もう連休?  4/25
 
こちらのサイトは更新をする頻度が減り、せっかく訪れてくれる人たちをがっかりさせていることと思います。ごめんなさい。Mac OSX でのリニューアルをしようと思ったものの、HP作成ソフトの新バージョンを使いこなす学習に四苦八苦していて、延び延びになっているのです。
 そうこうするうちに娘の大学生が始まりました。左のKaai's Gallery もいいかげん更新しなくてはいけませんね。大学で今描いている作品が、完成したら自宅に持って帰るように言われているそうです。それができなければ大学で即処分されるらしいのだけど、ものが大きくて持って帰れない、と嘆いていました。ちょっとくらいおいといてくれたっていいだろうに。
 新年度が始まったと思ったら、母が郷里で骨折したという知らせが入りました。比較的単純な骨折だったので手術も無事終わり、その後の回復もまあ順調には見えるのですが、何しろ高齢。この先どうなることか。ここ数ヶ月帰省できずにいたのですが、こんな事情で帰ることになるなんて、現実はこんなものですね。
 世の中はもう連休に入っているようですが、ぼくは連休とは関係なく、帰省の機会が増えそうです。

慣性の法則 4/9
 
今日は初夏の陽気でした。練馬区は最高気温25℃。今年初めての夏日だとか。
 昼過ぎ、仕事のアイデアを考えるために近くのドトールに行きましたが、注文したのはアイスコーヒー。そしたら、まわりの人たちが飲んでいたのも圧倒的にアイスコーヒーでした。
 ぼくは今週薄手の長袖シャツ1枚で過ごしていますが、今日あたりは半袖でもいいくらい。しかし、まわりを見渡すと、人は意外に臨機応変の対応ができずにいることがわかります。多くの人が、昨日までの服装を今日も着続けているのです。ジャンパーやセーターを着ていたり、足元を見てもブーツを履いている女性が結構いたり。これは決して衣替えが間に合わない、ということではないような気がします。かといって、こういうのを慣性の法則などとは言わないのだろうけど。
 逆に、秋の季節、寒くなっても薄着をしているという人はあまりいないようだから、おしなべて人は厚着をしたがるのでしょうね。
 夕方のジョグでぼくは、今週からTシャツと短パンで走ってますが、今日みたいな日に冬のトレーニングウェアで走っている人を見ると、移動式サウナとして利用しているんだろうかと思ってしまうのです。

マラソンの写真 4/1
 
3月15日に出場した荒川市民マラソンの写真が先日、送られてきました。大会の報告はブログでお読みいただくとして、当サイトでは勇姿をごらんください! 走りっぷりから見て、おそらくレースの前半部分だと思います。ぼくも横のランナーもまだ余裕の表情ですからね。
 マラソン大会では必ずプロのカメラマンがこうやって参加者を撮影してくれるんですね。ありがたいことです。去年12月にハーフマラソンに出たときは、初めての大会参加だったので、カメラを見ちゃいけないとまじめに前を向いて走ってましたが、今回は2回目なので余裕ができて、カメラマンに手を振ったりしてました。そしたらできあがってきた写真を子どもたちが見て、「みんなカメラ目線じゃない」とあきれられました。でもちゃんと写ってるからいいんですよ。
 妻は「人が多すぎて最初から最後までお父さんの姿が見つけられなかった」と言ってました。当然、写真は撮っていないし、ゴールをしたのもわからず、見当違いのところで待っていました。ああ……。

クレーの詩的世界  3/23
 
先週、東急文化村へピカソ・クレー展を見に行きました。展覧会はもう終わっちゃいました。ごめんなさい。
 ピカソ、クレー以外に20世紀初頭に活躍した画家たちの作品が展示されていました。ピカソは好きな絵と同じくらい、何も感じない絵があります。その辺が巨人なんだろうけどね。
マグリットの作品も3点もあって、この人の絵もやっぱりいつ見てもいい。
 
一番の目的はクレーです。去年の秋に二科展で大量に並ぶいわゆる抽象画を見て、多くの抽象画が単なる自己満足の作業でしかないようにに思えて辟易したのだけれど、クレーの抽象画はやはり違うと、見るたびに思います。
 その魅力は、何と言っても色彩、そして構成力、ユーモア、……他にもまだありそう。
その詩的世界には、カラッとしたところがあり、日本文化の湿り気とは遠い世界です。でもクレーは日本人にも人気があるのですよね。ある人に言わせれば、それはクレーの絵が東洋的要素を持っているからだそうです。確かにそうかも知れない。
 マグリットの絵の前で腕組みをして眺めていた60代とおぼしき男性が、一言「わからん……」とつぶやきながらその場を離れた姿が印象的でした。

サブリミナル  3/16
 
体質のことを前回書きましたが、その関連の話題。人間の行動や意思決定が自覚されない部分で行われていることをていねいに解説している本を見つけました。『サブリミナル・インパクト』(下條信輔著、ちくま新書、2008)です。副題が「情動と潜在認知の現代」。現代社会の情報が私たちの潜在脳に働きかけて、選択や意思決定にまで影響を与えていることを分析しています。
 サブリミナルという言葉が
日本で一般に知られるようになったのは、30年以上前、「刑事コロンボ」の「意識の下の映像」からではなかったでしょうか。殺人事件の発生と解決の両方にサブリミナル効果が絡む、面白いストーリーでした。
 
下條さんの本を読むと、サブリミナルが私たちの日常行動のあらゆる部分に浸透していることがわかります。自覚されないことの怖さ。「怖い」の一言で片づけてしまうと誤解を招きますが、人間の心(あるいは脳)は海であり、そこには光が通らない深海が広がっていて、さらにそれはたやすく操作されるものだということを、この本で知らされるのです。
 同じ著者の『サブリミナル・マインド』(中公新書、1996)は本書の前身とも言うべきもので、今それを読んでいる最中です。

はじめに体質あり 3/6
 
比喩としてではなく、本来の意味での「体質」を変えた方が、人は生き方を確実に変えられるのではないでしょうか。その考えは去年から確信になっています。
 昔、ある人に「大人になったら、人は思想で生きることが大切だ」と言われましたが、その後いろんな人を観察していると、人の行動原理として、思想よりも先に体質があるのではないかと思うようになりました。思想とか理屈は、自分の行動や判断を正当化するために、あとからくっつけるものに過ぎないのではないか。
 理性理性と偉そうに言ってみても、
理性は身体から独立してはいない。実は、服、食べ物、読む本、スポーツ、恋人、友人などの好みと同様、無意識のうちに自分の体質にあった思想を選んでいるのです。
 だから自分の人生を変えたかったら、何を食べるかから始まって、まず身体を変えた方がいいと言うことです。どんな風に体を動かし、どんな生活リズムで過ごすか。その生活習慣が体質を決め、さらにはものの見方や考え方、そして人格を決定していくのですね。
 「体が資本だから」と人が言う時、身体は頭脳に対して隷属的な地位に貶められています。しかし、むしろ身体は頭脳より先にあなたを決定するものなのです。

ちょっとだけイースター  3/2
 ウェブサイトで家族のことを話すと、何でもかんでもバラさないでよ、と文句を言われます。
そのたびに思い出すのが、昔やすきよの漫才で西川きよしが横山やすしに言った言葉。「これだけのお客さんを笑わすんや。どこぞの家庭が犠牲にならなあかん」いや、もちろん、ぼくは笑わすつもりでやってるわけじゃないし、そんなネタ、不器用なわが家族にはありませんけどね。
 キリスト教の暦では、今年は先週の水曜日から受難節に入っています。4月12日のイースターまで40日間なのですが、わが家は去年からずっと受難節が続いていました。ぼく個人について言えば10年間受難節だと、勝手に思いこんでいるんだけれど、まあとにかく去年のこの時期はちょっとたいへんだったのです。でもぼくはあの時、ノートに書き込んだのですよ。「わが家の復活は来年だ」と。
 娘の大学合格日がちょうど、受難節の最初の日でしたが、わが家はちょっとずれて、この日がイースター。他にもくぐってる最中のトンネルはいくつもあるのだけど、イースターの喜びをほんの少し先取りさせてもらっているのだと解釈しています。それで食卓には連日、目玉焼きや温泉卵やゆで卵が……。

1〜2月の「ごあいさつごあいさつ」