女児たちとかけっこ 6/28
またランニングの話です。今日は朝からいろいろあったので、午前中は時間がとれず、夕方4時半頃に走りました。この時間帯は体はほぐれているのだけど、通りも公園も人が多くてちょっと走りづらい。
途中、陸上競技場のトラックを通ります。いろんな人が走ったり歩いたり、遊んだりしています。ぼくが2周目を走っていたら、前に小学校2年くらいの女の子3人が横に並んで歩いていました。外側をぼくが走って通り過ぎたら、後ろの方で「この人、抜かしちゃおうか」という声が聞こえてきて、足音がにわかに速まりました。おー、おじさんと競走か。ぼくはペースを変えずに走り続けます。するとしばらくしてから「せいの」というかけ声とともに、いっせいにダダダッとダッシュする音が迫ってきました。よし、追いつかれたらわざとスピード上げてやろうか、なーんて考えました。
そのうちの二人はすぐに諦めました。でも一人の女の子はぼくを追い抜いてから振り返って、照れくさそうな表情でぼくの顔を見ました。ぼくは「ほら、がんばれ!」って声をかけたんだけど、その子はそのまま歩き続け、後ろの方に小さくなっていきました。
どうってことない出来事だけど、面白かったです。元気な子たちでした。
ターシャさん亡くなる 6/24
ターシャ・テューダーさんが亡くなりましたね。土曜日の朝刊に出ていた記事を見て驚きました。残念です。亡くなられたのは18日とのこと。92歳。
2006年の暮れにNHKで放映された番組「ターシャからの贈りもの」では91歳の誕生日を家族とともに祝う様子が紹介されていて、元気な様子を見せてくれていたので、百歳まで生きるような気がしていました。1世紀を生ききって、自然とともにある素晴らしい生き方・素敵な老い方のお手本を示し続けてほしかった。
素敵な老い方と言っても、多くの人にとって現実はなかなか厳しく、ターシャさんのような生活を実現するには、本人の努力や資質以外に、環境や家族の協力など、さまざまな要因がかかわってきます。今の自分を顧みても、あのような生き方とはほど遠い毎日を送っています。でもこの人の基本姿勢を見習って過ごすだけでも、日々の輝きはずいぶん違って来るんじゃないかと思っています。
確かなのは、人が幸福な生活を築くために、現代文明はそれほど重要な要素ではないと、ターシャさんが教えてくれたことです。日本の自然は、いつもそのことを私たちに語りかけてくれているはずなのですが。
走ってます 6/21
今年の3月から再開した早朝ランニングが今も続いています。足を痛めていないことが挫折していない要因の一つでもあります。
いつもは息子と一緒に走りますが、土曜日はぼく一人で、いつもよりやや多めに5kmほど。ジョギングは昔からちょこちょこやっていたのですが、長くて10km
程度。フルマラソンなんてやったことありません。
知り合いのタクシー運転手でフルマラソンをやっている人がいます。公園を走っていると、ときどき見かけて挨拶をします。先日も会ったので走りながら世間話をしていたら、光が丘にホノルルマラソンの年齢別部門で2度優勝をした69歳のランナーがいると聞きました。記録は3時間15分。ウソだろーっ! 「ほら、あの人ですよ」と教えてもらったランナーは、軽快に遠くを走り抜けていきました。
42.195km なんてぼくには実現不可能な夢の夢の距離、と思っているのですが、そういうふうに最初から決めつけているのが良くないのかも知れません。一度目標を立ててトライしてみるのも悪くないかな、と思い直すようになりました。
来年の東京マラソンは、奇しくもぼくの誕生日。よし、出てみるか。
桜桃忌 6/19
今日は太宰治の忌日。ぼくはそれほど太宰のファンというわけではありませんが、「御伽草子」だけは、高校の教科書で読んで面白いと思い、新潮文庫で全部読みました。ぼくは高校時代は三島由紀夫が好きで、その三島が太宰を毛嫌いしていたことは有名です(三島もまた独特の精神構造を持っていましたが)。
数ヶ月前に「人間失格」をもう一度読んでみたのだけれど、やっぱり挫折しました。彼の描き出す世界や精神状況は、読む側によほどの精神的余裕がなければ、自分の生活が維持できなくなり、とても共感はできません。
文学にしても芸術にしても、必ずしも生きることに役立つものである必要はないのだろうけれど、ぼくにとってはそう言うものであってほしい。特に今の時代、経済的に生活の不安がなく、それを手放す気もさらさらなくて太宰のファンと主張する人がいるとしたら、そんな人はあまり信用できないんじゃないかと、ぼくは思います。
しかし、地道な人生や生活を引き受けて生きていこうと思うなら、三島の文学もまるで役に立たないわけで、そうなると、大江健三郎さんか井上ひさしさんの文学、ということになるのでしょう。
しょうがない記事 6/17
日曜日(15日)の朝日新聞に、子どもとケータイについて3人の論者が賛否を述べていました。ケータイを持たせるべきだという擁護論(推進論)を主張するのが、ソフトバンク社長室長ですが、最初の数行を読んで、腹が立ってきました。子どもの成長への深い考察もなく、ケータイのデメリットについてはほとんど触れず、いいところだけを宣伝しまくるという、広報としては最低のやり方です。こういう企業人がいるから、秋葉原の通り魔みたいな人間が次々と出て来るんだよ、と思わず毒づいてしまいました。
今、日本の社会がおかしくなってきていることは多くの人たちが肌で感じています。それを是正するのに何かを規制しようとすれば、関連の企業からは猛反発があります。それは十分予想できるし、彼らの主張も一理あります。規制すればいいというものでもなく、権力による規制というのも問題がある。
しかし、おかしくなった社会について、誰もが少しずつ責任を負っていることも事実じゃありませんか。責任を引き受けようともせず、目を向けようともせず、自分たちに都合のいい論理だけを展開する時代遅れの感覚にはあきれてしまうのです。
でも、実際にビジネス界にはこんな人、多いんだろうなあ。
創作意欲と自殺 6/13
先月だったか、NHK「新日曜美術館」でゴーギャンを特集していました。よく知られている大作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という絵は、彼が一度死のうと思って、遺書代わりに制作したものなんだと言うことを知りました。
しかし、ぼくは見ていて思いました。自殺しようとする人がこれほどの創作意欲を持てるのだろうか? ふつう自殺する人は気力そのものをなくしてしまってるのではないか。何かを造り出そうとするエネルギーはものすごいもので、それができるうちは人間、死ぬことなんてできないんじゃないか、と推測するのです。ゴーギャンは本当は死のうなんて思っていなかったんじゃないか。
同じことが、漱石の「こころ」に出てくる「先生」にも言えます。あの小説の後半は不自然なくらい長い「先生」の遺書なのですが、あれだけのものを書き終えたら、人は充実感に満たされて、もう死ななくていいと思うんじゃないかと思うのです。まあ、こちらは作者が仕掛けた意図的な構造がありそうですが。
創作意欲やエネルギーは、生きたいという衝動とつながっているものなんじゃないのか、という考えは単純すぎるのでしょうかね。
伝染する悪意 6/11
秋葉原で日曜日に悲惨な事件が発生しました。またしても。日本はほんとうに病んでいる。
こういうニュースを聞くたびに思い出すのは「CURE キュア」という、黒沢清監督、役所広司主演のサイコ・サスペンス映画(1997)。現代社会を鋭く描き出した傑作です。連続発生する猟奇殺人事件の犯人たちはそれぞれ何のつながりもないのですが、事件には一人の男が絡んでいて、殺意がその男を介して伝染していくという構図になっています。まだの方、ぜひご覧ください。
頻発する凶悪事件のニュースは、現実社会がまさにこの作品を模倣しているのではないかという錯覚に陥らせます。悪意の伝染という点において。
この種の凶悪犯罪が頻発するということは、そういう悪意が伝染していく、あるいは醸し出される土壌(「空気」とはあえて言わないでおきます)が間違いなく社会にあるわけです。犯人個人の動機分析もいいけれど、社会全体の病理を少しでも減らしていくことをみんなが真剣に考え、努力することが急務でしょう。病んでいる社会は、他人事ではないのです。自分は悪意に感染していないし、する恐れもないと、誰が断言できるでしょう?
木版画も奥が深い 6/9
木版画と聞いて、一般の人たちはどんな作家を思い浮かべるのでしょうか。ぼくもほとんど知識がありませんが、一番有名なところでは棟方志功でしょうね。でも木版画もいろんな表現が可能で、図書館やインターネットで調べたら、驚くほどのバリエーションがあり、そのレベルの高さに、びっくりしてしまいます。こんなことを木版画でやっちゃうのか、と。すぐれた作家がたくさんいて、そのセンスや技術の高さや忍耐力には頭が下がります。浮世絵の伝統が脈々と伝えられていると言うことでしょう。
西洋の木版画はまた違った味わいを持っていますが、その中でも、エッシャーのあのすごい世界は木版画で作られているのだと(全部ではないけれど)改めて思い起こし、日本の版画とは全く異なった世界が展開していることに感動を覚えます。
先週、葉書サイズの2作目を作ったのですが、やはり摺りがうまくいかず、ここに掲載できるレベルには達していません。うー、先が長い。しかし、めげない。コツコツとやっていくつもりです。
「きぼう」 6/5
今日、スペースシャトルの星出飛行士が日本の有人宇宙施設「きぼう」の船内実験室に入っていく様子がテレビに映し出されました。その映像がとても楽しかった。
まず、実験室に入る前に「きぼう」とひらがなで書かれた暖簾(のれん)を入り口にとりつけたのが何とも楽しげ。次に、カメラに向かってフワフワと飛んでくる星出さんの持つ紙には「いらっしゃ〜い! Welcome」と。そして裏返すと「宇宙実験&宇宙飛行士募集!」の文字。笑っちゃいました。いいなあ、ユーモラスでリラックスした雰囲気。
その後、飛行士たちが全員で作業をしていたのですが、そのうちの一人が着ていたTシャツの背中には「マツイ」というカタカナと「55」の背番号が書かれてありました。厳しい訓練を経て高度なテクニックを駆使しながら仕事をしている宇宙飛行士たちが、常にこんな遊び心を持ってやっているところが、見ていて嬉しくなります。
「きぼう」のおかげもあって、このところ日本人宇宙飛行士たちが大活躍です。なんだか心がワクワクしてきます。これからどんなふうに展開していくのか、ちょっと関心を持って見ていきましょう。
5月の「ごあいさつごあいさつ」
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