特にスポーツや芸能界の有名人をうまく利用しています。首相としての能力とは関係なく、テレビへの露出度が今の支持率を作り出しているのです。
ビジネスに携わる人たちは、営業の大切さを実感しているからこそ、絶えず顔を売って覚えてもらえるよう努力しています。音沙汰がないよりはあった方がいい。ついでに顔を出した方がもっといい。
ここで書家の石川九楊氏による面白い指摘があります。氏によれば、人間はもともと手(技術)の存在で、共同で仕事をするにも「手合わせ」することが重要だったのだけれど、いつの間にか技術がおろそかにされ、「顔合わせ」という、知名度や人脈だけがものを言うようになってきてしまったと言うのです。一理ありますね。
手と顔と、両方バランスをとりながらやっていきましょう。それこそがぼくたちみんなの未来を明るくするのです。
ちなみに日本語でショーアップと言うと「飾り立てる」というような意味で用いますが、英語の
Show up は、単に「姿を現す」という意味です。
ということば……(58) 冷蔵庫に入れ忘れたバター
10/21
サッカーの中田英寿はここ数ヶ月、故障のおかげで試合から遠ざかっていましたが、最近ようやく復帰しました。パッとしないものだからメディアに登場する機会がめっきり減ってしまいました。
先日インターネット上で久しぶりに中田に関するニュースを見ました。それによると地元で中田に厳しい評価が出ているそうです。試合に貢献できなかった中田のことを新聞では「冷蔵庫に入れ忘れたバターのように使いものにならない」と表現したそうです。スポーツを扱うメディアは目の前の結果しか見ないところがあるから、結構いいかげんなものだとは思うのですが、記事の内容とは別にぼくの興味を引いたのは、この比喩。バターは日本人の生活になじんだものとはいえ、これは日本文化の中からは出てこない表現です。
これはイタリア語の慣用句なのか、記事を掲載した記者が思いついた比喩なのか。後者だとすると、記者には文学的才能があると言っていいでしょう。また、慣用句だとしても、そんなに古くからある言い方ではないでしょう。だって冷蔵庫なんていう単語が出てくるのだから。でもどこか、私たちにはピンとこない比喩にも思えます。
使いものにならない、という訳になっていますが、このイメージは中田個人の運動能力が落ちているとか機能していないというよりも、トロトロになってしまりがなくなっている、味が損なわれているという感じですね。バターは欧米料理の味付けの基本ですよね。ゲームの中心として機能すべき選手がうまく動けないと、全体に影響を及ぼすと言うことです。
でも、もう一度冷蔵庫に入れればバターはシャキッとするんですよ。中田もそう。世の東西を問わず、メディアって、目先だけに目を奪われてない?
ということば……(57) 迷惑をかける
4/28
イラクでの日本人人質事件は一応解決して、騒ぎは少し沈静化してますが、解放された3人へのバッシングが日本国中で吹き荒れています。
ぼくもこの事件に関してはいろいろ思うところがあって、このサイトでも何度か意見を書こうと試みたのですが、いろんな要素が絡んでいるので、考えがまとまりませんでした。
この事件で大きくクローズアップされた言葉が「自己責任」。この言葉をめぐって論争が繰り広げられていて、ぼくもこの言葉についてあれこれ考えました。アメリカの新聞ではローマ字で
JIKOSEKININ と表現されたそうですから、翻訳不可能の概念ととらえられているのだと思います。
外国メディアの報道・論評について聞いているうちに、ぼくは、今度のバッシングはもっと日本人の精神構造に深く根ざした問題のような気がしてきました。自己責任とは何か、国の義務とは何か、なんて難しそうに論じているけれど、でもこの現象の根っこには日本独特のものが絡んでいて、外国人たちにはそこがよく見えないから、全体がはなはだ奇妙で理解しがたいものに映るのではないでしょうか。
そこでぼくは、今度のバッシング現象を一つの観点から考えてみました。それはある意味すごく単純でばかばかしいことでありながら、実際には死活問題につながりかねない日本社会のルールという観点です。
外国のメディアが翻訳できないだろうと思われるもう一つのキーワードが、みなさんあまり取り上げませんけど、「迷惑をかけた」という表現です。解放後に3人がイラクにまた行きたいと発言したことに対して、小泉首相が「これだけ迷惑をかけながら、まだそういうことを言いますかね」と言ってました。福田官房長官もこの言葉を使っていました。自己責任うんぬんより「お上」や「世間」に迷惑をかけたことの方が、彼らの逆鱗に触れたのではないでしょうか。
「世間」に迷惑をかけるかかけないか、これは日本社会で生きていくときにものすごく重要な概念ですよね。みんなこれを気にして日々汲々として生きているのです。それはほとんど無意識のレベルにまで浸透している不文律と言っていいでしょう。そして外国人には理解できない。ここで何が「迷惑」と解釈されるかは、単に他人に損失を与えたということではなく、それに伴う言動(立居振舞)が日本の規範を逸脱しているかどうかにかかってくるのです。
ずっと前にテレビで、子どもを産んだあるタレント(だったと思う)が、どんな人間に育ってほしいですかと聞かれ、「他人に迷惑をかけない子」と答えていました。とても印象的な答えでした。こんな言葉が最初に出てきてしまうのです。これを聞いて違和感を覚える日本人は少ないのではないでしょうか。でも外国人がこんな発言をする姿を想像できますか?
日本は欧米風の近代国家を装っているけれど、国家と個人の関係を見るとき、欧米の概念が当てはまらないということが、今回の人質事件で露呈したのだと思います(欧米のまねをする必要はないけど、自己欺瞞は良くない)。国家はどこまでも「お上」であり、そして今回のような抜き差しならない状況では、やはり日本的なものの言い方や処世術のほうがはるかに重要で効果的なのです。
あの高遠さんの家族の言動は、その点で多くの人たちの神経を逆なでするものであったということでしょう。あの人たちは危機的状況に追い込まれて、せっぱ詰まった思いを正直にさらけ出してしまったけれど、簡単な話、いわゆる伝統的な「しおらしい態度」で状況を見守っていれば、もっと世間の同情を集め、政府官僚たちも逆ギレせずに任務を遂行していたのではないかと思うのです。解放されたあとも、「ほとぼりが冷めるまでおとなしくしていれば」もっとスムーズに事は進んだはずです。3人とその家族に対して「何だ、その物の言い方は!」という、ありふれたドラマに出てきそうなセリフを言いたくなる感情は、今も日本人社会の中にしっかり生きているのだと思います。
イラクでのボランティア活動がりっぱな行為であるかどうか、あるいは政治的に正しいかどうかよりも、日本では「世間」とのつきあい方が最優先されるのではないか。その時、日本人の視野にあるのは国際社会ではなく、どこまでも日本社会の「世間」です。このあたりは阿部謹也氏の著書で明快に説明されています。
あの3人とその家族は、「世間」に迷惑をかけちゃったんですよ。
政治家にしろ芸能人にしろ一般人にしろ、ろくでもないことをやっている人は数え切れないほどいます。しかしその中の小賢しくずるい人たちは、日本社会に脈々と受け継がれる暗黙のルールを器用に守っているおかげで、バッシングを受けることなく、堂々と大きな顔をして(時には尊敬さえ集めて)歩いているというわけです。
寂しいことに、それが日本社会なのだと思います。
ということば……(56) よく寝て、よく食べて、よく笑う
4/15
昨日のNHK「ニュース10」に卓球の福原愛選手が出てきました。シングルとダブル両方でアテネ五輪出場を決めて帰国したばかり。この人の受け答えは大変面白い。声や雰囲気が山瀬まみさんに似ています。インタビューの最後に、五輪に向けての言葉ということで、あらかじめ用意していた色紙を見せてくれました。その言葉が上のタイトルです。
つまり、健康に気をつけて体調を整えて試合に臨みたいと言うことです、と言っていましたが、すごく当たり前のことを気負いなく普通に言っているところが素敵でした。「みなさんもそうだと思いますが、わたしは笑っているときが一番調子がいいので、なるべく笑っていたいと思います」。誰でもそう思うけど、意外に実行できないものです。
テレビで何か一言と頼まれると、ぼくだったらきっと緊張して、難しいことやしゃれたことを言わなければならないような強迫観念におそわれてしまうでしょうが、基本をさらっと答えるところがぼくは気に入りました。
選手権の試合の様子をビデオで見ながら、有働アナウンサーが「勝負師の顔ですね」と言ったら、愛さんは「まわりの人は複雑に考えていると思うかもしれませんが、何も考えていないんです」とひょうひょうと答えていました。でもそれは、こういう一流のスポーツ選手の場合、ほとんど考える前に体が反応しているということでしょう。ぼくのような素人にはわからないレベルです。それくらいのレベルの人が、みんなが言っているような生活の基本を言ってくれたのがぼくにはほほえましく、また不思議に感動的なのでした。
ということば……(55) そして、私は不機嫌なまま……
2/23
年末だったか年の初めだったか、本屋の新刊コーナーで佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』(筑摩書房)を見かけました。目に飛び込んできたのは、帯に書かれた言葉。それがぼくにその本を開いてみたいと思わせたのでした。
「そして、私は不機嫌なまま六十五歳になった」
なんて粋な言葉なんだろう。こんな言葉を素直に口にしてしまえるところが、佐野さんはやっぱり詩人なんだな。
放埒も怠惰も不機嫌も、若いうちはいくらか許されるかもしれませんが、老いてからはただ見苦しいばかり。歳をとったらなるべく穏やかでありたい。誰でもそう願います。でも、そう願って実行できるほど人間は単純ではないのです。
この言葉を目にしたとき、ぼくは発見しました。物に対しては少しでもうまくいくように、人に対してはつい「いい人」であるようにと、気を張りつめている自分の中に、知らぬ間に「不機嫌」が居座っているのを。実はぼくは不機嫌だったんだ。そしてそれを佐野さんに言ってもらったことで気持ちが軽くなった、そんな一瞬だったのです。
パラッと開いて読み始めたら、痴呆になった90過ぎの老女とのおかしなやりとりから始まっていました。少し読み進むと、その老女が著者のお母さんであることがわかります。笑ってしまいました。すごく笑えるんだけど、でも雑誌の投稿で見かけるような薄っぺらなお笑いエッセイではない。だって、痴呆の親を介護するっていうのは現実には単純に笑えるようなものではありませんからね。現実は悲惨なのに無理しておもしろおかしく書いても、見え透いてしまうものです。ぼくも今似たような状況にあるから、他人ごとではありません。無理に明るくもせず、でも深刻にもなりすぎないように現実を描写し思いをつづっていくのは、並みの力量ではできないことです。
佐野さんは、年老いた親との日々だけでなく、自分自身の老いも語っています。それがまた笑えるし、共感してしまうのです。そちらの方はぼくにはもう少し先ではあるけど。
22日付読売新聞の読書欄で、著者とともにこの本が紹介されていました。世の中には、心や頭の作り、身体感覚が自分とはまったく異なる人がいるものですが、この人もその一人。つまりぼくが努力して追いつく種類の人ではなく、違う世界を生きているということ。生来の小心ゆえに、つい気張ってがんばってしまうぼくには、自分や世界をこんなふうに突き放して見られる人がうらやましい。
ぼくには縁遠い世界であることの証左は、この記事で知った次のようなエピソードにも見られます。あの有名な絵本『100万回生きた猫』は、最初の1行が浮かんだとたんに物語が完成し、たった15分で書き上げたんだそうです(もちろん文章の方だけでしょうが)。
詩人て、そうなのかもしれません。
ということば……(54) 詩のボクシング
11/5
文化の日、夜中にたまたま見た「詩のボクシング」(NHK教育)が面白かった。数年前に一度見たことがあったのですが、もう8回目なんだそうです。出場者は1対1で対戦します。ボクシングのように赤コーナーと青コーナーに分かれて、自作の詩を朗読するのです。勝敗は審査員の投票で決まります。トーナメント方式で勝ち進み、最後に勝ち残った人が優勝。優勝決定戦では自作朗読のほかに、その場で与えられるテーマに基づいて即興詩を演じなければならず、これが結構難しい。
今回は高校生大会。非常にレベルが高かった。あ、すごいなと思える発想や視点の詩がたくさんありました。まあ、中にはちょっと奇をてらっているかな、というのもあったけどね。会場で朗読を聴いている高校生たちの投票で勝敗が決まるから、勢い、その場でパッと受ける内容とパフォーマンスの詩の方が勝ち残ってしまう。そんな欠点が、この判定方法にはあるのです。だからじっくりと味わい考えさせる性格の詩が涙をのんで敗退、という事態が起きます。でも総じて、出場者はそれぞれに一生懸命言葉の問題を考え、問いかけ、表現していました。
ぼくは最近のJ-POPの、金太郎飴のように単調で底の浅い歌詞にウンザリしていたから、若い人たちがかわいそうだと思っていました。でも彼らも、決してそういう世界にどっぷりつかっているわけではないのですね。全く異質な言葉の世界を構築している人たちがいるのです。もちろんJ-POPがすべて安っぽいとは言わないけれど、ぼくには歌手もメロディーもリズムも言葉も、最近ますますクローン化してきているような気がするのです。それはつまりこの手の「文化」というものが、ビジネスの損得勘定だけから生み出されているからでしょう。子どもや若い人をターゲットにした音楽やアニメに出てくる歌詞やセリフを聴いていると、言葉って、そんなもんじゃないのにな、と思うことが多いのです。でも「詩のボクシング」を見て、詩や言葉が何であるかを理解し、実際に作っている若い人たちがこんなにいるんだとわかり、ぼくはとてもうれしくなりました(こういう感想って、オヤジかなあ)。
番組の最後に、解説者の一人、詩人の佐々木幹郎さんがいいこと言ってました。「高校生のみなさんは携帯でメールを送っているでしょう。その中で絵文字をよく使うけど、絵文字の代わりに言葉で表現してごらんなさい。つい絵文字に頼りたくなるような気持ちを、何とか言葉で表そうとする、そこから詩が生まれるんですよ」って。ほんと、同感でした。
ということば……A(1〜15) B(16〜29) C(30〜45)
D(46〜53)
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